Jesus, bleibet meine Freude.
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あの時ほど、世間の噂はアテにならない、と思ったことはありませんでしたね。 ────そう言って、彼女は穏やかに微笑んだ。 + プ リ マ ヴ ェ ー ラ ・ オ ー バ ー チ ュ ア |
「よし決めた。お前、今日から俺様の家来にしてやろう」 「………………は?」 その、あまりにも突拍子のない宣言に呆然とすることしばし。 停止した思考を何とか解凍させ、もう一度思い返してみるものの、やっぱりわけがわからなかった。 「な、な、な……!? 何を仰ってるんですか!?」 大量の疑問符で頭の中を満たしつつ、彼女───翼=翔=天空院は偉そうにふんぞり返っている少年を見る。 ────剣太郎=吏亜=剣皇。言うまでもなく、このパーティ会場の主役である人物。そしていずれは新世界大陸の主役にすらなるであろうと噂される、名高き剣皇の皇爵だ。 そんな相手が自分に話しかけてきたというのも驚きだが、それ以上に今目の前にいるのは、本当にあの剣太郎=吏亜=剣皇なのだろうか……? 直接言葉を交わしたことこそなかったものの、その噂は剣皇に住む者であれば耳にしないはずがない。天賦の才に恵まれ正義感に溢れた勇敢な人物───ということだったはずなのに、腕を組み、尊大にこちらを見下ろす姿は、なんかそれとはだいぶイメージが違うような。 「何を、も何もねーだろーが。この俺様が家来にしてやるって言ってんだぞ? 涙を流して喜ぶのが当然の反応だろ」 「そういうことではなく!」 「ちなみに拒否権はねぇからな。ハイかイエスで答えろ」 ……無茶苦茶だ。ちょっと、思考回路がついて行かない。 だいたい最初にものすごく失礼なことを言われたような気がするのだが、そこから「よし決めた」に繋がるプロセスからして謎過ぎる。思わず頭を抱えそうになるが、問題はもう一つ。遠巻きに自分たちを取り囲み、ざわざわと視線を投げかけてくる出席者たちの存在だった。 パーティの主役である剣太郎がここにいるのだから、人目が集まるのは当然のこと。……しかし、目立つのは良くない。そんなことになれば、兄や姉がここにやって来てしまう。幸い会場が広いためか周囲にその姿はないようだが、もし誰かがこの騒ぎに気が付けば、どんな言葉を投げかけられるかわかったものではないのだ…… 「も、申し訳ありません皇爵。わ……わたしは急用を思い出しましたので、このお話はまた後ほど……!」 一方的に話を切って、ぺこりと頭を下げると大急ぎで会場を後にする。 どこか人目を避けるように駆け去って行く小さな後ろ姿を、剣太郎は嘆息と共に見送った。 / 人気のない方へない方へと走って来ていたら、気が付けば翼はどこかの空中庭園に辿り着いていた。 と言っても、これと言って何の特徴もない場所だ。あるのは芝生と噴水、あとは一本だけの桜の樹。はらはらと花弁を零す夜桜の幹に手を付き、翼はハァ、と息を吐いた。 「……なんだったんだろう、さっきの」 思い返すのは、あの皇爵の顔だった。不遜な笑みを浮かべ、自分を家来にしてやる、などとのたまった少年。 本当に、いったいどういうつもりであんなことを言ったんだろう。少なくとも翼は、自分が剣皇皇爵直属の臣下に相応しいとは思えなかった。天落の騎士などと蔑まされ、何をやっても失敗ばかりの、何の取り柄もない自分が。 『────お前は本物の愚図だ。 一人では何も出来ない、何の才覚も用途も無い。飾っておくだけの人形と変わらん。ならばそれらしく、屋敷で埃を被っていればいい』 瞬間的に脳裏に蘇った長兄の声に、少女はびくりと身体を竦める。 無論、それはただの記憶。兄どころか、誰の姿もこの庭園にはありはしない。だが確かに、それは彼女を縛り付ける呪詛だった。 彼らが翼に求めるものは結果だけ。その過程になど興味はない。だから何をさせるにしても、彼女に正しい手順を教えることなどしなかった。 当然、幼い子供が見様見真似で出来ることなど多くない。翼が兄姉から何かを命じられ、まず最初にすることは、誰かにそれを習おうとし「教えられない」と断られるか、「そんなことも分からないのか」と嘲笑われるかのどちらかだった。 ────そう、彼らは結果しか求めていない。“出来ない”という結果だけを。 『あら、取り柄なら一つだけあるではありませんか。 ……卑しくもお父様に取り入った、あの女そっくりの顔が。それで少しくらいは、役に立って下さいな?』 今度は姉の声。無能な人形だと罵られ、半ば城に軟禁同然の生活を強いられてきた彼女が、今日このパーティへ連れて来られた理由だった。 だから本当は、皇爵から声をかけてもらえたのは、とても幸運なことだったと言える。そうでなければ彼女はずっとあの壁際で、誰の目にも留まることなく、俯いて時間が過ぎ去るのを待っていたはずなのだ。そうして天空院の城に戻った後、何の成果もなかったことを姉に罵倒され、眠ることもままならないほど痛めつけられていたことだろう。 ……無論、翼に落ち度がないわけではない。少女はもともと要領のいい方ではないし、人見知りも激しい。兄姉の機嫌を損ねないよう上手く立ち回ることが出来ていれば、ここまで関係を悪化させることもなかったはずだ。 だが、僅か6歳の少女にそんな割り切りを求めるのは酷なこと。まして姉の言い分に従うということは、母を貶めることに繋がってしまう。 確かに翼は後妻の娘だ。前妻はすでに亡くなっているが、父を敬愛している長姉が翼や翼の母を快く思わないのは仕方がない。でも、だからと言ってその言葉を受け入れるわけにはいかない。病弱だが優しくあたたかな母が、父に取り入ったなんて絶対にない。 それは少女なりの、ほんのささやかな反抗。いざ兄姉を前にすれば、何の意味もない程度のもの。何時間も続く支離滅裂な罵倒の間、彼女には反論どころか言葉を発することすら許されていない。……だとしても、ただその時間を引き延ばすだけのものだとしても、決して頷くことは出来ない。 「……だいいち。あれは、皇爵が私をからかっていただけだろうし……」 そう考えればもっともだ。たまたま目に付いた私に冗談を言ってみただけ。 ならもう少しスマートに受け答え出来れば良かった────そう彼女が思い直した瞬間、 「何言ってやがる。いたって本気だぞ、俺は」 と、少女に答える声があった。 「ッ……!!?」 びくりとして後ろを振り向くと、そこにいたのはあの少年。剣太郎=吏亜=剣皇だった。彼の後ろにはあの時もいた、真珠色の髪の女の子もついて来ている。 「たく、人の話の途中で勝手に逃げんじゃねぇよ。しかもこんなとこまで入り込みやがって……捜すのに苦労したじゃねーか」 「こ……皇爵!?」 「おぅ。また後でって言ったからな、わざわざ俺様から出向いてやったんだぞ?」 またしても上から目線。確かに身分からすれば彼の方がはるかに上ではあるのだが、にしてもやっぱり聞いていたイメージと違いすぎる。 「ま、まさか本当に本気なんですかっ……!?」 「あったりまえだろーが。見たところ騎士っぽいし、俺様の第一騎士として仕えさせてやるぞ? 光栄だろ?」 ……確かに光栄なことだ。これが通常ならば。 しかし繰り返すが、自分は彼と言葉を交わしたのは初めてだし、もちろん過去に面識もない。騎士の位だって兄姉から無理矢理与えられたもので、名が知られているわけでも何でもない。少年が自分を選ぶ理由は、何一つ思い当たらなかった。 「そ、そんなことを言われても……どうして私なんですか。皇爵に相応しい騎士でしたら他にいらっしゃるでしょう。私なんか……」 落ちこぼれで何の力もない。そう言いかけたのを、俯いて飲み込む。 翼の疑問にしばし考え込む剣太郎。どう答えたものかと思案しているとばかり思っていた彼は、しかし。 「んー? いや別に、何となく?」 ────などと、ある意味とんでもない返答を寄越したのだった。 「…………はい?」 「強いだけの騎士とかいらねーし。なんたって、俺が最強なんだからな。 周りが親父の息のかかった使用人だとか騎士ばっかで窮屈この上ないんで、とりあえず俺専用の家来がほしいわけよ」 びし、と翼に指を突き付けつつ、ミもフタもない理由を述べる剣太郎。 と言うか、理由になってない。あまりにめちゃくちゃな理屈に開いた口が塞がらないと言うのに、……どうしてだろう。その少年が口にすると、そんな理不尽もどこか爽快に思えてしまうのは。 「ハァ。まったくもー、剣太郎くんこーゆーことばっかり熱心なんだから」 と、ここでため息をついて話しに加わって来たのは、今まで黙って成り行きを見守っていた少女だった。 「……こーゆーことってどーゆーことだよ、心」 「浮気。剣太郎くん、可愛い女の子と見るとすぐに声かけるんだもんなー」 むー、と頬を膨らませる少女に、ぶはっと噴き出す剣太郎。そして顔を真っ赤にし、少女に指を突きつけて、 「だ、誰がンなことするか!! つーか浮気も本気もねーしテメーにそんなこと言われる筋合いもねー!!!」 「ね、君も気を付けてね。剣太郎くんはとんでもないオンナタラシなんだから。女の子にはすぐにいい顔するんだよ」 「人聞きの悪いこと言うなってか人の話聞けー!!!!」 突如目の前に展開される痴話喧嘩(…って言うんだろうか?)に、翼はぽかんとするしかない。 剣太郎の変わりようももちろんだが、あれだけ尊大だった剣太郎をいとも容易くお手玉にしている少女もすごい。……すごいんだけど、こっちは完全に置いてけぼりだ。 「だってホントのことだもん。私というものがありがながら、剣太郎くんのうわきものめ」 「だから、テメーが俺のなんだっつーんだよ!?」 「うーんと。 「勝手に言ってるだけだろーがぁぁぁ!!!!」 真っ赤になってわめく剣太郎と、すっかり上機嫌で楽しそうな少女。はたから見てもからかわれているのは明らかなのだが、少年にクールダウンする気はないらしい。これはこれで仲がいい、と言えなくもないのだろーか? 繰り広げられる賑やかな光景に、翼はしばし呆然とし。 「……………………ぷっ」 気が付いたら、思わず笑いを零していた。 さっきからいろいろとついて行けないことばかりで、もう考えるのも馬鹿馬鹿しくなったからかもしれない。 「────────」 「────わらった」 くすくすと笑いを漏らす翼を、今度は二人がぽかんとして眺める。それに気付き、翼ははた、と笑いを引っ込め、 「あっ……も、申し訳ありません、皇爵を笑うなんて……!」 「……いや、それはいーけどよ」 慌てて頭を下げるが、剣太郎は突然むすっとした態度になってしまう。いきなりの変化に困惑する翼を、もう一人の少女は何とも複雑そうな目で見遣る。 「むー、君の笑顔に嫉妬。 ……でもまー、確かにすっごく可愛かったもんねぇ。剣太郎くんもメロメロだー」 「誰がメロメロだ、誰が。……ったく、下ばっか向いてるからどんだけ見れねぇツラかと思えば。 なんだよ、笑えばけっこう可愛いじゃねーか」 「はい?」 またしても何が何やら。台詞の内容だけ聞けば褒められていると取れなくもないのだが、だったらそれを言っている本人はどうしてこうも不機嫌なのか。……と言うか、ひょっとして怒ってる? 「あ、あの……」 「で。俺の家来になるココロの準備は出来たか」 「えぇっ!?」 そう言えばそんな話だった。展開について行けないのは相変わらずだが。 「拒否権はねぇ、って最初に言っただろーが。けどいちおー、返事はちゃんと聞いておかねーと言質が取れねーからな」 「で、ですから……そんなことを言われても困ります……皇爵の第一騎士なんて、私には相応しくありません」 俯く翼に、見るからにイライラゲージを上げていく剣太郎。で、それを横からニヤニヤしつつ見守る少女。 「どーしようか剣太郎くん、意外と強情だよ? 剣太郎くんとおんなじだ」 「うっせぇ、黙ってろ心。 ……ったく、メンドくせーなぁ。俺がいいって言ってんだから相応しいも相応しくないもねぇだろーが。何が不満なんだよ?」 がりがりと頭を掻く剣太郎。……何が不満かも何も、翼にはそもそも、なぜ少年がここまで自分に拘るのかが理解できない。 「ふ、不満とか、そういうことではありませんっ。私のような者がおそばにいても、皇爵のご迷惑に……きゃっ!?」 翼の言葉が終わらぬうちに、剣太郎はがしっ、と彼女の手を掴むと、そのままずんずんと庭園の端に連れて行く。背の低い石柵があるだけの外壁側に向かって。 ……何となく、嫌な予感を覚える翼。しかしそんなことには一切構わず、剣太郎は石柵の上に足をかけると、 「────もう一度言うぞ、これは決定事項だ。 お前が頷かないなら、俺はここから飛び降りる」 と、本気でトンデモナイ脅迫をしてきた。 今度こそ絶句する翼。おお熱烈アプローチ、などと呑気に拍手している少女。 「な───何を考えてるんですか皇爵は!? あ、あなたも見てないで皇爵を止めてください……!」 「えー? うーん、剣太郎くんも頑固だからねー。こうと決めたら聞かないって言うか」 噴水の縁に腰掛けて、少女は慌てたふうもなくそんなことを言っている。 しかし手を掴まれたまま、今にも飛び降りそうな剣太郎と間近にいる翼としてはそんな悠長な状況にはない。遠く広がる剣楼の夜景、地上からゆうに数百メートル。こんなところから落ちれば、子供の身体など原形も留めないだろう。 ……夜空に浮かぶ三日月。幻視するダレかの笑み。頭を痺れさせる恐怖は、果たして何によるものか──── ──────だめだ。 何の理由もなくそう確信した瞬間、翼は叫んでいた。 「わっ……わかりました、わかりましたから……! だからお願いです、そんなこともうやめて下さい……!!」 「よーし! よーやく頷いたな」 にっと笑って、剣太郎はあっさりと石柵から降りる。 掴んでいた手を離されて、翼は崩れ落ちるように、ぺたん、とその場に座り込んだ。 「もー、剣太郎くん脅かし過ぎだよー。ね、だいじょーぶ?」 遠巻きに眺めていた少女もとことことやって来て、剣太郎を窘めつつ翼の顔を覗き込む。……血の気の引いた顔。かたかたと小さく震える身体。本気で飛び降りるはずなどないことは少し考えればわかりそうなものなのに、その反応はオーバーすぎる。 しまった、やり過ぎた? ───と、ぎくりとする二人の前で、翼の瞳にみるみる大粒の涙が溜まっていく。 「……ひ……ひどいです、こうしゃくっ……ふわぁぁぁぁん……!!」 「っ……!? ば、ばか、泣くほどじゃねぇだろーが! そりゃちょっと調子に乗り過ぎたかもしれねーけど……!」 「わわっ……、どどどどーするの剣太郎くん、泣いちゃったじゃないー! ……ね、ねぇ落ち着いて、泣き止んでー……」 しゃくり上げてぽろぽろと涙をこぼす翼に、途端おろおろと取り乱し始める二人。まさか泣かれるとは思ってなかったし、今まで同世代の女の子に泣かれたことなんてなかったから、どうしたらいいのか全然わからない。 「もー、剣太郎くんが悪いんだよ! ばかばかばかー!」 「イテテ、わかった、悪かったよ俺が悪かったっつーの! 全面的に謝るからお前も泣き止めって!」 ぽかぽかと少女から殴られつつ、がば、と頭を下げる剣太郎。少女も翼の前に膝を付いて、自分のハンカチを差し出した。 「私もつい悪ノリしちゃって……ごめんね、怖かったよね」 「………………」 ぐす、と鼻を鳴らして、受け取ったハンカチで目元を拭う。……別に、もともと怒っているわけではない。気が抜けたのと、いろいろなこちらの都合が重なってしまっただけ。しかしそれを彼らに語ることは出来ないので、ふるふると首を横に振っていいです、とだけ呟いた。 「……こわかった、ですけど、怒ってるわけじゃないです。……いきなり泣いてしまって、ごめんなさい……」 「べ、別にお前が謝ることはねーだろ。……で」 翼の手を取って立ち上がらせつつ、剣太郎は決まりが悪そうに何事かを言い淀む。首を傾げる翼に、少年はぶっきらぼうに言い放った。 「さっきの言葉、ちゃんと守るんだろーな? お前は」 彼にしては何とも回りくどい言い回し。一瞬何のことかわからず目を瞬かせ、遅れて翼は、さきほど彼の騎士になると言ったことだと理解する。 「あ……、は、はい。それは……お約束、してしまいましたから……」 「アハハ、よかったねぇ剣太郎くん?」 控えめに頷く翼の横で、にまにまと笑う少女。……そう言えば、自分は彼女の名前も知らない。確か剣太郎は、心、と呼びかけていたっけ。 「……うぜぇ。お前も、その仕方なさそうな言い回しは何だよ?」 「し、仕方なさそう、ではなく、仕方なく、なんですっ。あんな強引なことをされたら誰だってそう思います……!」 「ム。なんか、いきなり言い返してきやがるようになったな……」 腕組みする剣太郎だが、その様子はむしろどこか楽しそうですらあった。理由はよくわからないが、何となく翼も嬉しくなって、思わず口許が綻ぶ。 「ん……、まぁいーけどな。……っと、そう言えばまだ名前聞いてねーか」 「こ、皇爵……名前も知らない相手を第一騎士にしようとしてたんですか!?」 「うんうん、剣太郎くんってば見境ナシだー。……あ痛」 びし、とデコピンされて、少女は額を押さえてうずくまる。 「これでも人を見る目には自信あるっつーの。結果オーライだろ。で、お前の名前は?」 「つ、翼です。翼=翔=天空院といいます……」 そう言えば、こうして自分の名前を名乗るのもずいぶん久しぶりのことのような気がする。そもそも天空院の城を出ること自体が数ヶ月ぶりではあるのだが。 「ふーん、翼ちゃんかぁ。いい名前だねー。私は心、よろしく!」 「こ、心さまですか。よろしくお願いします」 ぺこ、と頭を下げる翼に、少女改め心は、ちっちっち、と指を振って、 「だめだめそんなの。友達なんだから、もっと気さくに呼んでくれないと。様付けなんて論外だよ」 言って得意げに胸を張る。その言葉に、翼の頬がかーっと染まった。 ともだち、なんて。耳にしたのはいつ以来のことだろう。 「そっ……そんな、と、ともだちなんて……! 私なんかが恐れ多いですっ……!」 「なんで? 友達になるのに、恐れ多いも何もないよ? 私も翼ちゃんと仲良くなりたいなー、剣太郎くんばっかりなんてずるいなー」 にこにこと邪気のない笑顔を向けられて、翼はあぅ、と小さく呟き赤面して俯いてしまう。……心ちゃん、という呼びかけは、ひとまず胸の中だけに留めておいた。 「何がズルイだ。翼は俺の家来なんだから、妙なこと吹き込むんじゃねーぞ。 ……けど、天空院ねぇ。それってあの天空院家か?」 「は、はい。……たぶん、その天空院家だと思います……」 「 そう言えば心は姓を名乗っていなかったが、どこの家の子なんだろう。剣太郎とこれだけ親しくしているのだからよほどの名家の出身であるはずなのだが、生憎と翼はそのあたりの知識がない。こっち、という言い方からすると、剣皇ではなく他国から来ているのかもしれない。 「天空院本家に俺と同じくらいのガキがいるなんて初めて知ったぞ? あそこのガキどもは確か……ひぃふぅみ、……翼で8人か」 「あ……、はい。私はほとんどお城の中で暮らしていましたから……」 まさか閉じ込められているとは言えず、言葉を濁す翼。しかし少女の顔に差す微かな影を、剣太郎は見逃さなかった。 またこの とにかくこれが気に入らないのである。見ているだけで無性に腹が立ってくる。そのあたりの詳しい原因はおいおい追求するとして────剣太郎はおもむろに手を伸ばすと、がしっ、と翼の頭を掴んだ。 「っ……!?」 突然の行動に驚く彼女に構わず、そのまま強引に顔を上げさせる。そしてやはり一方的に、剣太郎は言い放った。 「おい翼。 お前も俺の家来なら下向くな。んで、俺の前では笑ってろ。いーか、これは命令だぞ」 「え、えっ……!?」 「返事は?」 「は、はいっ!」 当惑する翼は無視して返答を要求する剣太郎に、わけもわからないまま条件反射で頷く。それでもひとまず満足したのか、少年はにっと笑って、わしわしと少女の頭を撫でた。 「よしよし、いい返事だぞ。俺様の家来たるものそーでないとな」 「ぁ、うぅ……あんまり褒められてる気がしません……」 頭に触れられるのなんて、ここ数年は髪を引っ張られる時か、殴り付けられる時のどちらかでしか覚えがない…… だからなのかはわからないが、気安く頭を撫でられても、不思議と嫌悪感は湧かなかった。ただひどく気恥ずかしくて、翼は真っ赤になって落ち着きなく視線を彷徨わせる。 「ムムム。剣太郎くん、何か私と扱いの差がひどくない? もしや私は自らの手で、最大のライバルを誕生させてしまったのではないしょーか」 剣太郎と翼の様子に、複雑げな顔で眉根を寄せる心。そんな彼女に剣太郎は呆れ交じりの視線を向け、 「何をまた意味のわからんことを…… つーか、お前みたいな暴力女と翼を一緒に扱えるわけねーだろうが。こいつ泣くし」 「す、すみません……っ」 「それは確かに……、って待ちなさい誰が暴力女だー! それは剣太郎くんの日頃の行いが悪いのが原因でしょーが!」 「あぁ!? テメェこそ自分の胸に手を当ててよーく考えてみやがれ!!」 バチバチバチバめこし。 剣太郎と心の視線が火花を散ら───すかと思いきや即行で手が出た。どちらが先とかではなく完全に同時、見事なクロスカウンター。青くなる翼の前で、あっという間に取っ組み合いの喧嘩が開始される。 「剣太郎くんが私に勝とうなんて百年早ーい!! ミソシルで顔洗って出直してきやがれー!」 「それが暴力女だっつってんだよ!! そのセリフそっくりそのままテメーに返してやらぁ!!」 「ああぁぁぁあのお二人とも落ち着いて……!」 どたんばたんと繰り広げられる乱闘に、翼が慌てて止めに入ろうとして、そのまま巻き込まれてえらい目に遭わされたのは言うまでもない。結局最後は翼がぼろ泣きして、剣太郎と心は二人して彼女に平謝りする羽目になったのも。 それが、三人の最初の思い出。 すべての「始まり」の、その「始まり」の出来事。 一年にも満たない束の間の。 はや取り戻せぬ悔恨と、眩いばかりの幸せに満ちた /an epilogue すーはー、すーはー。 扉の前で呼吸を整え、精一杯に平静を装って、翼はとんとん、と目の前のドアをノックした。 その向こうはつい昨日、彼女の主君となったばかりの人の寝室だ。彼の第一騎士となって最初に翼が命じられたことは、とりあえず朝起こしに来い、という何だかよくわからないモノだった。 ……もちろん、たったそれだけの命令を実行するのにも、翼にとっては少なくない労力を必要としたのだが。 少年が何のつもりでそんなことを言い渡したのかは定かではないが、ひとまず初任務は何とか成功────と、言いたいところなのだが。 「おはようございます……、皇爵?」 返事はない。それどころか扉の向こうには何か変化が起きたような気配もない。 「皇爵……? 翼=翔=天空院、参りました……けど」 もう一度、今度は少し強めに扉を叩いてみるが、やはりノーリアクション。……もしかしてまだ寝ているのだろうか。起こしに来い、とは要するに、挨拶に来いということだろうと思っていたが、まさかそのままの意味なのか。 「……え、……ど、どうすれば……」 思わず廊下に立ち尽くし、翼は途方に暮れて寝室の扉を見上げる。 起こすためには中に入らなければならない。だが、自分なんかが皇爵の私室に勝手に入ってしまってもいいものだろうか。おろおろとその場で悩んでみるものの、当然ながら結論など出るはずがなかった。 「っ……、し、失礼します」 覚悟を決めて、ドアノブをそーっと回す。 豪奢なレリーフの施された大扉を開けると、カーテンが閉まっているのか中はまだ薄暗いままだった。広々とした室内を目を凝らして見渡す。───と、窓際付近に据え付けられた寝台にこんもりと丸い膨らみが出来ていた。 「……お、おはようございます皇爵。まだお休みですか……?」 控えめに声をかけてみるが、やはり反応はない。よほど熟睡しているのだろうか。 そろそろと近付き、ベッドを覗き込む。シーツを頭まで被っているため顔までは見えないが、特徴的な癖毛が隙間から覗いていた。しばし迷った末、一つ深呼吸をして手を伸ば──────── 「おーっす!!!! おっせーぞ翼ぁ!!!!!!」 「ひゃぁぁぁぁぁ!?!!?」 ──────した瞬間、真後ろから大音量で声をかけられて飛び上がる羽目になった。 「おー。期待以上にいいリアクションだな翼」 「こ、こっこここ……皇爵っ!?」 涙目で振り返る翼の後ろに立っていたのは、言うまでもなくこの部屋の主。剣太郎=吏亜=剣皇である。少女を今朝ここへ起こしに来るよう命じた張本人だ。 「コココココって、お前はニワトリか。まぁ確かにそのチキンハートにはピッタリかもしれねぇなー。ちょうど起こしに来たとこだし。 ……お、もしかして俺うまいこと言った?」 「うまくないですしそーいう問題じゃありませんー!!」 ばっくんばっくんと跳ねる心臓を押さえて訴えてみるが、剣太郎はケタケタと愉快げに笑うばかりで反省の様子はまったくない。まさかこのひとは、こんな悪戯を仕掛けるために自分を呼び出したというのだろうか。自分が天空院の城を抜け出すのにどれほど苦労したことか────それを思うと、どっと疲れが押し寄せてくる。 「こ、皇爵……、何を考えてるんですかっ……!」 「いや、翼があまりにもガチガチに緊張してたんでつい。しっかしいくら何でも、こんな古典的なテに引っかかるとは思わなかったぞ、俺も」 言って剣太郎はベッドの中に手を突っ込み、例の膨らみの正体───丸めた毛布にカツラを被せただけのダミーを引っ張り出す。こうして見れば一目瞭然なのだが、あの暗がりの中では騙されることもあるだろう。ましてそれが翼なら。 「観察力が足りねぇぞ翼ー。よく見てりゃ、寝息もないわ身動ぎもしねーわで人間じゃねーのはすぐにわかるだろ。人間だったとしたらそいつは起きてるか、息も出来ねーくらいヤバイ状況かのどっちかだ」 「……うぅ……」 そう言われれば確かにその通りではある。……ではあるのだが、あの時はそれどころではなかったしそんな可能性は考えもしなかった。だいいち自分は皇爵に命令されたからこうしてやって来たのであって、何故そんなふうに言われなければならないのか。困り果てて翼はじわ、と瞳を潤ませる。 「こ、こうしゃく……」 「───けどま、いちおー初任務は達成だな。明日からもこの調子で頼むぜ」 「……えっ?」 意外な言葉に思わず顔を上げた翼を、剣太郎はぽんぽんと子供をあやすように撫でた。それに、少女の頬がかぁっと染まる。 どうしてこう、このひとは気安く人の頭を撫でるのか。と言うか、いったい自分を何だと思っているのか……そう考えはするものの、振り解くことも出来ず翼はされるがまま真っ赤になって俯くしかない。 「……って、待って下さい。 はた、と我に返った翼のこめかみを、冷たい汗が流れていく。しかし剣太郎は何を言い出すのかとばかりに、むしろ憮然とした顔で腕を組んだ。 「だから、これから毎日起こしに来るんだろ?」 「えーっ!?」 そんな話は聞いてない、と言いたげにぶんぶんと首を横に振る翼。それを、剣太郎は呆れたように、 「俺は最初からそのつもりだったぞ。今日だけでいいなんていつ言ったんだよ?」 言葉に詰まり翼は慌てて記憶を手繰るが、……確かに、今日だけとは言われていない。少年が命じたのは、ただ朝起こせというだけのものだった。 さぁっと、翼の顔から血の気が引く。赤くなったり青くなったり忙しいことこの上ない。 「そ、そんな……! あ、いえ、それ自体は構わないんですけど……まさか、今日みたいなことを毎日するおつもりじゃ……」 一番の不安はソレだ。今日のようなドッキリを毎回仕込まれては、こっちの心臓が保つ気がしない。 怯える翼に剣太郎は嘆息をついて、引き摺り出したダミーをぽいとベッドの上に放り投げる。 「俺様がそんな芸のないマネするかよ。こんな幼稚なのはこれっきりだぞ」 「そ、そうですよね……良かった」 ほっと胸を撫で下ろす翼に、彼女からは見えない角度でニヤリと笑う剣太郎。 ────余談だが。 この日から翼は毎朝起床の挨拶に来ることになるのだが、およそ週に一度の頻度であの手この手の悪戯を仕掛けられたのは言うまでもない。 「ホレ、何ボケッとしてやがる。さっさとカーテン開けて、あと俺の着替えも持って来い」 「えぇ!? そ、そんなことまで私がするんですか!?」 「あったりまえだろーが。お前は俺様の家来なんだからな」 それはそうなのだが、仮にも翼は名門貴族である天空院家の娘である。落ちこぼれの末席とは言え、そんな使用人まがいの雑用に使われるような身分ではない。……じゃあ何になら使えるのか、と言われると困るのだが。 しかしこの皇爵に、そんな一般論を説いても間違いなく無駄だろう。仕えてまだ一日と経っていないと言うのに、その無茶苦茶さはもはや疑う余地もない。 「わ、わかりました……」 はふ、と一つ息を吐いて、翼は窓際へと向かう。床から天井まで伸びる立派な嵌め込み窓に掛かるのは、豪奢な刺繍が施された重厚なカーテンだ。 分厚いカーテンとしばし格闘していると、その様子を眺めていた剣太郎が不意に何事かを呟いた、……ような気がした。 「……えっ? 今、何かおっしゃいましたか皇爵?」 「いや、なんにもー」 振り返る翼にひらひらと手を振って、剣太郎はごろりとベッドに寝そべる。小さく首を傾げつつも、再びカーテンを開ける作業に取り掛かる翼。身体も小さく力も無い少女にとっては、それだけでもなかなかに重労働だ。 「はー……お、終わりました」 全てのカーテンを開け放つと、広い室内に朝の日差しが満遍なく差し込んだ。肩で息をしながらも何となく充足感を抱く翼に、寝転んでいた剣太郎が上半身を持ち上げて言う。 「おう、ごくろーさん。んじゃあ次は着替えだな。下の階の使用人室に行って、メイドにでも聞いて来い」 「は、はい……」 生憎とやり遂げた余韻に浸からせてはもらえないらしい。ハァ、と疲れたため息をついて、使用人室へと向かうべく踵を返す翼。 ────しかし、その彼女の足がふと止まる。 「……えっ、あれ?」 充足感? やり遂げた余韻? それって、つまり……? 「んー? どーかしたのか翼」 「いいいいえっ、な、何でもありません……!」 真っ赤になってばたばたと両手を横に振る翼。どうしてか剣太郎の顔がまともに見れない。 ……まさか、そんなはず、あの横暴な皇爵が? きっと自分が深読みしすぎているだけで、意図してくれたことなんかじゃない。……だけど、そうだとしても彼は………… 「? なんか気になることでもあんのか?」 「っ! き、気になることなんて別に……、〜〜〜〜ッ!」 なぜだかわからないが急に頭がパンクしそうになってしまい、翼はぱたぱたと逃げるようにして寝室から駆け去っていく。その背を怪訝な顔で見送った後、剣太郎はポツリと言った。 「───ま、出来るところからな」 / 朝の支度が終わった後、翼は剣太郎から剣城王爵に紹介してやると言われ、少年に連れられて剣皇城の廊下を歩いていた。 ……前を行く背中を、翼はぼんやりと見つめる。さっきみたいなどうしてかわからない気恥ずかしさは引っ込んでくれたけれど、彼への関心が薄れたわけではなかった。 昨夜、一方的に家来にしてやるなどと言われた時はどうなることかと思った。それからずっと少年の言動に振り回されてばかりいるのに、気が付けばそのことを受け入れている自分がいる。こころの中の、ずっと空虚なままだった場所が、満たされていくような。眩しくてたまらないのに、どうしても目が離せない…… 「……あ、あの……皇爵」 このひとの役に立ちたい。 このひとのために何かしたい。 ────それが、どんなことであっても。 「ん? なんだ、翼」 「お、お願いがあるのですが……、もしよろしければ、その、……わ、私に騎士としての稽古を付けて頂けないでしょうかっ!!」 がば、と勢い良く頭を下げて、突拍子もないことを口にする翼。 そのいきなりの申し出に、しばし剣太郎は面食らったようだった。……それもそうだろう。翼自身だって、自分がこんなことを言い出すなんて思いもしなかったのだから。 昨晩激怒した長兄によって家の狭い書架に閉じ込められ、朝方に何とか自力で抜け出して────それだけでも信じられないことなのに、あげく自ら戦う術を身に着けようなんて、今までの自分からは考えられない行動力だ。それでもどちらを選ぶかなんて、考えるまでもなかった。 「は? ……いきなり何を言い出すんだ、お前は」 「あ、厚かましいお願いなのは承知しています……! ですが仮にも皇爵の第一騎士である以上、いつまでも弱いままというわけには参りませんっ! ど、どうかご指導頂けないでしょうか……?」 翼の懇願に、剣太郎はフム、を腕を組む。 もちろん彼としても、彼女をただの小間使いにするつもりだったわけではない。自分の家来たるもの強くなければならない、ということで、いずれは騎士としても鍛えていく予定だった。ただまさかそれを、少女が自分から言い出すとは思っていなかったのである。 「そりゃーいい心掛けだが……俺様の訓練は超厳しいぞ? 翼について来れるかねぇ?」 「か、……覚悟の上です……!」 一瞬の逡巡こそあったものの、ぎゅっと服の裾を握り締め、目を逸らさずに答える翼。 その返答にひとまずは満足したのか、剣太郎はにんまりとした笑みを浮かべてうんうんと頷く。とりあえず意気込みとしては悪くない。足りないものはいろいろと多いが、鍛え甲斐がありそうだ。 「ほーぉ。言っとくが、俺の要求レベルは高ぇぞ? この俺様に教えを請おうってんだからなー、聖王家の御前試合で優勝するぐらいにはなってもらわねぇとなー」 「えぇぇぇぇっ!?」 実質最強の騎士になれ、と言っているも同然の主君の言葉に、さすがに翼も驚きの声を上げた。……が、剣太郎はと言えばさも当然とばかりに、呆れ顔すら浮かべて腰に手を当てる。 「何を驚いてやがる。大陸最強の皇爵たる俺様が、直々に指導してやろうってんだぞ? それに相応しい騎士になるのは当然の義務だろーが」 いったいどこからツッコめばいいのやら。絶句する翼に、少年はにっと笑って、 「まぁ、いくら何でもすぐにとは言わねーから安心しろ。 御前試合に出場できるのは12歳からだからなー。あと6年もあるじゃねーか。楽勝だろ?」 「そんなわけないじゃないですかー!!」 涙目で抗議する翼の言葉など聞く耳も持たず、ケタケタと笑いながら剣太郎は歩みを再開する。少女の手を強引に引っ張って。 「んじゃ、改めて 「……こ、皇爵ぅぅぅ……!」 弱りきった表情で、翼は慌ててその後ろについて行く。 ……やっぱり、この少年はとんでもない暴君だ。暴君なのだけれど────だからこそ。その手を引かれながら、翼はこころの内で誓う。 ────どうか神さま、このひとをお護り下さい。 そしてその往く道に、相応しい輝きと王冠を。 最初で最後のわたしの主に。ただひとりの永遠の君に、どうか。 |