#2 ターニングナイト




変わらず降り続ける雪が、髪や肩に白く積もっていく。

暗黒シティ中央地区、小 さ な 橋 駅リトルブリッジステーション南口前のロータリーに、カタナ=シラバノの姿はあった。
街灯からも離れたベンチに腰掛けて、改札口に吸い込まれては吐き出されていく人波を見るともなしに眺めている。暗がりの中ぽつんと座るその姿を、誰があのシラバノの姫だと思うだろうか。
事実行き交う誰もが彼女を目に止めることもなく、祭会場へと、あるいは家路へと足を急がせていた。

───駅構内に、発車を知らせるベルが鳴り響く。
列車から降りて来る人たちと、列車へ乗り込む人たちの、いずれもの人気が途絶えるひとときの空隙。
何かを決意したように、カタナはきゅっと唇を引き結び、胸元からあるものを取り出した。
黒と白の鉤十字をくすんだ銀の輪にあしらった装飾。……いつかのクローディア市場でクロラットに強引に贈らせた、あのペンダントだった。

「……………………」

……それがなぜだか、ひどく重い。

思えば彼から「カタチに残るもの」を貰ったのは、これが最初で最後だったことになる。
別に大したものでもない、シラバノグループの次期総帥が身に着けるものとしては、あまりにも粗末なシロモノ。───なのに、どうしてそれがこんなにも名残惜しいんだろう。

もう、こんなもの持っていたって仕方ない。
持っていれば持っているだけ、かえって思い出を引きずってしまう。ならばこの未練を吹っ切るためにも、こんなものはすぐにでも捨ててしまうべきではないのか。
そこまで考えて、彼女は思わず苦笑した。
未練、……未練か。


 『――――私と組んで、後悔しなかった?』


……ほんとうに。
わたしは何を、期待していたのだろう。

「…………っ」

握りしめて、目を瞑って、何度も躊躇って。
彼女は大きく腕を振りかぶると、手にしたそれをロータリーに向かって投げ捨てた。

かしゃん、と、軽い音が遠くで鳴る。

「────あ……」
手の中の重みはもうなくなって。……ほんとうに、これでおしまいなんだと、実感した。
軽くなったのは、てのひらだけじゃない。心が、身体が、まるで半分になってしまったような喪失感。
……本当は、何も失ってなんかいない。もともとあるべきカタチに戻った、ただそれだけの話。
だいいちこの別れは、最初から決められていたことなのだ。それでも構わないとしたのは、他の誰でもない自分自身ではないか。

だから。傷付くのは、きっと筋違いで。
だから。泣くことなんて、出来るはずもない。

カタナ=シラバノは、こうしてもとの生活に戻るだけ。
夢は叶わなかったけれど、それでも夢を追い駆けた日々は、決して悔いるようなものではなかったはず。ならばこんな感傷は振り切って、わたしはわたしの道を再び歩き始めなければ───

……たとえ、もう。心から笑うことが、出来なくなったとしても。


すぅ、と、冷たい空気を肺いっぱいに満たす。
迷うのはもう終わり。どうせ戻らないものならば、捨て去ってでも前に進まなければならない。心を凍り付かせても───わたしにはわたしの誓いがあるのだから。
ゆっくりと瞼を開く。

────その先に、彼女は、ありえない光景を見た。



「……ひどいなぁ。カタナが欲しいって言ったんじゃないか」



からからと音を立てて転がるペンダントが、かつんと靴先にぶつかって止まる。
それを拾い上げる手。夜の闇に溶け込みそうな真っ黒な風体。その姿を、その声を、この世の誰が間違えたとしても、自分だけは決して間違えはしない。

────だからこそ。これが、ありえない夢なんだってわかってる。

「…………うそ、だよ。君がくるはず……ないんだから……」

だって。もういっしょにいる理由なんかないって。一年でお別れだって、言ったのは、君なのに。
だから、こんなのはきっと夢だ。
別れを惜しむ気持ちが見せただけの、自分に都合のいい幻。


……降りしきる雪の中、とおくには祭りの喧騒。誰もいない駅のロータリーで、当たり前のようにやって来る君。

そんな、おとぎ話みたいな再会シーン。


きっと今だけの幻。君にそんな気の利いたこと、できるわけないんだからっ……

「……っ……、ぇ…………!」

そうでなければ、……報われない。
嘘で塗り固めた、ツギハギだらけのものだったけれど。それでも潔く、笑ってお別れしたつもりだったのに。
それを、こんなふうに現れられたら────きっとわたしは、ばかなわがままを言ってしまう。
「うそっ……だよ……! だって、君は嘘つきだもん……!」
「そうだね」
びくんっ!
返ってきた言葉に、身体が大きく震える。
もう必死だった。口元を押さえて、わがままが言葉になって出てしまわないように耐えるしかない。
なのに君は、いつものなんてことない足取りで、無遠慮に近づいて来る。
「……さっきも嘘や隠し事はなしって言ったのに、けっきょく嘘ついちゃったわけだからね。
 だからまぁ……あの話は、とりあえず無効ってことにしてくれないかな」
「………………!」
ほら、ますます夢じみてきた。
そんなこと、彼が言うはずがない。だって君はいつだって───本当に言ってほしいことは、嘘だって言ってくれなかったんだから。


* * *


ネオンサインのきらめく街並みを、賑やかな祭りにはどこか似つかわしくない静かなメロディが流れていく。
繊細なピアノの音色は生まれたばかりの恋人たちを祝福しているようにも聴こえるし、あるいは叶わなかった恋を癒す曲のようにも思える。いずれにしろその旋律は優しく、綺麗で、そして少しだけ切ない。
人波を掻き分け進むクロラットの耳にも、それは届いていた。
けして大仰な曲ではないし、流れるボリュームが大きいわけではない。だがざわめく人ごみの中、そのメロディだけがクリアに響く。
……だからだろうか。
カタナに会ったらなんて言うべきだろうか、とか。そもそも彼女は今どこにいるのだろうか、とか。
考えなければならないことはいくつもあったはずなのに、彼はただその曲だけを、頭の中で反芻していた。

無論なんの考えもなしに、闇雲に走っているわけではない。
自分と別れた後、カタナが『梟の巣』に戻るとは考えにくい。ましてや一人で祭会場に残るなんてことはまずないだろう。となればおそらく彼女が向かう先は、自宅と言えるシラバノのビル。
本社ビルは相変わらず市長軍に封鎖されたままで、主な経営活動は南地区で行っていたはず。その中で副社長であるカタナが戻るとすれば、シラバノ・コーポレーション第7ビルあたりか。

「……なら、とりあえずは南地区行きの列車が出る駅か……」

ここから一番近いとなると、小 さ な 橋 駅リトルブリッジステーションがそれだ。
はぁ、と一つ息を吐いて、クロラットは走るスピードを上げる。
人ごみの中を走るというのはそれだけで疲れる。もともと体力のない彼ならなおさらだ。足は疲れたし呼吸は切れるし、つくづく自分の貧弱さにはため息が出る。
けれどそれでも、走るのをやめるという選択肢は彼の中には浮かばなかった。
駅や道端で見つけられなければ、シラバノビルまで乗り込んででもカタナに会う。きっと───今頃ひとりで泣いているから。

それで今以上に別れたくなくなってしまうのは明白だ。
どんなに先延ばしにしたところで、いつか必ず別れは来る。互いを大切に想えば想うほど、それは乗り越えがたい悲しみとなるだろう。


────あぁ、だけど。
それでもこんなにも、こころが逸る。


グレイナインの言う通りだ。
難しいことは後で考えればいい。今はただ彼女に、会いたかった。

だから頭の中にあるのは、想いを奏でる澄んだメロディ。

すれ違う人波を、脇目も振らずにかき分けて走る。
それがいつしか途切れ、やがて誰もいない駅のロータリーへと辿り着いた。


 しんしんと降る雪の中。
   ひとりぽつんとベンチに座る、カタナの姿がそこにあった。


距離も離れているせいか、俯いた彼女はこちらに気付いていないようだった。手の中の何かを見つめ、躊躇うように何度も握ったり開いたりしている。
……躊躇っているのはこちらも同じ。やっと見つけたカタナの姿に、安心するのと同時にばかげた不安が頭をもたげる。
もちろんいまさら回れ右するつもりもないが、どうやって声をかけたものかがわからない。数瞬の間そこで足を止めた後、何も飾らないのが一番か、と考えて、ゆっくりと歩を進める。
ちょうどそのとき、カタナが腕を振りかぶって何かを投げ捨てた。
硬いものがコンクリートに当たる音。それはそのままからからと音を立てて、彼のつま先にぶつかった。

「────────」
見覚えのある鉤十字。
彼女が息を詰まらせるのがわかる。

……なんと言うかまぁ、それなりにショックだった。確かに安物だけど、まさか思いっきり投げ捨てられるとは。怒ってるかもなー、とは思ってたものの、どうもこれは本格的に駄目かもしれない。
ごめんグレイナイン、と心中で謝っておいてから、銀色の鎖を拾い上げる。


「……ひどいなぁ。カタナが欲しいって言ったんじゃないか」


* * *


「……って、カタナ、何か言って欲しいんだけど。ひょっとしてものすごく怒ってらっしゃいますか」
なんか懸命に拒絶されてるんですが。
押し黙ったままの彼女に、彼は早くも自信をなくしかけている様子だった。
カタナはふるふると首を左右に振った後、どこか引きつった笑みを浮かべて顔を上げる。
「あはは……怒ってなんかないよ。だって君が嘘つきなのは、とっくにわかってたことだからね」
「……う。根に持ってるね」
「そりゃあ、さんざん騙されたからね。だから、もう君の言うことは信用しないって決めたの」
……まるで今にも泣き崩れそうなのを、無理矢理押し留めているような脆い笑顔。歪な表情を浮かべたまま、彼女はしばし言葉を飲み込み───やがて再び俯いて、自らの腕を握り締める。
「……でも、今回は特にひとが悪いな。いくら私の夢でも……そんなひどい嘘、ないよ……」
自嘲気味に言って、カタナは力なく笑った。
「夢……って。……もしかしてカタナは、今ぼくがここにいることも信じてない?」
思わずこめかみのあたりを引き攣らせつつ訊ねる彼に、カタナは小さく頷く。そして、どこか責めるような瞳で彼を見た。
「だって君が……来てくれるはずないじゃない。君にはもう、私と一緒にいる理由はないんだよ……?」
言外に。
君にとって私はもう用済みなんだよねと、確認するかのように。
それでもなお、彼女は笑顔のままだった。まるで、自分は彼がいなくても平気なのだと強がるように。
道化じみた笑顔の仮面。少女のそれは、もはや呪いに等しくすらある。

───それに、彼は微かにサングラスの奥の瞳を歪めた。

「……そう。やっぱり君も気付いてたか」
「あはは、そりゃあね。何年いっしょにいたと思ってるの」
自分で言って苦笑する。
そんなにも長い間いっしょにいて、残ったものは何もない。それはある意味、ひどく自分たちらしかった。
「そうなんだ、ぼくって所詮はそういう人間でさ。何の力もないから他人を利用して、カタナのこともずっと利用してきた。
 ……全てを独善で動かし、目的のためには手段を選ばない。そして人の心を平気で踏み躙る……確か市長にも言われたっけね、これ」
ぴくんと彼女の肩が震えるのを見止めながらも、彼はさらに続ける。
「───だから、さ。
 そういうやつなものだから、悪いけどカタナの都合とかはどうでもいいんだ。ぼくはただぼくがそうしたいから、今ここにいる」
言って、どさりとカタナの隣に腰を降ろす。
え、と瞳で問い返す彼女に、彼は小さく肩をすくめた。
「カタナに何かしてあげられるわけでもないし、ましてや君を助けることなんかできない。
 ……難儀だよね君も。どうせ夢に見るのなら、もっと見がいのある夢にすればいいのに。……グレイナインにまでお説教されるような情けない男は、ここにいるぼくだけで充分でしょう」
「……ッ…………!」
自分自身に呆れるような苦笑を浮かべ、彼はカタナの顔を覗きこむ。
信じられない、という瞳で、彼女は彼を見返した。そして、震える声音で言葉を紡ぐ。
「……ほんとに……クロくん、……なの……?」
「うん。……って言うか他にいないでしょ、こんなかっこ悪い男は」
自分で言ってて凹んできたのか、何やら恨みがましい視線をサングラスの奥から向けてくる。

それに、何かが緩んだのか。彼女の頬をするりと、一筋の雫がつたった。

「……あはは……、本当にばかだなぁ、クロくんは……
 前にも言ったでしょ? そんな君だから、私はいっしょにいられるんだって……」

ぽたぽたとこぼれ落ちる水滴が、カタナの膝に染みをつくっていく。
力ない笑い声はいつしか微かな嗚咽に変わり、やがてそれすらも雪に溶けゆくまで、クロラットはただ静かに暗い夜空を見上げていた。


* * *


空を見ていた。
昏い空を、見ていた。

淀んだ雲の晴れ間から、気まぐれに射し込む淡い光。
それはこの上なく美しく───そして、絶望的なまでに遠すぎた。

どれほど手を伸ばしても届くことはない。否、彼にはすでに手を伸ばす力さえ残っていなかったのだ。

だがそれでも切望した。
これ以上切れるようなところもない身体で、なお身を切るように願った。


────生きたい、と。


僅かでもいい、取り戻したい、と。

果たしてその願いが天に届いたのか、それは定かではない。ただ彼は辛うじて「生き延びた」───それだけは間違いのない事実であった。


* * *


もう十年も前のことである。まだ彼が今の彼ではなかったころ、ある事件が起きた。

とある計画を偶然知ってしまった男が、口封じのために殺された────それは、本当に些細な事件だった。謀略と暴力が犇くこの街においては、日常茶飯事と言っても過言ではない。
だが彼のその後を決定付けたという点では、確かにそれは重大な事件であったと言えるだろう。


度し難い裏切りであった。
許されてはならない非道であった。
愛しいもの、守るべきもの、すべて壊され、奪われた。許せない、許せない、絶対に許すものか。

しかしどれほど呪おうが憎もうが、それは本来届くべくもない“無念”であった。
無念とはつまりそういうことだ。何にも届かないがゆえに観測できず、観測されないものは存在しないも同然である。
───だが、奇跡が起きた。
それを果たして奇跡と呼んでいいのかはわからないし、起きた以上それは起こるべくした起こった必然であったかもしれない。いずれにせよ確かなことは、そこで死すべしと定められていたはずの彼の命は、今一度の生を繋いだ───ということだった。

二度とは見られなかったはずの空を再び仰いだ時、彼は自らを裏切った者たちに復讐すると決めた。
彼が奪われたものに見合うだけの対価を。
彼が味わった絶望に相応しい報いを。
彼を殺した者たちが、なお求めてやまない至宝────『黄金の夜ドリムゴード』の完全な破壊を。


重く覆われた鉛の空のもと。
闇色の目に零下の憎悪だけを灯し、彼はひとり己に誓う。



……クロラットがカタナとグレイナインに語ったのは、そんな話だった。


* * *


並んで座る二人の間に、永い沈黙が落ちる。
けれどその沈黙は不思議と穏やかで、こうして共に星のかわりに雪を落とす空を見上げているのも苦ではなかった。なぜだろうかと少し考え、───あぁ、隣に君がいるからか、なんて他愛無い答えに納得する。

そうしてしばし無言の時が過ぎて、やがてカタナはゆっくりと口を開いた。
「……そっか、クロくんは『黄金の夜ドリムゴード』を壊したいんだ。……うーん、クロくんって意外とダイナミックな思考するよね」
それでも自分を陥れた者たちに、直接的な害意を示さないあたりは彼らしい。
うんうん、と妙に納得したように首肯するカタナに、思わずクロラットは口許を引き攣らせる。
「そ、そうかな……アテがあるならそんなに突飛な発想じゃないと思うんだけど」
「いやいや普通は復讐って言ったら「よくもやってくれたなお前も死ねー」って感じじゃない? ……うん、そういうところはやっぱりクロくんだなぁ」
言って、彼女はなぜだか嬉しそうに笑う。
「……それはひょっとして、ぼくに度胸がないって言ってるのかな、カタナ」
いやその通りですけどね、と拗ねたように付け加えるクロラットに、ますますカタナは上機嫌そうに声を弾ませた。
「あはは、何あたりまえのこと言ってるの? だって、それでこそ私のクロくんだもん」
貶しているのか褒めているのか、くすくすと楽しげに笑いながら彼女は空に手を伸ばす。指の隙間から滑り込む雪が、ふわりと頬を掠めていった。
呆れたように嘆息をつき、しかしどこか愛おしげな眼差しでその横顔を眺めるクロラット。

───だからだろうか。
まるで祈るような自然さで、言葉が口からこぼれ出る。

「……ごめん」

え?と瞳を瞬かせて振り返るカタナを、まっすぐに見つめたまま。

「ごめん、カタナ。───ぼくは、ずっと君を騙していた」

彼は静かに、彼女への裏切りを詫びた。


「────────」

夢があった。

こころを失くした少女が見た、一度限りの夢があった。


───『黄金の夜ドリムゴード』に辿り着くこと。それが、私たち二人の共有した夢───


彼がいたからこそ見ることの叶った唯一つの夢を、他でもない彼こそが壊そうとしていた。それはパートナーたる彼女への、まぎれもない裏切りである。
それどころかそもそも共有した夢などなかったのだ。傷しかなかった少女を謀り、十年に渡り利用してきた、動かしようのない事実。
無論、謝って許されるものではない。だがそれでも、言葉にしなければならなかった。
彼女が望むのならどんな償いでもする気ではあったが、それで彼女にした仕打ちのいくらかでも取り返せるとは思えない。信じていたものに裏切られる痛みを、彼は誰よりも知っているから。
ならばせめて、決着はつけなければならなかった。許されないとしても───彼女と、パートナーでい続けるために。

もはや後には引き返せないことは、クロラット自身がいちばんよくわかっていた。
目を逸らせないなら開き直るしかない。あぁ確かに認めよう、クロラット=ジオ=クロックスは、きっとカタナ=シラバノが好きなのだ。
それがどのような感情であるのかはわからないけれど。
彼女を失いたくない、という想いだけは真実ほんとうだった。

「ムシのいい話だっていうのはわかってるけどね。君のことを散々騙して、君のたった一つの夢さえ利用してきた。
 いまさら謝って済むようなことじゃないのもわかってる。だけど───いや、だからこそかな。もうしばらく、ぼくとパートナーでいてほしいんだ」

グレイナインとの約束もある。もともと取り繕わなければならない体裁なんてものもない。
何かが残るわけでもなく、何かが変わるわけでもない。出会った意味すらないのかもしれないけれど、それでも────それでも君と駆け抜けた時間は、きっと無価値ではなかっただろう。
いずれ訪れる別れを先延ばしにするだけだとしても、それを、後悔だけで塗り潰してしまいたくはなかった。

舞い落ちる羽根のような雪が、誰もいないロータリーに降り積もっていく。
クロラットの言葉を黙って聴いていたカタナは、突然ぴょこんと立ち上がり、ステップを踏むような足取りで彼の前へ立つ。そしてその顔を覗き込むように身を屈めて、くすりと微笑った。

「基本的にマイナス思考で敗北主義な君とは思えない前向きな意見だね? グレイナインに怒られたっていうのはそれかな?」
「そう、ほとんど受け売り。まさかグレイナインに諭されるとはぼくも思ってなかったよ」
おかげさまでいい意味で開き直れたけどね、と、自分自身に呆れるようにため息を吐き付け加えるクロラット。
「グレイナインは君のこと、「先生」なんて呼んでるのにねぇ。あはは、グレイナインを3人目にした甲斐があったかな?」
くすくすと楽しげに笑い、カタナは軽く肩口にかかる髪を払う。そして、どこか遠くを見るような瞳で、言葉を続けた。
「……ねぇクロくん、聞いてもいいかな? 君がそんなに簡単に自分の考えを翻すとは思えないんだけど、グレイナインは君になんて言ったの?」
「ん、そうかな。グレイナインの言うことだからね、別にそんな難しいことじゃないけど」
空を仰ぎ。
少女が紡いだ言葉まほうを、クロラットは反芻する。


「────ただ、誰かを好きになるのに、意味はいらないんだって」


……それでも、ひとを好きになること。誰かを大切に想うこと。
たとえ無意味だったとしても、その気持ちに、どうして価値がないなんて言えるのだろう───?


「────────」
茫然と立ち尽くし、カタナは穏やかに空を見上げる彼の顔を見つめる。
胸のうちにことばが滲む。ゆっくりと同じように、遠い雪空に視線を移し、
「あぁ───そっか」
深く納得したように、そっと口を開いた。
「……うん、そうだね。……だから私は、クロくんを好きになったんだもんね」
しろく煙る吐息のように、言葉は空にとけていく。
そう、意味がないなんてことは、最初からわかりきっていた。誰かを好きになることに、そもそも意味を求めることが間違いなのだ。

とおい祭りの喧騒。白い雪と、静かなピアノの音だけが降り積もる。

たとえこの先にどんな別れが待っていたとしても────今ここにある美しさは、きっと奪えはしないだろう。
それはいつか見た。
あの幻想ユメの美しさにも、迫っていたかもしれない。

「……ねぇ、クロくん」

「ん、何?」

「いま私が見てるものが、君にも見えてるのかなぁ」

「たぶんね。だってぼくたちは」

「私たちは、────パートナーだもんね」

そうして彼女は瞳を閉じ、祈るような仕草でそっと呟く。


「…………ありがとう」


明確な意図があったわけではない。ただ自然に、そんなことばが口をついた。

「ありがとう……クロくん」

突然の感謝の言葉に、クロラットは思わず首を傾げる。
「は? なんでカタナがお礼を言うのさ。むしろそれを言わなきゃいけないのはこっちでしょ」
「あはは、うん、なんでかな。でもなんかすごく言いたい気分になっちゃったから」
嬉しそうに笑いながら、カタナはもう一度繰り返す。……ありがとう、と。
その笑顔を眩しげに見つめながら、クロラットもどこか納得したように頷いた。
「……そっか、奇遇だね。実を言うとぼくもそんな気分だ」
よいしょ、とベンチから腰を上げて、クロラットは彼女の横に並び立つ。そしてただまっすぐに、心からの感謝を込めて、彼女に伝えた。
「───ありがとう、カタナ。君が、ぼくのパートナーでいてくれてよかった」
「……うん。私も───クロくんがパートナーで、よかった」
胸元で手を重ねて、大切に───この上なく大切そうに、彼女も言葉を返す。
「はは、なんだかおかしいね。二人してお礼を言い合うのって」
「そうかもね。でもいいんじゃないかな、そういうのも、私たちらしくて」
奇妙なやり取りに、二人して笑い合う。ひとしきりそうして笑い合ったあと───カタナは満面の笑みを浮かべて、クロラットを見た。
「……うん、だからいいよクロくん。今はたくさん嬉しかったから、君のこと全部、許してあげる」
今まで隠してきたことも、これからも黙っていくことも。
ぜーんぶまとめて許しちゃいましょう、なんて、彼女はどーんと胸を叩く。
「カタナ……?」
「たとえば君が、復讐しようとした相手……とかね」
軽く肩をすくめるカタナに、彼は思わず息を呑んだ。
「君が言わないっていうことは、自惚れかもしれないけど……なんとなく、私のためのような気がするんだ。
 だから訊かないし、止めないよ。君がどんな目的を持ってたって構わない。どんなことになったって、私たちはパートナーだもん」

───“『黄金の夜ドリムゴード』に辿り着くこと。それが、私と君が共有した夢。”

“そう。故に『黄金の夜ドリムゴード』に辿り着くその時が来るまでは”
“たとえ何が私たちを引き裂こうとも”
“たとえ運命がぼくたちを別とうとも”

“何度でも巡り会い続ける”…………

「───カタナ」
「それは、変わらないでしょ?」
でも壊す前にちょっとだけ私にも見せてね、なんてばかなことを言って、カタナはにっこりと微笑む。
それを呆と見つめて───彼は、深く頷いた。
「変わらないよ。……変わるわけない。クロラット=ジオ=クロックスのパートナーは、生涯で唯一人、カタナ=シラバノだけだから」
「あはは。そこまで言われると照れちゃうな」
くすぐったそうに笑う彼女に小さく苦笑を浮かべて、もう一度「ありがとう」と呟いた。
「なんか、カタナにはいろいろ借りが出来ちゃったね。ぼくに出来ることならなんでもするけど」
予想外の言葉に、カタナはきょとんとして彼を見る。そのまままじまじとクロラットの顔を見つめた後、慌ててぱたぱたと手を振った。
「い、いーよいーよ別に、私だって嬉しかったんだし」
「それを差し引いてのつもりだったんだけど。てゆーか君は常々ぼくにあれこれさせるわりに、ぼくが自主的に何かしようとした途端に遠慮しない?」
「う……君はそういうとこ、意外と頑固だよね」
むー、と人差し指を顎に当てて、カタナはしばし考え込む。
「……あ、じゃあ、こうしようかな」
ややあって、彼女はにっこり笑顔を浮かべ、ぴっ、とクロラットが手にしたままのペンダントを指し。
「それ。もう少しだけ預かっててくれないかな。ぜんぶ終わったら、そのとき返してもらうから」

───「生きてまた会おうね」という、約束に代えて。

「────────」
「はい、指きり」
呆然とするクロラットに構わず、カタナは一方的に小指を差し出す。
数瞬の沈黙の後、彼はゆっくりと、それに自らの小指を絡めた。
「───そうだね、約束する。ちゃんと君に返せるまで、ぼくが預かっておくよ」
軽く触れ合う部分だけが、冷たい指先をほのかに温める。たったそれだけのちっぽけなぬくもりが名残惜しくて、絡めた指を離すのが少しだけ躊躇われた。
「よろしくね、クロくん」
向けられた笑顔に僅かに垣間見える憂いの色。けれどそれにはあえて触れず、クロラットが足を踏み出しかけたその時。


────くすくす。そんな約束をしたら、余計につらくなってしまいますよ?


氷めいた鈴の音が、夢の終わりを宣告した。



『──────!?』
頭に直接響いた声に、彼らの注意が逸れた一瞬。

ばぢっ!!

「!?……クロく────!」

回路が焼け切れるような音と共に、カタナの声が途切れる。
はっとしてそちらを向けば、すでに彼女の姿は半ばほどまで背後の景色を透かせていた。
「カタナ!?」
咄嗟に伸ばした手が届くよりも早く。


────どぉん、と。
暗い夜空に花火が開く。


ぱらぱらと火花が落ちる音。
伸ばした手の先には何もなく、ロータリーには、誰もいない。


呆然と佇むクロラットを囲むように、ただ、舞い散る羽根を思わせる白雪だけが降り続いていた────


* * *


『お知らせします、『黄金の夜ドリムゴード』一般公開セレモニーまであと20時間を切りました! 皆さん心の準備はいいですかー?』
宙に映し出された巨大なユニックスの立体映像ホログラフが、暗黒シティに響き渡るような声で高らかに告げる。

───暗黒シティ中央地区、中枢巨大劇場『エイデン』。

20時間後と迫った『黄金の夜ドリムゴード』公開セレモニーの会場であるその裏口に、四獣王第3位トモエ=ミナモトと第4位ファンエン=コーガルの姿はあった。
「は〜ぁ……超退屈ッス」
あくびを噛み殺して呟くファンエンに、生真面目なトモエの注意が飛ぶ。
「ちょっとファン将軍、気の抜きすぎだよ! 私たちはここの警備を任されてるんだからね!」
「警備、ねぇ……」
ファンエンはやれやれと言うように嘆息をつき、
「警備と言っても、人っ子一人いない通りじゃ事件も起こりようがないんじゃないスか?」
人通りがないせいですっかり雪景色になった裏通りを一瞥しつつ、う、と絶句するトモエを見遣る。
「そ、それはそうかもしれないけど……」
なおも言い募ろうと口をもごもごさせているトモエに呆れ混じりの視線を送りつつも、無論ファンエンとてこのまま退屈に終わるとは思ってはいなかった。
黄金の夜ドリムゴード』公開セレモニー───ことがどのように転ぶにしても、この大舞台が何のアクシデントもなく過ぎるなどと思うのはもはや楽観的を通り越して何も考えていないに等しい。
空虎、シラバノ、そして───“彼”。クライマックスを目前に控え、思惑は複雑に絡み合っている。

奇しくも日付は4月1日エイプリルフール。どのような茶番も喜劇も、この日ならば相応しい。

トモエには悟られないように軽く爪を噛み、ファンエンが空を見上げた時───傍らの少女が、はっと息を詰めたのがわかった。
「───来ましたか」
そう呟いて、彼はトモエと同じ方に視線を向ける。


────雪に残るあしあと。その先にあったのは、予想とは些か別の姿であった。











/"brilliant tales" Episode #2「それでも誰かを好きになる」Closed.
 and to be Continued Next Story.

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