──Ending #A-1 "Letter from thaw."
冬が過ぎて、空が晴れたら、新しい季節を迎えよう。

+ 春 に 想 う





「せんせーい! これ、どこに置けばいいですか〜?」

よいしょ、と荷物を抱え直して、自分ことグレイナインは二階に向かって声を張り上げた。
ほどなくして階段の上に、ひょっこり覗くぼさぼさ頭。言うまでもなくその正体は、我らがヒーロー・クロラット=ジオ=クロックス先生である。
「んー、それはリビングの方に。あ、それと横にある棚、悪いんだけど二階まで上げてくれないかな」
「はいっ、それではとりあえず、これ置いてきます!」
よろしくー、という声を背にリビングルームに向かう。ここで暮らしたのはほんとうに少しの間だけだったけれど、ちゃんと場所を覚えていたことがなんとなく嬉しかった。

───宝歴2051年4月、暗黒シティ中央地区ひぐらし通り。
本日自分たちは、元・機動兵器店『梟工房』の片付けを行っています。


ただでさえ気持ちが弾んでいるのに、些細なことでますます楽しくなってしまう。あんまり浮かれすぎると注意力散漫になってしまうのだが、こればっかりはしょうがない。

うきうき気分でリビングの入口をくぐったところで、がくんっ!と身体が傾いだ。

「────はれ?」

スローモーに横転していく視界の端で、見慣れた自分の足が掃除機のコードを引っ掛けていることに気が付いた。まぁ、もうとっくに遅いわけなのだが。


ずがっしゃぁああぁぁぁんっ!!!!


ものすごい音を上げて、荷物が床にぶちまけられる。
強打した顔面の痛みに涙しつつ、自分は最初の謝罪の言葉を考えるのであった……


* * *


そんなこんなですべての片付けが終わる頃には、時刻はすでに昼を回っていた。

「はー、ようやく終わりましたね!」
「……そうだねぇ……」

爽やかに言ってみたのだが、やっぱり先生は何か言いたげにこめかみを引き攣らせていた。むむむ、いつまでも過去の過失を悔いていては先へ進めません!という自分の心意気は残念ながら伝わらなかった模様。
「うぅ……あ、それじゃあちょっと遅いですが、お昼にしましょうか。自分、がんばって作りますから!」
だけどその程度の失敗では、今の自分のテンションは下げられない。
それに先生だって顔に出してはいないけれど、本当は嬉しいに違いないのだ。
越えられるはずのなかった冬を越えて、もう一度ここに帰ることができた。それを、誰よりも先生こそが望んでいたはずだから。
「……フゥ。そうだね、じゃあお願いするよグレイナイン。ぼくが作るより君が作ったほうが美味しいし」
軽く息を吐いて、先生は手近な椅子に腰を下ろした。
「はいっ! 腕によりをかけますねー!」
ぶんぶんと腕を振ってキッチンへと向かう。
部屋から出る直前、ちらりと先生の様子を盗み見た。彼はぼんやりと椅子に座っていて、サングラスの奥の瞳が何を考えているのかはやっぱりよくわからない。
けれどそれを見ても、不思議と以前のような不安な気持ちは湧かなかった。
思わず小さく笑みを浮かべ、今度こそ小走りにキッチンへ向かう。REIDOLLグレイナインが生まれて初めて迎える春は、この上なくちっぽけで、この上なく得難い喜びに満ちていた。


* * *


────早いもので、あれから、もう一ヶ月近くが経ちました。

雪が解け、風が変わり、暗黒シティは少し遅い芽吹きの季節を迎えています。
長らく市長軍に押収されていた『梟工房』もこのたびようやく返却され、自分たちは再びこの店へと戻ることが出来ました。
とは言っても、かれこれ4ヶ月以上放置状態にあった店がすぐに使えるわけもなく、掃除や片付け・梟の巣からの引っ越し作業などに追われること4日。今日は、その最終日になります。

あの事件で暗黒シティは様々な被害を受けましたが、その復興作業もようやく目途が立ったというところ。マスタはシラバノの代表として、市長とは対立しつつも協力して街の改善に励んでいます。

……日々は、驚くほど穏やかに過ぎていきます。

自分たちは相変わらずです。
先生とマスタはお互い隠し事をしなくて良くなったぶん、いくらか自然に接するようになっている気もしますが……時々ものすごくぎこちなくなったりするので、プラスマイナスはゼロ。当人同士はそれで特に不満はないようで、微笑ましいのかもどかしいのかわかりません。
それでもマスタは忙しい合間を縫って自分たちに会いに来てくれますし、先生も以前のように意図的に他人を遠ざけようとするところがなくなっています。そういうのは、きっといい変化なのではないでしょうか。

少しずつ前へと。
いろんなことに答えが出るのは、まだずっと先の話。

今はひと時の心地よさに身を委ねて、自分たちは、生きています。


* * *


で、昼食を作って戻って来ると、リビングにはマスタがいた。

「あ、グレイナイン。お邪魔してるよー」
……お邪魔している、などという他人行儀な言い方は、いずれ矯正させねばなりません。
という決意はともかくとして、マスタは先生とお話をしていたようだった。遅めだからと思って急いで昼食を作ったのだが、裏目に出てしまったのかもしれない。
「ちょっと手が空いたから、片付け手伝おうと思ったんだけどね。遅かったかな」
「いいんじゃない? 何しろ君は暗黒シティ中の片付けをしなきゃいけないんだから、この店のことぐらいはぼくとグレイナインに任せてくれれば」
「そうですよマスタ! どーんとお任せ下さい!」
先生の言葉を受けて意気込む自分に、マスタはあはは、と苦笑いする。
「ちょっと買い被りすぎな気もするけど……それはそうといい匂いだね。これからお昼?」
「そうですけど……もしかしてマスタもお昼まだですか?」
「えへへ」
照れ隠しに笑っているものの、それこそマスタが多忙な証拠である。食事と睡眠はちゃんと摂るようあれほど言ったのに、先生といいマスタといい、どうしてそうご自身のことを蔑ろにしがちなのだろう。
ちなみにマスタの言い分としては、会社の食堂は味気ない、それなら携帯栄養食品の方がお手軽だ、ということらしい。そういう問題じゃないというのが分かってないようです。
「はぁ、それなら連絡入れてくれれば、カタナのぶんも作ったのに」
ぼくが作ったわけじゃないけど、と付け加えつつ、先生は嘆息をつく。しかしマスタはきょとんと目を瞬かせて、
「えー、私電話したよ? 繋がらなかったけど」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「……グレイナイン……」
「はぅッッ!」
ぎぎぃっ、と音を立てて、先生の首がこちらを向く。あぁ、そう言えばぶちまけて使い物にならなくなった荷物の中に、電話機のようなものがあったようななかったような。
なんとなく事態を察したらしいマスタも白い目を向けてくる。ここに来て一気に形勢逆転。
「あ、う……す、すいません……」
あえなく白旗を揚げる自分に、マスタはあはは、と楽しげに笑った。
「いーよいーよ、済んだことは仕方ないもんね。考えてみれば携帯の方にかければ良かったんだし……
 私の分は二人から分けてもらえばいいだけだからねー」
「え!? ぼくも!?」
「当然です。ここの家主は誰だと思ってるのかなー、クロくんは」
にまにまと意地悪な笑みを浮かべて先生に詰め寄るマスタ。まったくもっておっしゃる通りなのでぐうの音も出ません。
……まぁ、もちろん最初から、三人で分けるつもりではいたのだけれど。

先生と顔を見合わせて、苦笑を浮かべ合う。

三人で二人分の料理を分け合うなんて、そんな些細でつまらないことが、なんだかひどく嬉しかったのだ。



「はい、こんなもんかな」

と、いうわけでお昼ごはんです。
腕によりをかけるとは言ったものの、食材の買い出しなどはまだこれから。よってメニューはそれほど手の込んだものではない。パラッと炒めたツナチャーハンとサラダスパゲッティそれぞれ二人前を、先生が三人分に分ける。
「わー、おいしそー」
「えへへ、どうぞ召し上がってください」
昨日買い替えたばかりの三人分の食器。マスタは今朝までお仕事でいなかったので、三人揃って使うのはこれがはじめてになる。
なんだかこういうのって家族っぽくていいなぁ、なんて一人でこっそり悦に浸ってみたり。マスタが一緒の食卓は久々だし。
もうしばらくすればお仕事の方も落ち着くだろうし、そうなればこんなことも日常的な光景なるのだろう。今みたいな幸せな気持ちにもいずれ慣れていって、少しずつ薄らいでいく。……そんな「あたりまえ」は、きっととても幸福なこと。
「あはは、やっぱり気楽にごはん食べられるのっていいねー。職場だと気が張っちゃって」
「いっそ地で行けばいいのに。フレンドリーで親しみやすいシラバノの総帥を目指してみるとか。エッジなんかは職場でもアレでしょ」
「あはははははは、───クロくん、なんでそんなこと知ってるのかな?」
ぴしり。
先生の不用意な一言のせいで、あたたかな団欒風景が一気に気温を二度くらい下げた。にこやかな───しかし目が笑ってない───笑顔に迎撃されて、さっと目を逸らす先生。……ここのところ彼の朴念仁っぷりは磨きがかかっている。
「いやあのカタナ、グレイナイン、グレイナインがエッジと仲が良くて、それでぼくもときどき顔を合わせたりするんだけどそれだけ。それだけですからそのハンダゴテをしまって下さいお願いしマス。」
あえて助け舟を出さないでおくと、先生は自分に話を振ってきた。ちなみに語尾が敬語なのは犬がお腹を見せるのと同意義語だ。
「グレイナイン、本当?」
「はい。実はそうなんです」
実際その通りなので、ここは素直に肯定する。エッジさんと自分は共通の目的を持つ、いわば『同志』なのだ。
「へぇ……グレイナインとエッジがかぁ……」
マスタの関心が自分とエッジさんに移ったことで、先生はホッと胸を撫で下ろした。大変だなぁとは思うのだが、半分くらいは自業自得な気もする。

そんな他愛ない雑談を交わしながらの昼食。やっぱり料理は一人より二人、二人より三人で食べたほうがおいしい。
量はちょっぴり少なくなってしまったけれど、お腹とは別のところが満たされる気持ちになった。


楽しい昼食が終わり、食後のまったりとした時間を過ごしていると、唐突にピリリリリリリ、という電子音が響いた。
「あ、ごめん私だ」
マスタは携帯を取り出すと、通話モードへ切り替えて耳にあてる。
「はいもしもし……あ、えぇ、どうかしましたか? ……はぁ? ちょっと待って下さい、私はそんな話聞いてません。……えぇ、えぇ。はい、お願いします。はっきりと伝えて下さい」
自分たちの前では見せない厳しい声と口調。それは、マスタの『シラバノの次期総帥』としての顔だ。
……ふと、今のマスタにとって、シラバノとはどういう存在なのだろうかと考える。

『もしも私が、どうしてもシラバノを継がざる得ないなら───』

思い出すのはいつか聞いた決意。その先にあるのが、今のマスタなのだろうか。
それは、自分なんかが気軽に推し量っていいものではないだろう。別に悲嘆しているわけではないし、自分はそんなマスタを誇りに思っている。
大変なのは明らかだけど、それでもつらそうに見えたことはない。自分や先生相手に愚痴を漏らすくらいはしてくれるようにもなった。
……だから、不満も不安も何一つなく。
ただふと、先生が彼女に向けるまなざしの意味を、考えただけのこと。

「わかりました、ではすぐ私も向かいます。───いえ、それでは後ほど」
何やら思わぬことが起こったらしく、マスタは難しい顔で携帯を切る。
「カタナ、何かあったの?」
「うん、ちょっと市長軍の方とねー……ごめんクロくん、グレイナイン。また戻らなくちゃいけなくなっちゃった」
いつもの彼女の表情に戻って、自分たちに向かって手を合わせるマスタ。それに、自分は慌ててパタパタと手を振って、
「いえ、そんなのいいんですっ。マスタのお仕事は大切なものですからっ!」
ひょっとしたら三人で買い出しに行けるかも、と思っていただけに、残念と言えば残念だ。けれど自分で言った通り、マスタの仕事は暗黒シティにとって必要なこと。そればかりは仕方ない。
「ほんとにごめんね。私もお皿洗いくらいは出来たらよかったんだけど」
言いながらもマスタは、テキパキと出掛ける用意を整える。
「大丈夫ですよ、そんなのこれからいつだって出来るようになるんですから!」
「あはは、そうだね。ありがとうグレイナイン」
笑みを浮かべて、手荷物をまとめたショルダーバッグを肩にかけるマスタ。そして、携帯で手早くタクシーを呼んだ。
「……あの、でもマスタ、今晩は帰って来られるでしょうか?」
できるなら、引っ越し完了当日くらいは三人で晩餐を囲みたかったり。
気持ちは同じなのだろう、うん、とマスタは笑顔で応えてくれた。実際にどうなるかは別としても、それだけでじゅうぶんに嬉しくなる。
「はいっ! お待ちしてますね!」
「ぼくも楽しみにしてるよ。……それじゃカタナ、無理はしないように」
先生と二人でお見送りする。行ってきまーす、と明るく応えて、マスタは再び仕事へと戻って行った。


「……はー。それにしても本当にお忙しいんですね、マスタ」
きっと根っからの苦労人なのだ。いやもしかしたら、マスタはマスタなりにお仕事が好きなのかもしれないけれど。
「まぁ、街の復興や事件の解明には市長軍とシラバノの協力が必要不可欠だからね」
食器を片付けながら先生が言う。
……事件の解明、かぁ。奇跡は神秘のままにしておいた方が、ロマンティックでいいと思うのだけど。
「でもやっぱり淋しいですよー。マスタがシラバノの代表に立ってからこっち、自分たちと一緒の時間の方が少なくなっちゃってます」
「しょうがないさ、あれがカタナなんだから」
苦笑を浮かべる先生。確かにそれはその通りだし、本来ならああして会いに来てくれることの方がありえなかったことを思うと、むしろ現状ははるかにいいものなのだろうけど……
「先生は淋しくないんですか?」
「……いや、まぁそれなりには……って、なにニヤニヤしてるのグレイナイン」
えへへー。うんうん、よきかなよきかな、です。
先生は呆れたような目を向けてくるが気にしない。自分はやっぱりお二人が仲良しでいてくれるのがいちばん嬉しいのだ。と言うかいたたまれない緊張感の間に挟まれる方の身にもなってください。
先生と共に、使った食器をキッチンへと運ぶ。用意は自分がしたので、洗うのは先生の役目だ。最初は自分がやると言ったのだが、お互いが気兼ねなく過ごすためには分担が大事、という先生のお言葉に甘えさせてもらった。
「……そう言えば。先生はもうマスタには話されたんですか?」
ふと思い付いて、前を行く背中に問い掛ける。
「は? 何を?」
「えっと……先生、今年はバタバタしてて見送りましたけど、来年には外界ジ・ワードへ出て行かれるんですよね? そのこと、マスタには言われたのかなって」
「──────……」
……なんですか、その、答えどころかこれから訊こうと思っていたことも訊く必要がなくなったかのよーな沈黙は。
「……あの、先生。まさか」
キッチンの入口をくぐりつつ、「えー、その件につきましてはー…」などと口篭もっている先生の背中にじとっとした視線を突き刺す。食器を流しに置いて、う、と呻く先生。
「……それはまぁ、いずれ言わないといけないことなんだけど」
「当たり前じゃないですかっ。まさかとは思いますけど、先生はまだマスタを置いていく気でいるんじゃないですか!?」
詰め寄る自分に、先生はバツが悪そうに視線を逸らした。それはつまり、無言の肯定。
「……だってほら、カタナにはシラバノの仕事があるわけだし。ぼくの都合を押しつけるわけには……」
「あ───あなたはまだそんなことを……!」
───本気で呆れた。
そういう問題じゃないんだっていうことを、どうしてこの人はわからないんだろう。

「……この……、先生のばかちーんッ!!!!」

べごしっ。

「痛!?」
考えるより先に手が出ていた。ずびしっ、と、思いっきり先生の額に手刀を叩き込む。
「────〜〜……!」
額を押さえて蹲る先生に、びしっ、と指を突き付けて、
「もう、どーして先生はそうなんですかっ! マスタの事情とか他人の都合とか、そういうことはどうだっていいんです!」
「え……ちょ、グレイナイン?」
「いちばん大事なのは、先生が・・・どうしたいのかっていうことなんですよ! 先生はもっと自分にワガママになるべきなんです!」
首根っこを捕まえてがくがく揺さぶる。この件に関してはわりとシャレにならないので、自分の方も必死なのだ。
お二人の、お互いに見返りを求めないところは確かに美点なのですが、そうやって結局二人ともが傷付く結果になってしまったら本末転倒だということがまだわかってなかったんですかあなたはー!
「グ、グレイナイ……ちょ、わかった、わかりましたからやめ……!」
興奮の赴くままにガクガクやり続けていたらいつの間にか先生の顔が白くなっていた。
「うー、本当にわかったんですかー」
仕方ないので手を離し、恨みがましい視線を向ける。先生はゴホゴホと喉をさすりながら、涙目でこっちを見返してきた。
「……わかってるってば……そうだね、本当に、頭ではわかってるんだけどな」
とん、とシンクに凭れ掛かり、先生は天井を仰ぐ。そして、自分自分に呆れたように嘆息をついた。
「……先生は、マスタとご一緒じゃ嫌なんですか?」
「まさか。ただなかなか、……長年培ってきたものはなくならないって言うか」
そう呟く先生の目が、何を見ているのかはわからない。自分には関わりのない彼らの時間。
誰もが当たり前に持ち得るものを、誰もが当たり前と享受するものを、彼らは少しずつ持っていなかった。それを切に求めながらも、手にすることにひどく不器用なのだ。
「……はぁ。我ながら難儀な性分だよ」
「まったくです」
苦笑を浮かべて笑い合う。

……ほんとう。つくづく、難儀なひとたちなのである。



「それじゃ、後はよろしくお願いしますね」
「了解。グレイナインは分かる範囲でいいから、買い足さないといけないものをメモしておいて。個人的に必要なものがあったら書き加えてくれていいから」
調理器具についた油と格闘している先生を置いてキッチンを出る。廊下の窓から射し込む陽射しに、ひらひらと埃が舞っているのが見て取れた。
後でまた掃除をしないといけないのだが、コレはコレでけっこう綺麗だ。しばしぼぅと眺めていると、────ふと、益体のない幻視をする。


……暖かくなり始めた風。清涼な雪解けの陽射し。ファンファーレと紙吹雪と、そして舞い散る櫻の花びら。戻らない誰かと戻らない夢、羽ばたいてゆく白い鳥。届かない光へ手を伸ばす────


「────────」
……皓い光に目が眩む。それは自分からすれば、あまりにも遠い静かな春。
ひとり旅立つ少女の想いを、ここにいる自分が察することなど出来はしないだろう。その決意もその悲哀も、“彼女”だけのものだ。
「……ん。ちょっと、疲れてるのかな」
ここ数日はりきりすぎたのかもしれない。意識はしていなかったが、知らないうちに疲れが溜まっていたのだろうか。
軽く頭を左右に振って、リビングへと戻る。
垣間見た幻はうたかたに消え去るだけ。どこかにあったかもしれない冬の名残り雪を、自分は二度とは思い出さないだろう。

───だって、それはもう自分とは関わりのない話。自分はそんな知らない結末だれかのためにも、問答無用の大団円ハッピーエンドを求めるしかないのだから。


* * *


それから、三日ほど経った。

毎日は相変わらず、忙しなくもゆっくりと過ぎている。今日は公休日、要するに祝日ということで、マスタも珍しく一緒にのんびりと過ごしていた。

「んー、でもそっちを優先すると、西地区の整備がますます遅れちゃうよ? そうするといろいろうるさいし……」
「それは仕方ないよ、ここを早めに片付けないと一帯が崩れる危険性がある。それにここの橋も直さないといけないわけだし」

……だって言うのに仕事の話というのはどうなのでしょうかっ!

せっかくの三人揃った休日なのに、なんでこの人たちは難しい顔で地図とにらめっこしてるんだろう……
そのあまりの不健康さに、思わず人形の目にも涙がこぼれてしまいます。

「むむむ……わかった、そういうふうに掛け合ってみるよ。クロくんのいうことならあっちも邪険には出来ないだろうし」
参考になるよ、とお礼を言って、マスタは机の上に広げていた地図を閉じる。
「これくらいならお安いご用だよ。また何かあったら相談してくれればいいさ」
「うん、ありがとクロくん」
どうやら仕事の話は終わったようだ。ちょうどもうすぐ10時だし、お茶にするにはちょうどいい。
頭を使って疲れただろうから、甘めのものがいいだろう。先生はストレート派、マスタもお砂糖を入れるのは好きではないので、葉自体に甘みのあるものが好ましい。お茶請けには……確かこの間買ったシナモンクッキーがあったはず。
「じゃあ、自分はお茶の用意をしてきますね」
「あ、よろしくねグレイナイン」
「はいっ」
地図を片付けるために立ち上がったマスタに、元気よく答えてキッチンへ。くるりと背を向けたところで、

「────あ」

呆然としたマスタの声に、どたん、という音が重なった。
「え?」
「カタナ!?」
振り向けば、そこには床にへたり込んでいるマスタの姿。慌てて駆け寄る先生に、彼女はぱたぱた手を振って、
「あ、あはは、ごめんごめん。ちょっとふらついただけだから」
「ちょっとふらついたって───」
なんでもないと言うように、マスタは笑顔を浮かべるが───心なしか、その表情には覇気がないように見える。
「マスタ、もしかして身体の具合が良くないんじゃ……!」
自分もそばへ駆け寄って、その顔を覗き込んだ。よく見ると、やっぱり微妙に顔色が良くない。
「だ、だから大丈夫だってば。───ん」
平気なことをアピールするために立ち上がろうとするものの、マスタは先生に掴まったまま顔を顰めて頭を押さえる。傍らで、先生がはぁ、と大きくため息をついた。
「……カタナ。いいから休みなさい」
「え、でも……」
「休めって言ってるの!」
なおも無理をしようとするマスタの言葉を遮って、先生はぴしゃりと言い放つ。微妙に怒っているようなのだが、自分もまったく同感だ。
「ほら、掴まって」
「うぅ……」
叱られた子供のように───と言うかそのものだが───縮こまるマスタ。先生の肩に掴まり、そのまま連行されるように自室へと向かう。
「では自分はお茶を変更して、何か栄養のあるものを作りますねー」
「うん、悪いけどよろしくグレイナイン」
ツーといえばカーと返しそうなほどの連携ぶりだ。今度こそキッチンへと向かう去り際に、ちらりと後ろを振り返る。
「クロくーん、ごめんってばー。私が全面的に悪かったから怒らないでよ〜」
「怒ってません。呆れてるだけ」
「それを怒ってるって言うんじゃないの……?」

───不謹慎な話ではあるが。
REIDOLLグレイナインは、こんなアクシデントも少しだけ楽しかったりするのである。


* * *


「……よし。あとは火を点けて……と」
かちりとコンロに火を入れて、続いて飲み物を用意する。
栄養ドリンクでは味気ないので、蜂蜜入りレモネードなんかいいかもしれない。レモンも蜂蜜も確かあったはず。
「まったくもう。無理はしないで下さいって言ったのに」
一人ごちつつ、温めたお湯に砂糖と蜂蜜を溶かしてレモン果汁を加え、手早くレモネードを作り終える。
火にかけた方はもう少し時間がかかりそうなので、冷めないうちにこれだけでも持って行った方がいいだろう。そう考え、トレイに載せて2階のマスタの部屋へ向かった。

「マスタ、入りますよー」
とんとん、とノックをしてから中に入る。マスタはすでに寝巻きに着替え、先生はベッドサイドの椅子に座っていた。
「グレイナイン、意外と早かったね」
「あ、はい。とりあえずレモネードを作ったので冷めないうちにと」
申し訳なさそうにしているマスタにマグカップを手渡して、トレイはそのままベッドサイドに置く。火にかけた鍋が煮えるまではもう少し余裕があるので、時間を確認してから目立たない位置に腰を下ろした。

「……まったく。君が倒れたりしたら文字通り本末転倒なんだって分かってるのかい?」
「う……だって、今日一日休めば平気だと思って……」
呆れた口調の先生の言葉に、マスタはカップに口を付けつつ苦しい反論を試みる。……のだが、休めば、と言っておいて実際は仕事をしてたのだから、反論どころか言い訳にもなっていない。
自分と先生に生ぬるい視線を向けられて、マスタは素直に降参した。
「……ごめんなさい」
「はい。反省して下さい」
ぴしゃりと言う。しゅーんとしているマスタを見ると悪いかな、とも思うのだけど、良薬は口に苦いものなのだ。
先生は大きくため息をついた後、一瞬だけ気まずそうに目を逸らして、すぐまた真面目な顔でマスタを見た。
「あのさ、カタナ。君、いくらなんでも切羽詰まりすぎじゃないかい?」
え、と呟いて、マスタは言葉を失う。それに先生は苦笑を浮かべて、別に責めてるつもりはないけど、と付け加えた。
「わざと無理してるように見えるってこと。無意識にかもしれないけど、自分で自分を追い詰めてるように見える」
……先生がそういうことを言うのは、少し意外だ。
前の先生は、とりわけマスタの事情に対しては、あえて見て見ぬ振りをしているところがあったのに。……そこまで考えて思い至る。そう言えば、彼はもともとこういうひとだった。今までは口に出そうとしなかったことを口に出すようになった、ただそれだけの話。
マスタはしばし逡巡するように口ごもったあと、観念したようにぽつりと呟く。

「───責任が……あるから」

「責任……?」
問い返す自分に、マスタはこくりと頷く。そして、自嘲めいた笑みを浮かべて、
「具体的には自分でもよくわからないんだけどね。でも……たぶん、あの事件で私は、いろんな人からいろんなものを奪ってしまった。
 だから……罪滅ぼしなんてかっこいいものじゃないけど、私は私に出来ることがしたい」
奪ったからには、その責任を果たしたい、と。
口にする言葉に迷いはなく、彼女はただまっすぐに、自らの決意を告げた。
……それは本来なら、マスタが感じる必要のない痛痒だ。マスタの与り知らないところで起きたことで、誰がマスタを責められるのだろう。
だけどそれでも、マスタはその罰を受け入れた。判りきっていたことだけど───ほんとうに、根っからの苦労人なのである。
「あ、誤解しないで欲しいんだけど、別に私は自分が幸せになる資格がないって思ってるわけじゃないんだよ!? むしろその逆でっ……」
慌ててぱたぱた手を振って、マスタは照れくさそうにレモネードを啜る。
「……むしろ、幸せだから───かな。クロくんがいて、グレイナインがいて……いつか何の疑問も痞えなしに、こんなふうに過ごせれたらいいって思うんだ。
 あはは、ちょっと不義理かもしれないけどね」

遠回りで、決して上手いやり方ではないけれど。
そうやって少しずつ、幸福へ手を伸ばす──────

「……カタナ」
「う。なにクロくん、その顔は」
先生はハァ、と呆れたような嘆息をつくけれど、その頬が微かに緩んでいることを自分は見逃さなかった。
「いや、呆れたような感心したような。カタナにそこまで言われたら、ぼくも言わないわけにはいかなくなった」
疑問符を浮かべて首を傾げるマスタ。
先生はまだ少し決心がつかないようだったが、やがて膝の上で両手を組んで、まっすぐに彼女を見つめた。

「カタナ。───ぼくは次のクローディア号で、外界ジ・ワードへ出ようと思ってる」

「…………!」
びくりと、マスタの肩が小さく震えた。
……覚悟は、していたことだろう。けれど覚悟しているからと言って、容易くそれを割り切れるほどマスタは強くない。ましてや縋るなんて潔さははるか先、彼女はそれを“諦める”ことで精神の安定を図ってきた。
「……ぁ、そ、そう、なんだ。じゃあ」
「だからさ」
ぎこちなく笑うマスタの言葉を遮って、先生は目を逸らさずに言葉を続ける。

「───君も、一緒にどうかな。もうしばらく、君の力をぼくに貸してほしいんだ」

そう。
いちばん最初の誓いを、もう一度彼女に伝えた。

「────────」
マスタはきょとん、と、照れくさそうに頬を掻く先生の顔を呆けたように見つめる。
沈黙することしばし、────ぽたり、と、彼女の頬を雫が流れた。
「え、カ、カタナ……!?」
「あ……ご、ごめ……君が、そんなこと言ってくれるなんて、思ってもみなかったからっ……」
あはは…、と、力なく笑うマスタの手の甲に、ぽたぽたと落ちる水の粒。苦しいことや悲しいことなら、マスタはたいていのことは耐えてしまうだろう。けれど逆に不意打ちの喜びには、彼女はひどく弱い。
「……今、すぐには、返事できないけど……でも、あはは、すごく嬉しい……ありがと、クロくん……」

……思えばマスタの流す涙は、いつも嬉し涙だった。ならこれからもそうであってくれればいいと、そんなことを願う。

涙に濡れたくしゃくしゃの顔で、それでもマスタは精一杯微笑んだ。
なおもこぼれる雫を止められずにいる彼女の頭に、先生はそっと手を乗せて自身の胸へと引き寄せる。そうして、マスタから見えないのが本当に残念なくらい、優しい表情かおを浮かべたのだ。
「……やれやれ。何だか最近、カタナは泣き虫になったんじゃないかな」
「それは……君が、泣かせてるんでしょっ……!」
自らの胸でしゃくり上げるマスタの髪を、先生はやわらかく撫でる。
それはどこまでもあたたかな光景で、思わず自分までもらい泣きしてしまいそうになった。

「……………………」

ぐすっと小さく鼻を鳴らして、静かに席を立った。
そろそろ火にかけた鍋を見に行かないといけないし、今お二人に自分からかけるべき言葉なんてない。

音を立てないように部屋から出る。
向かいの窓からは溢れる陽射し。ガラス越しの空を見上げ、過ぎ去った長い冬を想う。
あの日々を覆っていた厚い雪雲は、今は面影さえ残ってはいない。どこまでも透明な遠い蒼穹に白い雲が流れていく。


────奇跡の果て。

辿り着いたこの春に、どうか祝福を。


失われたものは戻らず、心のキズはきっと消えはしないだろう。
だけどそれでも生きているなら、自分たちには未来がある。
不器用に、手探りに。

失くしたものに見合う何かを、ずっと、求め続けていく────




道は遥かに。

いつかまた冷たい冬が来ても、もう一度この場所へ還ることができますように。











/Episode #SIDE:A -before「color of life」Closed.
 Brand-new days come days go, and to be continued "SIDE:A -The ending with you."

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