There is not you.
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死の陰の谷を歩もうと、わたしは禍を怖れはしない。 /Even though I walk through the darkest valley, I fear no evil; 貴方が、共にいるから。 /for you are with me; ────旧約聖書 詩篇23 + サ ク ラ は 終 る 、 セ カ イ は 廻 る 。 |
T/ その前 新世暦2042年、晩春──── 新世界大陸十三名家が一つ、剣皇家の居城たる白亜の城『剣皇城』。その城内に設けられた空中庭園の一つには、一本の桜の樹が植えられていた。 晶盛を誇った花弁もすでに落ち、今は葉が繁るばかりとなったその下には、少女が一人腰掛けている。 流れるような金糸の髪にローズルビーの瞳。年のころはまだ一桁代であろうが、将来はさぞ美しく成長するだろうことを覗わせる容貌だった。身に纏った騎士装束はまだ着慣れていないのか、どこか落ち着かない印象を与える。 剣皇における有力貴族のうち一つ、天空院家の八女・翼=翔=天空院。桜の袂にある噴水の縁に座り込み、少女は一つ物憂げにため息を吐いた。 さして広さも見所もないこの場所は、人気があることはほとんどない。しかしそれでも翼にとっては、ここは特別な場所だった。 「なんだ翼。ため息は一回吐くと、幸せが一つ逃げていくってー話だぞ?」 唐突に降ってきた声に、翼は驚いて顔を上げる。 視線の先───区画向こうの塀からひょいと飛び降りてきたのは、少女と変わらない年頃の少年だった。 「こ、皇爵……!? どうしてそんなところから……」 膝の上の本を閉じ、慌てて駆け寄る翼に、皇爵と呼ばれた少年はにっと笑って見せる。────剣太郎=吏亜=剣皇。その呼び名と姓が示す通り、現剣皇王爵の一人息子である。 「面倒くさい習い事から抜けてきたからな。あのクソ親父、廊下5メートルおきに監視つけてやがるんだぞ?」 「もう、またですか……! 剣皇の次期当主ともあろう方が、面倒で習い事をサボリなんて……」 服に付いた土埃をパンパンと払いながら言う剣太郎に、翼は呆れたようにため息をつく。皇爵という身分でありながらまったくらしからぬこの少年は、出会った時よりこの調子だった。横柄かつ理不尽で自由奔放。何かに付けては勉強を抜け出し、あげく護衛も付けずに城下をふらふらと遊び歩くなど日常茶飯事である。そのたびに父の剣城からは手痛い罰を受けているはずなのだが、一向に懲りる気配はない。 「皇爵にはいずれお父上の跡を継ぎ、立派にこの地を統べるという義務があるのですから……そんなことでは困ります」 人差し指を一本立てて、怒ってますよー、というポーズをするのだが、剣太郎は聞く耳もないのか明後日の方向を向いてあくびしている。もう何度となく繰り返していることなのだから、それも無理はないのだが。彼女だって今さら自分の言葉で、少年が行いを改めるとは思ってはいなかった。 「ハイハイ、翼も真面目だな〜。そう肩肘張ってると疲れねぇ?」 「ご心配には及びません。私はあなたの“第一騎士”なのですから、これぐらいは当然なんです。……皇爵こそ、もう少し肩肘を張られてもいいと思いますけど」 「はっはっは。そりゃ無理だ」 じと、と半目で睨む翼に、あっけらかんと笑ってのたまう剣太郎。わかってはいたことだが、再び彼女の唇からは大きな嘆息が漏れる。 そもそも翼は、本来騎士を志していたわけでも何でもない。目の前の少年によって一方的にそう決められただけなのだ。要するに今の言葉は皮肉以外の何物でもないのだが、剣太郎にはまったく通じていないようだった。 「お、翼なんだそれ。本?」 と、めざとく翼が横に置いたものを見つけ、覗き込む剣太郎。先ほどまで少女が座っていた場所には、古めかしい表紙に綴じられた分厚い本が置かれている。 「あ、それは……」 「ずいぶん古いなこりゃ。……なんて書いてあるんだ?」 剥げかけた黒い表紙を指し示して問う剣太郎。表題らしきものは、失われた時代の言葉で書かれている。無理矢理習わされた古代語なら少しばかり覚えがあるが、それでもこれは読めなかった。 「家の書架にあった、第一古代文明期の聖書です。……あ、もちろん写本ですけれど。当時最も広く信仰されていた、三つの宗教のうち一つのものだと聞いていますよ」 「げ、マジか? そりゃまたとんでもない古さだな。嗣矩真でもそうそうないんじゃねーか」 第一古代文明と言えば、その名の通り新世暦が生まれる前のさらに以前に遡る。古代都市と呼ばれる嗣矩真領であっても、それほどの遺物はそうそう見つからないだろう。……もっともその時代のものは文明としては非常に幼く、あくまでも研究資料としての側面が強いのだが。 ぱらぱらと捲ってみると、黄ばんだページに細かな文字がびっしりと綴られていた。内容はさっぱりわからないのだが、聖書というからには神様のありがたいお言葉が書かれているに違いない。見ただけでも眠気を誘う文字の洪水。 「……こんなのよく読めるな、翼」 三秒で飽きたのか、半ば放るように剣太郎は聖書を突っ返す。そして本が置かれていた、噴水の縁にどさりと座り込んだ。 さりげなくその隣に腰を下ろしながら、翼は膝の上に聖書を戻す。もともと彼女は決して活発な方ではない。剣太郎によって第一騎士と任命されるまで、出来る限り目立たないよう、大人しく読書をしているような少女だった。特に聖書の類を好んで読むため、旧時代の言葉も自然と身に着けていったのである。 「ただの趣味ですから……たいしたことではありません」 「趣味ねぇ。面白い?」 「まぁ皇爵がお読みになっても、つまらないとは思いますけど」 くすりと微笑む翼に、そりゃそーだ、と頷く剣太郎。ただだからと言って、彼らの気が合わない、というわけではなかった。むしろそうした差異こそを剣太郎は楽しんでいる。 「わかってもらえて光栄だね俺は。あとはそんな感じで、もーちょい笑顔が多いと言うことなしなわけだが」 「え?」 「前にも言ったろ? 翼は笑えばけっこう可愛いからな」 さも当たり前のように言って、にっと笑う少年。その言葉に、翼の頬が朱に染まる。飾り気のない直球な表現は、彼にしてみれば何の他意もないのだろうけれど、彼女にとっては危なっかしいことこの上ない。主に誤解を招くという意味で。 「こ、皇爵……! また、そういういい加減なことを……」 「いーかげんってのはないだろーが。ムスッとされてるより笑ってる方がいいに決まってるじゃねーか」 ホレホレ、とばかりに翼の頬をつまみ、無理やり笑顔の形を作る剣太郎。しかし当然翼は抵抗するので、なんだかもうわけのわからないものになっている。 「ひゃっ……ひゃにをなしゃれふんれうか、こーひゃくっ……!」 「わっはっは、どーだ翼、おもしれーぞー」 「おもひろはってふのは、こぅひゃくじゃにゃいれうかー!」 大笑いする剣太郎から何とか逃れ、翼は色んな意味で赤くなった頬をさする。彼の前では何とか完璧な自分でいようと努力しているのに、この少年はそんなことお構いなしで引っ掻き回すのだ。いつだって強引で我がままで……そして、目映いほど鮮やかに。 「まったくもう……皇爵には敵いません」 呆れたような言葉とは裏腹に、翼は満面の笑顔を浮かべた。容姿の可憐さも相まってか、それはまるで春の花が咲いたかのような印象さえ覚える。 もしも以前の彼女を知る者がいたとしたら、その変化には目を丸くしたことだろう。いつも下を向き、暗く沈み込んでいた少女は、少しずつその光を取り戻し始めている。 ────ある一人の少年に、手を差し伸べられたその時から。 「そうそう。そーやって笑ってりゃ、こっちも気分が良くなるってもんだからな」 満足げに笑い返して、剣太郎はわしわしと少女の頭を撫でた。およそ優しいとは言い難い手つきではあったが、そのあたたかさが嬉しくて、はにかむ翼の頬に再び朱の色が差す。こんなふうに翼を一喜一憂させるのも、少年の言動一つだ。 「よしっ、そんじゃあ剣楼一周ツアーだ! 前は途中で連れ戻されたからな、今日こそ遊ぶぞ翼!」 「またですかっ!? ちょ、ちょっと待って下さい皇爵っ……!」 勢いよく立ち上がり、剣太郎は翼の手を引く。引っ張られる格好でその後ろに続きながら、翼は苦笑を浮かべた。 「……どうなっても知りませんからね、私は」 「親父が怖くて剣皇皇爵がやれるかっての。ま、翼も一緒に怒鳴られちまうかもしれねーけどなー」 肩越しに振り向き楽しげに笑う剣太郎を、翼は眩しげに見つめた。言葉だけ聞けば巻き添えにしているも同然だが、それが少年の思いやりであることは彼女だって気付いている。翼が彼に遠慮したり、自分を卑下することのないように、対等な相手として扱ってくれているという証拠だ。それを、当たり前のように行えるひと。 「主に従うのも、臣下の務めですから。でもあんまり羽目を外しすぎないように……って、皇爵?」 注意を促しつつも笑顔だった翼が、思わず目を丸くする。 剣太郎が彼女の手を引いて向かう先は、城内へと続くアーチ状の出入口ではない。むしろその反対、背の低い石柵が設けられているだけの外壁側──── 「こッ……皇爵、まさか……!」 「だいじょーぶだ翼、落ちても下まで!」 一気に顔を青くする翼に何が大丈夫なのか理解不能な言葉を返し、彼女の手を引っ張ったままひょいと石柵を乗り越える剣太郎。当然その向こうには足を着ける場所などどこにもなく、視界に飛び込んでくるのは剣楼の展望とよく晴れた青空──── 「行くぞ翼!」 「ま、待ってこうしゃひにゃぁぁぁああぁぁぁぁーッッ!??」 翼の制止など一切待たず、少女共々躊躇なく空中へと身を投げ出す剣太郎。重力に絡め取られ一気に落下していく感覚。耳もとで唸るごぅ、という風の音。いつかにも味わった恐怖に思わずきつく目を瞑り、ただ彼の手だけは離すまいと握り締める。 ……が。 ややもせず、翼はその感覚がなくなっていることに気が付いた。 「おーい翼、もう落ちてないぞー」 「…………え?」 きょとんとして目を開けると、身体の下に硬い感触。金属のような陶器のような、それでいて生きているかのような特有の乗り心地には覚えがある。そこは、魔法獣騎の背の上だった。 半身を起こすと、傍らには獣騎に跨る剣太郎の姿。手を繋いだままなので進行方向とは逆向きに座っていることになるが、獣騎は搭乗者の意思を汲みゆったりとした速度で宙を進んでいた。 「こ、こ、こ……皇爵」 「な。だいじょーぶだったろ?」 得意げに笑い返す少年の顔を見ると、徐々に緊張が解れてくる。と同時に、剣太郎のめちゃくちゃぶりに対する怒りもまた首を擡げてきた。 「だっ……大丈夫じゃありません! いくらなんでも無茶しすぎです!! ほんとに寿命が縮まりました……!」 握られた手の震えを隠すことは出来そうにないので、せめてと思って反対側の手をぺしぺしと獣騎の背に叩き付けてみる。自身が怖い思いをさせられたのももちろんだが、それ以上に剣太郎の身に何かあったらと思うと堪らない。 がしかし、当の剣太郎はと言えば、あっけらかんと笑うばかりだった。 「無駄に長生きするより、太く短く生きりゃいーんだって。だいじょーぶだ翼、俺もお前もそう簡単にくたばるようなタマじゃねーよ」 いったいどんな根拠があっての言説なのかは定かでないが、自信たっぷりにそう言い切られるともはや反論する気力もなくなる。まったくもう…と肩を落とし視線を下げた翼の目に映ったのは、……遠く下界を流れていく剣楼の望景だった。 「……あ、ぅ……」 今更と言えば今更だが、改めて目にするとその高さにくらりと意識が遠のきかける。フリーフォールよりは遥かにマシとは言え、血の気を引かせるには充分すぎた。 「んじゃ、そろそろ飛ばすぞ。しっかりつかまってろよ翼」 一方そんなことはお構いなしに身体の向きを反転させ、進行方向へと向き直る剣太郎。繋いでいた手を離され、慌てて翼はその背にしがみ付く。 「こここ皇爵、わ、わたし、高いところダメなんですけど……!」 「……お前って、ほんとにダメなもんが多いな」 まぁそのへんは無理からぬ部分もあるので、ひとまず追求はしないでおくが。 縋るように回された小さな手を握り、剣太郎は肩越しに振り返る。そして背中で怯える自らの第一騎士に、いつものようににっと笑い返した。 「絶対に落としたりしねぇから安心しろって。 家来を守るのは主君の役目だ。俺は、翼を見捨てたりしない」 「っ……、こ、皇爵……!」 一方的に断言すると、翼の反応も待たずに剣太郎は獣騎を加速させる。髪を浚う強風。剣楼一周などとのたまうだけに、かなりの速度を出している。 けれど不思議と、もう怖いとは感じなかった。それ以上の強い感情が、胸の内を支配している。 少年の言葉には、やはり何の根拠もない。それでも彼がそう言うならば、きっとすべて真実なのだ。自分はただ彼を信じていればいい。 ──────それは、恋だと確信していた。 生まれてはじめて……そしておそらくは、生涯でただ一度きりの。 重なった手をそっと握り返す。少年は振り返りはしなかったけれど、結ばれたてのひらの温かさは変わらない。それだけで翼には充分だった。 だから神さま、お願いします。 他には何もいりません。どうかこんな日が、いつまでも続いてくれますように。 * * * U/ その少し前 「あーあ、翼ちゃんはいいなぁー。剣太郎くんが優しくしてくれて」 「……は?」 いつもの空中庭園で、剣太郎による翼の猛特訓が一時休憩となった後。 花壇の縁に腰を下ろしていた少女が、翼を見上げてそう言った。 手にした木剣を支えにゼーゼーと肩で息をしつつ、翼は彼女を見る。真珠色の髪に紫水晶の瞳、快活そうな表情。たった今自分と同じだけの運動をこなしたくせに、息一つ乱してはいない。 心=光吏亜守=乃亜。聖王家に属する聖爵ではあるが、剣太郎と同じくそうしたところはまったく感じられない。しょっちゅう彼と一緒にいるため自然と親しくなったのだが、彼女の方もどういうわけだかやたらと自分に構ってくる。これまた剣太郎と同じく変わり者な少女だった。 「や、やさしいって、どこが?」 あのガキ大将を絵に描いたような皇爵が? ───いや、確かに大枠で括れば、彼は優しい人間なのだが。ちょっと傍目にわかり難いだけで。 だが心の口ぶりは、まるで傍から見ても剣太郎が翼に優しいと言っているふうだった。まぁ彼女はわりとそういう、ひとの気持ちを見透かしたような言動をすることがままあるのだが。それにしたって今この状況で「優しい」はないと思う。ついさっき、翼は剣太郎に死ぬほどしごかれたところだと言うのに。 「だって剣太郎くん、翼ちゃんのことすごく気遣ってあげてるよー? 私なんてあんなぞんざいな扱いなのに」 「それは、皇爵が心ちゃんには気を許してるからじゃないですか。気遣ってるように見えるのは、単に私が弱いだけで……」 「そんなことないよー。だいたい剣太郎くん、私には『笑顔が可愛い』なんて言ってくれたことないし!」 いいなーいいなーと足をばたばたさせる心に、翼は困惑して立ち尽くす。先ほどから頻りに羨望を訴える少女だが、彼女にとっては、むしろ──── 「何やってんだお前ら。また俺様の悪口でも言ってんのか?」 と、そこにひょっこりと戻ってくる渦中の少年、剣太郎。片手にはドリンクの入ったボトルを持っている。 「あ……、」 「おかえりー、剣太郎くん」 「……皇爵」 心に僅かに先んじて振り向いた翼だったが、声をかけたのは心の方が先だった。その意味に気が付くには、彼らはあまりにも幼かったのだろう。 「ほれ翼、水分補給。まだまだビシビシしごくからしっかり休んどけよ」 言って剣太郎は、放るように翼の手の中にボトルを押し付ける。どこへ行ったのかと思ったら、わざわざこんなものを用意してきてくれたらしい。……もっとも、調達方法についてはあまり考えたくないが。 「あ、ありがとうございます」 「あーっ、また剣太郎くん翼ちゃんだけえこひーきしてるー。いいなー、私にはないのかなー?」 「お前はピンピンしてるじゃねーか……」 自分を指差し元気にアピールする心を、剣太郎はげんなりと見遣った。ちなみにこの少女、純粋な体術のみでなら剣太郎の上を行く。 「あ、あの、心ちゃん……良かったら半分こ、」 「それじゃ意味ないんだってばー!」 今度は腕をばたばたさせる心に、そうですよね、と嘆息混じりに呟く翼。水分を摂りたいのはやまやまだが、これではどうも飲みにくい。 「何だよ心、そんなにあれが飲みたかったのか?」 「もー、どこまでとーへんぼくなんだ君は! そーじゃなくて、翼ちゃんにばっかり優しいのは不公平だといーたいのー!」 「はぁ?」 何をいきなり言い出すのかとばかりに、力説する少女を剣太郎は呆れたように見る。それから深々とため息を吐き出し、 「またワケのわからんことを……だいたい俺様は誰にでも優しいっつーの。一人二人例外がいるだけで」 「あはは、その例外って私のことだ。……主旨ぜんっぜん理解してないね剣太郎くん」 「理解する気もねぇよ」 きっぱりと言い切る剣太郎にいよいよ心の不満が爆発し、言い合いは次第に手と足が出る喧嘩へとエスカレートしていく。こうなるともう翼では止めようがなく、少女は二人の間でおろおろするしかないのが常だった。 ……そう、それがいつものこと。 二人が会話すれば、少女はあっという間にそこから弾き出されてしまう。自分から声をかけるなんんて許されるはずもない。 割り込む隙などどこにもありはしない、あまりにも美しい正円──────完成された理想のカタチ。 翼が羨ましいと心は言った。 けれど翼にとっては、誰よりも心こそが羨ましい。 姿形でも能力でもない────ただ、その在り方が輝かしい少女。そうして存在するだけで、世界の全てから愛されているかのよう。誰よりも尊いあの少年の、その隣に並び立つに相応しい祝福の王冠──── 出会ってまだ半年と経っていない翼にそう確信させるほど、心=光吏亜守=乃亜という少女は“特別”だった。 彼女と話すときの剣太郎が、どんなときより楽しげなのに気付いている。彼女のことを語るときの剣太郎が、どれほど饒舌なのかを知っている。 それに比べたら、自分なんてどこにでもいる一人に過ぎないのに……胸に突き刺さる現実は、どうしようもないほどに絶対だった。とうに決められていたこと。覆りようのない運命。心=光吏亜守=乃亜ならば、剣太郎=吏亜=剣皇に相応しい栄光へ導くことが出来るだろう。その 「……………………」 ……ああ、まただ。気が付けば、また俯いてしまう。それでも視界が滲みそうになるのだけは、必死で堪えた。苦しくなんてない、つらくなんてない、誰も悪くない。ここにこうしていられるだけで、自分には充分に過ぎたことなのだ。 「あれ、翼ちゃん? どうかした?」 呼びかける声に、はっとして顔を上げる。覗き込む心に慌てて首を横に振った。 「あ……ご、ごめんなさい。何だかぼうっとしてしまって」 「なんだ翼、もうへたばったのかよ? なさけねーなー」 「し、しかたないじゃないですか……私、もともと体力ないんですから」 そうしていつも通りに振る舞う。だって、そんなのは最初からわかっていたことだから。 あなたに出会ったのは運命。あなたに恋したのも運命。そして、この想いが届かないのも、運命。……それでも、この運命を恨むことなど出来るはずもない。たとえどれほど苦しくても、あなたのいない苦しみよりはずっと────…… 「ったく、世話が焼けるな。んじゃ休憩5分延長な、それ以上はねーぞ」 ガリガリと頭を掻きつつ、そのあたりに適当に腰を下ろす剣太郎。その隣へ心は自然に座る。 「ほらー、また翼ちゃんに甘い。ね、翼ちゃんもそう思うよね?」 「え……そ、そんなこと言われても」 「しつけーなー……そんなに言うなら翼の半分でもお淑やかにしてみろっつーの。ぜってー無理だと思うけどな」 「ぶー、そんなことないもん! ねーさんは大人しくて物静かだし、私だってやれば出来るんだからねっ」 拳を振り上げ力いっぱい断言する心に、ないないと馬鹿にした笑みで手を振る剣太郎。それを、苦笑しながら一歩引いて眺める翼。 ずっとその距離だった。そしておそらくは、これからも永遠に埋まることのない距離。でもそれだって構わなかった。正しき運命が彼を正しき場所へと導くのなら、それを壊すことなど赦されるはずもない。 そしていつか少年は、目指す彼方へと辿り着く。そこへ連れて行ってくれると信じている。あなたは前を見て進むひとだから……後ろにいるわたしに、振り返りはしないけれど。 ────でも、想うくらいはいいですよね? 見返りを求めたりしない。彼を傷付けてしまうから、多くを望んだりはしない。 だけどせめて、ここから想い続けるだけなら……それくらいなら、許されてもいいですよね……? 『よし決めた。お前、今日から俺様の家来にしてやろう』 『お前も俺の家来なら下向くな。んで、俺の前では笑ってろ。いーか、これは命令だぞ』 はい、泣いたりなんてしません。 そばにさえいられるなら、笑顔でいると約束します。 だから好きでいさせてください。だから……………… * * * V/ その日 「私を置いて行かないで下さい! 皇爵……!!」 * * * W/ そして 新世暦2051年4月1日、儀吏亜学園事件。 襲い来る隣国の魔法獣騎を薙ぎ散らし、天を駆けるひときわ美しい一人の騎士。 「剣皇の……三獣騎」 降りしきる雨の下、灰色の空を切る魔法獣騎を見上げ、少年は呟いた。 聞こえるはずもないその声が届いたかのように、獣騎の背に立つ騎士の少女は彼を見る。はや戦場と化した学園で、けれどそんな現実さえ嘘のように、天上の彼女は柔らかに微笑んだ。 |