#7 ゴードナイト・ゴーズバイ −クロス×part−




────ふと、とおい昔を思い出す。


それはちょっとした衝撃であったのだ。とかく自分のように生きている人間にとって、ああいう存在がいること自体が軽いショックだった。
だからどうするということもないけれど、その存在は自分の中でトラウマのように植え付けられた。……或いは一目惚れというものが在るとしたら、ああいうことを言うのかもしれない。
ただ決して、強く焦がれるような感情ではない。事実として自分は、すぐにその出来事も、その存在も忘れてしまうことになる。

道端ですれ違うような、僅か刹那の交差。

けれども憶えていたこともある。それをきれいだなと感じたこと。自分の中に深く根付いた、けれどささやかなユメ。
何もかも失うことになっても/失ってしまっても、消えず残り続けた想いだけは──────


* * *


大地無き地面を踏みしめて、彼女はゆっくりと進んでいく。
末端から削られていくみたいだ。早くしないといけないのに、足が上手く動かない。視界が悪いのは一面が真っ白なせいだろうと思い込むことにした。
たった数歩分の距離が、今はひどく遠く感じる。足が重い。対して体は、体重なんてないんじゃないかと思うくらい軽くて───自分の体だという実感が、どんどんと薄れていく。
不意に、もういいから、放り投げて帰りたいという気持ちが湧いた。今すぐにここから脱出すれば、まだ間に合うかもしれない。DGシステムに取り込まれてしまう前に、そうしてクロラットやグレイナインと合流して、その後でこれをどうにかする方法を考えればいい。

……そんなことを考えながら。それでもカタナは、止まろうとはしなかった。

だって、責任は果たさなくちゃいけない。
わたしはカタナ=シラバノとして、DGシステムをここで止めなければならない。
それもしないうちに甘えてしまうのは、ちょっとムシが良すぎるだろう。

DGシステムは容赦なく、そもそも意志さえなくカタナ=シラバノを侵食する。痛みもないまま、ざくざくと断線を始める思考回路。
でも考えてみれば、自分を侵害されるなんて今更のことだ。そんなのはもう慣れっこで、今までずっとやってきたことなんだから、ここに来て耐えられないはずがない。


────そう、耐えられないのは。もっと、別のことだったから。


もうずっと昔、自分の置かれた状況がやっと理解できるようになったころは、それでも苦しくはなかったと思う。
ひとりきりで檻の中にいることも、毎日が色の無い繰り返しなのも。生まれた時からそうだったから、そういうものだと信じていたんだ。だから苦痛になんて感じない。そもそも感じるこころがない。
でも、ある日彼女は気付いてしまった。
世界にはちゃんと色があって、檻の外には自由があって、眩しい光が差してるんだっていうことに。
唐突に、当たり前のように。まるで目が覚めるような自然さで、不意に理解してしまった。その時から、カタナ=シラバノは故障してしまったんだろう。
孤独の意味を知らないままなら、寂しいなんて思わなかった。翼の理由に気付かないままなら、空に焦がれることもなかった。……夢なんて見なければ、ずっと人形のままでも苦しくなんかなかったのに。

それは、ほんとうに何気なく。
そして、奇跡みたいに鮮やかに。

鳥篭の中の少女は、ただ一度だけ、空のいろをした誰かを見つけたんだ──────


……そう、他愛の無い思い出だ。
市長と並んでシラバノの本社ビルに呑気な顔をしてやって来た誰かを、こっちが窓越しに───それも数階を隔てて───見かけただけ。
きっと向こうは知りもしないだろう、一瞬の空隙。でもたったそれだけのことで、カタナ=シラバノは自分が人形なんかじゃなくて、人間なのだと自覚もないまま思い知ってしまった。
無色透明な日々の中で、その空だけは鮮明で。……それは、とても綺麗ないろをしていたから。
その出来事を忘れてしまっても、そのいろだけはずっとずっと憶えていた。

カタナ=シラバノを欠陥品にしてしまった誰かさん。
人間のふりをしていただけの人形を、ほんものの人間に変えてしまったまっくろな『まほうつかい』。そのせいでたくさん苦しんだけど、一度だって恨んだことはなかった。……たぶん、わたしが君を恨むとしたら、それは違うことだろうから。
暗くて冷たいわたしの檻。飛べない翼を抱えたまま、それでも空に憧れた。いつからかココロさえ擦り切れて、自分は部品に過ぎないんだって無理やり思い込もうとしたけれど。
それでもずっと奥のほうでは、縋りつくように切れ端を握り締めていたのだと思う。

『ばかかい君は? たかが小娘の分際で、何を知ったようなことをぬかすのかね』

再会は劇的に。
……いや、お互い色々なことが変わり過ぎてて再会というには語弊があるけれど、劇的であったのは間違いない。
だって自分とそう変わらないくらいの子供に、いきなり小娘呼ばわりされたのである。そりゃあ、カチンともくるってものだろう。
今までそんなことを言ってきたひとはいなかった。
まわりの大人はみんな、示し合わせたみたいに揃って同じカオで同じ言葉を繰り返すだけ。……当然と言えば当然だ。わたしは仕事を片付けるためだけに存在しているんだから、それ以外の機能なんて誰も求めるはずがない。
一様に紙切れみたいな笑顔と言葉を返すひとたち。

だから初めて違う反応を返してくれた彼だけは、わたしの言葉をちゃんと聞いてくれたんだという感動と。
そっちこそ何も知らないくせに、という理不尽さで、カタナ=シラバノの心は一気にパンクしてしまった。

何しろ今までロクに使ってこなかったモノなのだ。許容量なんてたかが知れている。
オーバーフローした心は容易く器を壊してしまって、それから後はあっと言う間だった。身体そとみに遅れること10年余り、ようやくカタナ=シラバノは、なかみの針を進めていくようになる。

そんなことを思い出して、彼女は思わず苦笑した。
いろんなものを落としたと思っていたのに、わたしは君との思い出だけは、こんなにも大事に取ってある。そのほとんどはつまらないものばかりで、けれどどれもが捨てるには惜しすぎた。
嘘に嘘を重ねて塗り固めた偽りの日々。ひどく歪で、決して綺麗なものではないかもしれないけれど、きっと自分にだけは誇らしく眩しい記憶のかけら。
君が私を利用しようとしていることはいつからか気付いていたけれど、そんなことはどうだっていいくらい、毎日は楽しくなったから。

────あの、一年前の夕焼けの教室で。
君にパートナーになることを持ちかけたのは、わたしにとって一世一代の賭けだったと思う。

断られたら、もう夢を見るのはやめようとまで考えていたくらいだった。カタナ=シラバノがクロラット=ジオ=クロックスのパートナーに相応しいかそうでないかなんてもう二の次で、渾身の演技でいつも通りに振る舞いながら、頷いて欲しくて必死だった。どこかで、断られても仕方ないってわかってもいたけれど。
理不尽に振り回すことはいつものこと。────でも、君に見返りを求めたのは、あの時が初めてだった……

それから一年。
楽しいことばかりじゃなかったし、後悔だって少なくない。
ああしていればよかったとか、こうするべきだったとか、あんなことしなければよかったとか。
それでも君とパートナーになったことだけは、一度も後悔はしなかった。夢を追い駆けている間は、だってあの日の空に近付けたような気がしていたから。


────そう、思い返せばなんていうことはない。
 この一年間こそが、わたしにとってはまばゆいばかりの夢だったんだ──────



……ありがとう。こんなわたしに、夢を見させてくれて。

輝く刃が伸びる柄を握り締める。握っている、という感触が曖昧で、今は自分の身体が何より頼りない。
一歩、進む。
息をすることさえ忘れてしまったみたいだ。
視覚はとっくにバラバラで、辛うじてわだかまるDGシステムの影を捉えている。

薄れていく。
わたしという意識が、薄れていく。

でも、薄れずに残っているものもある。
交わした幾つかの約束、胸を穿つ想い。遠く瞬くきんいろの夢。
それだけあれば、わたしを保つには充分すぎる。

あと一歩。
軋む身体を動かして、腕を振り上げる。

怖くないと言えば嘘になるけど。
わたしが消えてしまうことよりも、今は、カタナ=シラバノとしての誇りを守っていたい。
あんなにも嫌っていた立場だったのに、つくづく調子のいい話だ。……まぁ、自分キィにも偉そうなことを言った手前だし、そのくらいは見栄を張っておかないと駄目だろう。

────だいじょうぶ。

もしもわたしがここで消えてしまうとしても、このゆめだけは、ちゃんと誰かに■■■■■■──────


* * *


冷たい夜の空気を裂いて、白い機影が駆け抜けていく。
頬を掠める雪の欠片。ひび割れたサングラスの向こうに、薄ぼんやりと記憶にある柱時計のオブジェが見えた。

「───あれだ。間違いないか? クロックス」

前に立つユニックスが、肩越しに振り返り訊ねてくる。なんとかフェルコーンの背に掴まっているような状況で、クロラットは頷きを返した。
「えぇと、はい。おそらくは」
「……お前な。なんでそう自信なさげなんだよ」
呆れたような視線を向けてくるユニックスに、そう言われましても、とクロラットは頬を掻く。本当はもう少し確信を持てる理由もあるのだが、それはなんとなく気恥ずかしいので黙っておくことにした。
フェルコーンの速度が僅かに上がる。高度ゆえの身を切るような冷気が、痛む体にじんじんと響いた。

寒い。痛い。冷たい。暗い。

不意に、10年前の地の底へ戻ってしまったかのような錯覚すら覚える。

何もかも失った、そう頑なに思っていた。けれど今思えば、失っていないものもあったのだ。
例えば果てずのユメ。例えば途切れかけた約束。例えば、そう────忘れていた古い願い。

降りしきる白い雪は、まるで真っ白な羽根のよう。
とりとめもなく思い出すのは、ずっと昔、ただ一度だけ見た白い鳥。思い出すこともなかった拙い記憶の切れ端。
……まだ、彼がクロラット=ジオ=クロックスではなかったころのことだ。市長と共にシラバノの本社ビルに訪れた時、数階上の窓際に、彼は小さな白い鳥を見かけた。
鳥籠の中の飛べない鳥。
高い塔の上に住む、囚われのお姫さま。
あんなにもたくさんの人が周りにいるのに、あの鳥はひとりぼっちだった。それなのに籠の中から出ることも出来ない。飛ぶための翼は、確かにその背にあるのに。
───その在り方が、わけもなく心に残った。
孤独だと哀しんだのではない。孤高だと尊んだのでもない。
だからどうだということもなかったけれど、ただ自分にとって彼女のように生きている人間がいるということは、それなりにショックを伴うものだったのだ。

きっと君は知らないだろう───いや、そもそも気付いてさえいるかどうか。彼ですら、そんなことは長く忘れていたのだから。

形の無いすれ違い。奇跡みたいな一瞬の出来事。

記憶は日々に埋もれていき、やがて耐え難い悪夢に塗り潰される。けれどそれでも、消えてしまったわけじゃなかった。
思い出すことはなかったけれど、あのとき生まれた稚い願いは、きっとどこかに残っていたのだと思う。


──────あの白い鳥が、いつか、自由に飛びゆくところを見てみたいと。


前に立つユニックスには悟られないように、クロラットは小さく苦笑した。
10年前のあの日、何もかも────自分という存在さえ失くして、それと決別した今になってこんな些細な繋がりを思い出すなんて。皮肉と言うよりは、いっそ可笑しくて仕方がない。
そう、自覚するまでもなく、いまさらだったのだ。カタナ=シラバノは自分の中で誰よりも広い面積を占めていて、だから自分のことよりも彼女のことを優先させてしまうのはどうしようもない。
それはもう仕方のないことだ。クロラット=ジオ=クロックスは結局そういう格好悪い人間で、そんな簡単なことを自覚するのにもとんでもなく遠回りをしないと駄目で、いつだって情けなく逃げ回って。たぶん、それはこれから先も変わることはないだろう。

『あはは、何あたりまえのこと言ってるの? だって、それでこそ私のクロくんだもん』

「──────……」
つい口許が緩みそうになるのを、誤魔化すように彼は大きく息を吐き出す。
……まぁ。格好悪いなら悪いなりに、やれることもあるだろう。出来ないこともしなくていいことも分かってはいるけれど、思いの外そういう自分も嫌いではなかった。

黒と白の視界の中、古びた時計のオブジェがぐんぐんと大きくなる。
近付いて見ればそれはすでにあちこちがひび割れていて、内側から僅かに光を零し出していた。……終わりは近い。胸元で揺れる鉤十字のペンダントを、彼は手の中に握り締める。

『約束するよ────私は、決して君を裏切らない』

誓いは胸に。想いは遥かに。
意味なんてないとしても、その輝きは、いつか何かを紡ぐはずだ。

────さあ。それじゃあ今度こそ、このささやかな約束とあの日のユメを叶えに行こう。


* * *


最後の一歩。
カタナはゆっくりと、剣を握った腕を持ち上げた。

不鮮明な視覚は、微かにDGシステムの制御端末を捉えているだけ。だがそれで充分だった。彼女がシラバノである限り、ソレを間違えることはありえない。
端末を破壊すれば、おそらくこの空間は消え去るだろう。そのあと自分がどうなるかまでは、ちょっとわからない。……思考のカタチはバラバラで、とりとめのないことばかりを思い返している。

だから、ただ一度の誓いだけを、強く心に刻みつけて。

まっすぐに腕を振り下ろす。
────瞬間。懐かしい声が、彼女の耳朶を震わせた。



「カタナ──────!!!!」



突き立てる。
白滅していく視界の中。彼女はただ無我夢中に、声のした方へと手を伸ばした。











* * *


それに気が付いたのは、果たして誰が最初だっただろうか。

最前線、己が矜持を賭け剣を振るう少女か。
月下虚空に弧を描き舞う魔女か。
絶対なる力で以って、真言を紡ぐ聖女か。

それとも────……舞台の下、最後の円舞を見守っていた、彼らだったのか。


誰かが小さく息を呑む。
暗黒シティを覆うDGシステムの端末は、今まさにゆっくりと、その存在を透かし始めていた。

活動を続けていたもの、すでに倒れ地に伏したもの、すべての機体が音も無く、天へ登るように光へと還っていく。燈り瞬く光の粒は、まるで数え切れない星々の海だ。夜空を巡り灰色の街を彩り上げる。
黄金の雪が降る、この世ならざる光景。

おとぎ話の終わりを飾るに相応しい、幻想的なカーテンフォール────


「…………きれい……」

遍く皓夜の空を見上げ、グレイナインは呟いた。
どうしてか涙が滲む。生命たましいを謳う残照は、ただひたすらに美しすぎた。

「端末に囚われていたナイツの残留思念U-REIが解放されたか……ならばあの女が、シナリオを破棄したということだろうな」

同じように空を仰いでいたジャッジが低く笑う。思えば哀れな話だった。
命を失い魂を縛られ、その呪縛から放たれた今なおこんな現象と成り果ててまで何かを為そうとしている。あまりにも愚かで、そして愛しい在り方。
「────じゃあ」
うわごとのように呟きながら、グレイナインは光る雪に手を伸ばした。雪は少女のてのひらの上で一瞬だけ輝き、そしてふわりと溶けていく。
これが彼らの、夢の名残だとジャッジは言った。肉体を失って、それでも留まる願いのおり
……なら、それは。
それは、ひょっとして────


「じゃあ───……
 マスタは、彼らの夢を叶えることができたんですね」


今まさに、文字通りの黄金の夜と成して。

彼らの夢を悪夢に変えたカタナ=シラバノこそが、彼らをこの奇跡へと導いたのだ。


……それは、ただグレイナインが、そう信じたいだけなのかもしれない。
慰めにもならない言葉遊び。そんなことで、カタナ=シラバノの罪が赦されようはずもない。
くだらないと一笑に伏すことも、ジャッジには出来ただろう。だが今だけはそれも無粋に思われて、彼は金色に揺蕩う空を眺めた。
無意味だとしても、ただの気の迷いに過ぎないのだとしても。
それでもこの結末おわりは、眩しいに違いないのだから────……

少女は駆け出す。おそらくは彼女の、たいせつな二人のもとへ。
けれどジャッジ=アンダクルスターはその背を見送ることもなく、ただ無言のままに夜空を見上げ続けていた。


* * *


積み上がった瓦礫の道に、機動獣騎フェルコーンが降り立っている。
主たるユニックス=F=オディセウスの姿はその傍らに。そして彼らは────クロラットとカタナの二人は、それよりもう少し離れた瓦礫の上に座り込んでいた。

「──────……」

一時的なものだろう、カタナは気を失いクロラットの胸に寄り掛かって眠っている。その身体を抱きかかえ、彼は言葉もなく降り続ける真冬の蛍を眺めていた。
けして辿り着くことはないはずだったフィナーレ。越えられるはずのなかった夜が、輝きを湛えて明けていく。
それは、不思議な感傷だった。光降る黄金の空の下、こうして自分がいることも、こんなにも近くに彼女がいることも。何もかも奇跡のようなのに────手を伸ばし求め合えば、当たり前のように届いた必然にさえ思える。

……まぁ、もっとも。
その「手を伸ばし求め合う」ことが簡単に出来たのなら、自分も彼女ももっとマシな生き方をしていただろうけど。

呆れたように嘆息を吐いた時、不意に腕の中で微かに動く気配があった。
「カタナ?」
顔を覗けば、閉じられた瞼がぴくりと動き長い睫毛が震えている。吐息を漏らすような曖昧な声のあと、カタナの瞼がゆっくりと開かれた。

「………………、……ぁ……」

胡乱な瞳でぼんやりと彼を見上げる。
「……久しぶりだね、カタナ。気分はどう?」
「──────え?」
どこか間の抜けたクロラットの言葉に、彼女は一瞬ぱちくりと目を瞬かせた後。────ものすごい勢いで、ばっ!と逃げるようにクロラットから身を離した。
「え、ちょ、何その反応……!?」
「あ、ぇ、あぅ、ああああごめんビックリしてついっ……」
びっくりしたらつい逃げてしまう、とは、いったいどういう意思表示なのだろう。などとクロラットがこめかみを引き攣らせていると、何やらカタナはじーっとこちらを伺うように見つめてくる。なぜか真顔で。
「…………クロくん」
「な、何でしょうかカタナさん」
何か、今のカタナの行動はちょっと予測がつけられない。
こうして顔を合わせるのはひどく久しぶりな気がするからだろうか、ひょっとしたら自分も戸惑ってるのかもしれないなぁ、なんてことを、彼は他人事のように意識した。
もう一度カタナは彼の名前を呼ぶ。……クロくん、と、確かめるように囁いて。

そうして────彼女は両の手を、そっとクロラットの頬へと伸ばした。

「っ、カ、カタナ……!?」
慌てたクロラットの声が聞こえているのかいないのか、カタナは柔らかくその頬を撫でる。
……おぼろげな視界。霞んだ目はどうにか表情が判別できる程度で、あまりにも頼りない。だから思わず手を伸ばしていた。
触れたてのひらに熱を感じる。その温かさが嬉しくて、彼女は小さく笑みをこぼす。

「久しぶりだねクロくん……元気そうで何より」

屈託なく笑うカタナに、クロラットは仏頂面を浮かべつつもその手を払いのけるようなことはしなかった。かわりに軽く嘆息をつき、間近にあるパートナーの顔を半目で見遣る。
「この怪我で元気そうに見えるなら、カタナは大物だよ」
「あ、ほんとだ重傷だね。どれどれ」
「痛ぁ!!?!」
おもむろに胸のあたりをぺちんと叩いてくるカタナ。連鎖的に全身に激痛が走る。
「〜〜〜〜ッッ……! な、な、何をするか君はー!」
忘れかけていた痛みに仰け反るクロラットとは対照的に、カタナはあはは、と楽しげに笑った。
「本当に懲りないねぇ君も。そんな大怪我するまでがんばったりして、実は趣味だったりするの?」
「……君ね……」
誰のためだと思ってるんだ、と言おうとして、なんだか墓穴を掘りそうな気がしたので止めておく。
そして目の前の誰かさんと言えば、ちょっと困ったような苦笑を浮かべて僅かに俯き。
「あはは……またこんなにひどい怪我させちゃったね。……やっぱり私は、クロくんのそばに、いないほうがいいのかなぁ」

────などと、見当違いのことを言い出した。

「……カタナ、あのね───」
生い立ちからか境遇からか、それとも地の性分なのか、どうにもこの娘は悪いことをみんな自分のせいだと背負い込もうとするところがある。そんなものは、勘違いも甚だしいと言うのに。
軽い頭痛さえ覚える額を押さえ、彼が口を開きかけたその時。

「何をバカなことを言ってるんですか、マスタはッッ!!」

───クロラットの言葉を、どこか震えた声が遮った。

声のした方へと二人が振り向けば、そこには泣きそうな瞳を湛えた少女────グレイナインが、こちらに向かい走って来るところだった。

「……グレイナイン……」

二人のそばまで駆け寄って、彼女はぺたりと瓦礫の上に膝を付く。
そして非難するような、けれど心から想うような瞳で、きっ、とカタナを睨みつけた。

「なんで、マスタはそんなつまらないことを言うんですか!
 マスタは確かに罪を負っているかもしれません。でも、罪を負った人が幸せになっちゃいけないなんてことはない!
 どうせマスタはご自分を責め続けるんですから───……せめて苦しんだぶんは、取り返さなくちゃダメなんです! こんなところで勝手に諦めるなんて、そんな甘え許しませんから……!!」

訴える声は、微かに涙に濡れている。
……それは少女の強さだろうか。それとも、弱さなのだろうか。
グレイナインの言うような理屈で、奪われた人たちが納得するはずがない。そんなことは彼女自身もわかっているだろう。
欺瞞であることを知りながら、それでも大切なひとに幸福でいて欲しいと願う弱さと強さ。
赦されないならばこそ、最後まで目を伏せるなと言う強さと弱さ。
純粋性ゆえに抱えてしまう我侭は、けれどきっと、純粋だからこそココロを打つのだろう。

「────────」

もはや責めると言うより懇願するような瞳を向けられては、拒絶なんて出来るはずもない。カタナはふっと表情を緩めて、ぽんぽん、とグレイナインの頭に手を添える。

「……ごめん、そうだったねグレイナイン。せっかく君たちががんばってくれたのに、それを捨てちゃおうとしたのは怠慢だった」

言って彼女は笑顔を浮かべる。そんな言葉は言い訳にもならないと、わかってはいたけれど。
犠牲になった者にとっては、彼らの想いも決意も何の意味もありはしない。けれどそれに潰れてしまうのは、きっと少女の言う通り“甘え”なのだろう。
意味はないのだとしても、ないのだからこそ、立ち止まるよりは進んでいく方が価値がある。
───そう、少なくとも。彼らがいてくれる、その限りは。

「……はい。マスタはなんでも一人で出来るほど、強くないんですから……」

すん、と小さく鼻を鳴らして、グレイナインはやわらかく微笑んだ。安堵と、何よりも真摯な親愛に潤む笑顔。こんな素直な表情は自分には浮かべられないから、それが羨ましくて愛しい。
……この少女を三人目にしたのは、やっぱり正解だったみたいだ。
少女はすくっと立ち上がると、身を翻してユニックスの方へと駆け寄っていく。その後ろ姿を眺めるカタナに、クロラットは嘆息混じりに呟いた。
「……ハァ。なんだか最初から最後まで、グレイナインにいいところを持って行かれてる気がするな」
「あはは、何をいまさら。クロくんが格好付かないのは、今に始まったことじゃないでしょうに」
楽しげに笑う彼女に、そういう問題じゃないんだけどね、とクロラットは口の中で呟く。結果として格好付かないのだとしても、彼女の前では格好付けようとしてしまうのだから仕方ない。
「いーじゃない、むしろそれでこそクロくんだよ♪」
「ぜんっぜん誉めてないね……カタナ」
「それはもちろん。でも私は、そういうクロくんだったからパートナーになれたんだし、君が相変わらずで安心した」
何やらひどく嬉しそうに、カタナはそんなことを言う。
それに対して言いたいことはないでもないが、言っても無駄であろうことはそれこそ今更だった。およそ一日前にも似たようなやり取りを交わしたような気がして、彼は一つため息をつく。
光降る夜。かつての約束といつかの記憶が、おぼろげに脳裏に浮かんでは消えていく。それから再び、クロラットはカタナへと視線を戻した。
「……そう言えば、これ、返さないといけなかったっけ」
言って、彼は首にかかったペンダントを外す。ちゃり、と、繋がれた鎖が小さく鳴った。
「どこも壊れたりはしてないと思うけど」
え?と目を瞬かせる彼女の首へ、おもむろに腕を回し外した鎖を掛ける。
首の後ろで止め具をはめて、ふとカタナの様子を見ると、突き刺さるような白い視線に迎撃された。
「……ハァ……君ってつくづく、誤解を生むのが得意だよねぇ」
「はい?」
「───ま、いいんだけどね。それに私も言わなくちゃいけないことがあったんだし」
呆れたような声音に、疑問符を浮かべるクロラット。だが彼女はそれには答えず、コロリと笑みを浮かべる。まるで悪戯を思い付いた子供のように。
近くに寄っていたのは都合が良かったのか悪かったのか、カタナは僅かに身を乗り出し、クロラットの耳元へ唇を寄せる。そうして彼にしか聞こえないように、何事かを短く囁き──────


「…………………………は?」


今ナニカ、トンデモナイことを、耳にしたような。


「───あ、君ほんとに気付いてなかったんだ」
呑気なカタナの言葉すら処理が追いつかない。さっき、彼女は、いったい何と言ったのか。

『────私ね、』

……身に覚えがない、とは言わない。
それでも今まであえて考えないようにしてきたのか、あるいは自分のような人間にそんなものが残せるはずはないと思っていたのか。確かに聞かされたはずの言葉を、脳が理解しようとしない。
加えて言うなら自分はついこの間まで意識不明で入院していたわけで、そんなことに気付けるはずもなく────いや、問題はそういうことではなくて。

『……あかちゃんが、いるんだよ?』

そんな状態で、君はいったい何をやっているのか、とか。
言いたいことは山ほどあったけれど、さすがに衝撃的すぎて言葉が出ない。くらり、と意識が遠のきかける。

「えーと……クロくん、怒った?」

えぇ怒ってますとも。彼女にも自分にも。
怒鳴りたい気持ちも頭を抱えたくなるような後悔もある。だけどそれ以上に、こみ上げてくる感情が大きすぎた。
「……まったく、君は……!」
「え……ちょ、ちょっとクロくんっ……!?」
どうしようもなく、強くカタナを抱きしめる。
都合のいい話だとは自分でも思うけれど、今だけは、神さまはいるんじゃないかとすら思えた。この黄金の夜に、そんな祝福サービスが本当にあるなんて。


「────奇跡が、起きた……」


永い夢。
やがて夜明けと共に醒めて消える、それだけのものだったはずなのに。
十余年の歳月の果て、喪失うしなわれたものに見合う何かなど、どこにも残せはしなかったけれど。……それでも、胸に迫るものは必ずあったはずだ。

希望と絶望。虚飾と憧憬。歪な心と、純粋な願い。

終わってゆく夢と続いていく夢と、その最後に、新しい夢を見つけられたのなら──────……











/"brilliant tales" Episode #7b「星ばかり見ていた」Closed.
 and to be Continued Epilogue "side-B’".

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