some days ago, and from here goes auspicious day.

「───こ、これは……!!」

 飛行船公社ロレント発着場、受付係を勤めるアランは思わず上擦った声を上げた。
 カウンターの前には、不思議そうに首をかしげる一人の少女。金耀石の大きな瞳に葡萄酒色の髪を飾る黒いリボン、フリルをたっぷりとあしらったゴスロリふうのドレス姿。お人形のように可愛らしい容姿でありながら、どこか小悪魔めいた雰囲気が人形的ではない生きた魅力を感じさせる。
 いわゆるコケティッシュ・ロリータだ。幼いことを逆に武器とした可愛らしさである。

「僕的にはもうちょっと育ってる方が好みだけど、客観的に見るならじゅうぶん及第点だね。91点、ってところかな!」

 ……と、よくわからないことをつらつらと述べた後、彼は自信まんまんに言い切った。
 それに対し少女───レンは、隣に立つエステルに困惑した視線を移し。

「エステル……このお兄さんは、何を言ってるのかしら?」
「気にしちゃダメよレン。と言うか、むしろ忘れて」
「そうだよレン。世の中には、わからないならわからないでいいことが色々とあるんだ」

 エステルの言葉をヨシュアが引き継ぐ。二人とも笑顔なのに、何か鬼気迫るものを感じるのは気のせいだろうか?
 彼らがそう言うなら、きっとそうした方がいいのだろう。レンは素直に、今の出来事を記憶からばっさりと消去することに決めた。まだ何か言っているアランを無視して、発着場を抜け町へ向かう。

────地方都市ロレント。
 彼女が生まれ、彼らを育て、そしてこれから少女の新しい故郷となるであろう町だった。



[ a u s p i c s i o u s d a y . ]




「……あー……あとは、ティオのところで最後ね……」

 ぱたん、と後ろ手にドアを閉めて、エステルはげっそりと呟いた。
 たった今彼女が閉めたドアの向こうは、いつかの導力停止現象の最中に挙式したアルム、エアリー両名の新居である。本人たち曰く『愛の巣』───とのことだが、実に言い得て妙だと思う。何しろどんな話を振っても、いつの間にか彼らの惚気話に掏り替わっているのだ。ヨシュアとレンも、同様に疲れた表情を浮かべていた。
「……ねぇエステル、ティオってだぁれ? ロレントにあるおうちには、もうぜんぶ行ったはずよね?」
 エステルの服の裾をくいくいと引っ張って、レンが訊ねる。
 ロレントに戻ってきてからすぐに、彼らは帰郷の挨拶を兼ね町の知人にレンを紹介するため連れて回っていた。これからおよそ一週間、レンは彼らと共にこの町で過ごすことになる。レンにとっては見知らぬ土地も同然の町、早く慣れてもらうためにも、実際に自分の足で見て回るのが一番だろうという考えもあった。
 日が暮れる頃には父もロレントに着く予定である。それまでには自宅に戻っていたいことを考えれば、あまり悠長にしている時間はなかった。歩きながらエステルはレンに答える。
「ティオっていうのは、あたしとヨシュアの友達の子よ。ロレントからもうちょっと西に行った、パーゼル農園っていうところの娘なの」
 農業だけではなく酪農もやっているとか、そこで採れる野菜はリベールの有名なレストランでも使われているとかといった説明的な話に始まり、ティオという少女の人柄やら家族構成やら、果てはその家の母親の作るシチューは絶品だとかいう他愛無い話題までエステルは楽しげに語る。それに対しレンは、こくこくと頷きながら興味深そうに耳を傾けていた。
 そんな二人の様子を微笑ましげに眺めているヨシュア。彼らは連なって、町の西口へ歩いていく。
 仲の良い兄妹といったそれともまた異なる雰囲気は、傍から見ればどのように映るのだろうか。そんなことを思いながら、シェラザードはやはり微笑ましそうに───どこか寂しそうに───ギルドの二階から、彼らの姿を見送った。


* * *


 ≪結社≫による事件が起きていた頃は大型の魔獣が徘徊していたミルヒ街道も、今やすっかり元通りになっている。
 猫が飛びゆく長閑な街道を道なりに進み、分かれ道で南に折れると目的地であるパーゼル農園だ。看板が取り付けられた入口をくぐると、ちょうど一人の少女が温室から姿を見せた。

「あ……、エステルにヨシュアじゃない! 帰ってたの?」

 彼女は驚いた表情を浮かべながらも、小走りにこちらへ駆け寄って来る。
「やっほー、ティオ。久しぶりね♪」
「元気そうで何よりだよ」
 ひらひらと手を振ってくるエステルと、その隣で穏やかに微笑を浮かべるヨシュア。相変わらずの二人の姿に、少女───ティオもまた、嬉しそうに笑い返した。
「おかげさまでね、そっちこそ元気そうで安心したわ。……けど、どうしたのいきなり。何かあった?」
 彼らが他国へ旅立ってから、まだそれほど経ったわけではいない。向こうでもそれなりに活躍していることは彼女も小耳に挟んでいるし、まさかホームシックというわけでもないだろう。急な帰国に心当たりのあるような出来事もこちらでは起きていないはずだし、となれば二人の方に起きたと考えるのが妥当だった。
 そう訊ねると、エステルはあはは、と苦笑いを浮かべて、
「んー、まぁね〜……実は、この子のことなんだけど」
 言って彼らの後ろにいた、幼い少女を肩越しに見遣る。つられてティオも少女の方へと視線を向けると、少女はその視線を受けてにっこりと微笑んだ。
「はじめましてティオ。レンっていうの、よろしくお願いね」
 スカートの裾を軽く持ち上げ、行儀良くお辞儀するレン。若干呆気に取られつつも、ティオは右手を少女に差し出す。
「よろしく、レン。……エステル、この子は?」
「うーん、ちょっと事情があってね。ウチで引き取ろうと思ってるのよ」
「へぇ〜……って、えぇ!?」
 あまりにもあっさりとしたエステルの言葉に、一瞬流しかけたティオが素っ頓狂な声を上げてヨシュアを見る。馴染みの少年はやはり苦笑を浮かべているものの、彼女の言葉を否定する気配はなかった。
 エステルとヨシュア、それにレンの顔を交互に見比べ、「でも」と言いかけた言葉を喉元で引っ込めるティオ。ヨシュアが養子であることは無論彼女も知るところだ。この上さらにブライト家に新たな子供を迎え入れるというのだから、彼女の反応も無理からぬことではあった。
「……ティオ、レンは僕がこっちに来る前に知り合いだった子なんだよ。それからエステルとも縁があったみたいで……いろいろあってね、向こうで再会したのを機に家で引き取りたい、ってことになったんだ。
 それで父さんを説得するために、一時的に戻って来たんだよ」
 要所を暈しつつ、やんわりと説明するヨシュア。さすがに今日一日似たような説明を繰り返していただけあって慣れたものだ。
 養子にするとまで言う以上、少女の身の上に何かしら重い事情があることは想像に難くない。その上なお突っ込んで聞こうとする人はまずいなかった。
「そうなの……」
 沈痛な面持ちで頷いたティオが、───しかし、ふと首を傾げる。
 レンはヨシュアの昔の知り合いであり、またエステルとも縁があって、再会したのはリベールの外。そしてカシウスを説得するために戻って来た───ということは、カシウスとレンの間に縁があったとは考え難かった。レンを引き取りたいというのは、エステルかヨシュア、ないし二人の意見ということだろう。……ということは、つまり?

「えぇ、そうよ。────ヨシュアとエステルは、レンのパパとママなんだから♪」

 ティオの思考を代弁するかのように、レンは二人の腕を取って満面の笑みで宣言したのだった。





「あっはっは、なるほどねぇ。
 いきなり子持ちになって帰ってきたのかと思ってびっくりしたよ」

 農園内にある家のリビングで、ティオの母であるハンナがけらけらと笑う。
 ……結局あの後、ティオら一家に誤解のないよう説明するのに半刻近くかかってしまった。と言っても、父であるフランツは配達のために外出していたのだが。
 何やら深刻な顔をして黙り込む級友や、どうしてかぽろぽろと泣き出すチェル、明らかに故意犯のレンを相手に悪戦苦闘させられたヨシュアは、深々と疲れた溜息を吐き出した。ロレントに着いてからというもの、すでに似たようなやり取りを何度も交わしている。
 そしてそのたびにあらぬ誤解を受けるのは、もっぱら彼なのであった。別にレンを怒る気にはならないのだが……多少、恨めしく思う気持ちがないわけでもない。
「も……も〜、やだなおばさんってば……
 レンも、誤解されそうな発言はやめなさいって何度も言ってるじゃない」
「あら、心外ね。レンはただ、レンにとってホントのことを言ってるだけなのに」
 照れて赤らんだ頬を膨らませるエステルに、しかしレンはいけしゃあしゃあとそう答える。実際レンにとってはその通りなのだろうが、誤解を招くこともしっかりと承知しているのだからタチが悪い。
「まぁまぁいいじゃないか。レンちゃんだっけ? よろしくね。ほら、アンタたちも」
 さばさばと笑い飛ばし、ハンナは小さい子供たちの方───ウィルとチェルにも挨拶するように促す。物怖じしないウィルは元気よく、人見知りするチェルはおどおどと頭を下げた。
「よろしくな、レン! ヨシュアんちの子供になるんだろ? 羨ましいよなー」
「は、はじめまして……よろしく、レン……」
「えぇ、こちらこそよろしくね、ウィル、チェル。
 ウィル、そんなこと言ったらダメよ。ハンナはとっても素敵なママだわ」
 にっこりと笑みを浮かべ、窘めるように言うレン。どこがだよー、と口を尖らせるウィルの頭をぺちんと叩き、ハンナは嬉しそうに笑う。
「おや、上手だねぇ。レンちゃんにはおばさん特製のチーズブッセを進呈しちゃおうかな」
「あら……ほんと? うふふ、それじゃあお言葉に甘えちゃおうかしら」
 えーっ、という子供らのブーイングは気にも留めず、ハンナはレンの頭をくしゃくしゃと撫でる。ちょうどその時、チーン、というオーブンの音が鳴り響いた。
「ちょうど良かった。それじゃレン、エステルとヨシュアも座っとくれ。お茶にしようか」
 キッチンへ足を向けながら、ハンナはリビングの中央に据えられたテーブルを指し示す。
「あたしたちもいいの? やったぁ♪」
「ご馳走になります」
 顔を輝かせるエステルと丁寧にお礼を述べるヨシュア。つくづく相変わらずな様子に、ティオは思わず苦笑を浮かべた。彼らがリベールを発ってからそれほど経ってはいないのだから、変わっていないのも当然の話ではあるのだが。

 ……ただ、それでもレンにまで「はしたないわよ、エステル……」と呆れ混じりに注意されているのはどうかと思う。

「い、いいじゃない、地元でくらいっ。ハンナおばさんはお菓子作りもすっごく上手なのよ!?」
「そういう問題じゃないと思うけど……」
「エステルのそういうところ嫌いじゃないけど、少しはレディの振る舞いっていうものを身に着けた方がいいわ。品格を疑われちゃうわよ」
「そうだね、帝国で仕事をするなら礼儀作法は真っ先に覚えるべきだし……と言うより、どこへ行ってもマナーは知っていて損はないかな」
「うぅ……う〜!」
 両サイドから挟まれ呻いているエステルに、小さくため息をつく。────けれど、その口許にはどこか嬉しげな笑みを浮かべ、ティオは母を手伝うべくキッチンへ向かった。


* * *


「はー、おいしかったぁ♪ とろ〜りチーズとふわふわのブッセ……最高よね〜」
 西に傾きかけた太陽が、空に朱を溶かし始める夕暮れ間際。パーゼル農園の入口で、エステルはうっとりとして呟いた。
「本当によく食べるわね〜、エステル。子供ウィルと本気で取り合わないでよ」
「そーだぞエステル! おとなげねーぞー!」
 呆れたように肩を竦める幼なじみと、ぶーぶーとむくれるその弟。う、と小さく呻きを漏らし、エステルは頬を膨らませる。
「ぅ……うっさいわね、世の中は弱肉強食なのよっ! だいいちアンタの取り分が少なかったのは、あたしのせいじゃないでしょー!?」
「いいじゃないか。エステルは本当に美味しそうに食べてくれるからね、作り甲斐があるってもんだよ」
 カラカラと笑うハンナの後ろで、チェルがおどおどとしながらもこちらを窺っていることにレンは気付いた。目が合うと一瞬びくりとして母の後ろに隠れてしまうが、すぐにまたそっと顔を出す。
「あ……あの……ね、レン……」
 たどたどしい言葉遣いといい、なんだか可愛らしい小動物みたいな子だ。同じ環境で育っているはずなのに、姉弟でずいぶん性格が違うものなんだな、と改めて思う。
「なぁに? チェル」
「そ、その……ね……レン……ヨシュアとエステルのこと、パパとママって……言ったけど……」
「えぇ、言ったわよ。正確には違うんだけど」
「ブライトのおうちの、子供になる……だけ……なのよね……?」
 そうなるわね、と頷くと、チェルは明らかにほっとした表情で安堵の息を吐いた。
 ……はて。何がこの子を安心させて、なぜそんなことを気にするのか……と、レンは思わず首を傾げた時、チェルはそそくさとハンナの右後ろから左後ろへ移動し、反対側から顔を覗かせる。
 そちらの正面にいるのは、ヨシュアだった。
「……あの……ヨシュア……また来て、ね……」
 おずおずと、しかしどこか熱の篭もった声で告げるチェル。
「うん、ありがとうチェル。……そうだね、今日はおじさんには挨拶できなかったから、またすぐに来ることになると思うよ」
 腰を屈め、にっこりと少女に笑いかけるヨシュア。それに、チェルはほわん、と頬を染めて、ひどく嬉しそうな表情で頷いた。

「…………………………」

 エステルはまだティオやウィルと喋っていて、その様子には気付いてないようだった。もっとも気付いていたとしても、その意味まで気付けるかどうかはわかったものではないが。
 一方ヨシュアはと言えば、チェルが向ける視線に込められた熱などまるで気にしたふうもない。子供とは言え好意を寄せられて無視できるような人間ではないから、きっとこちらも気付いてないのだろう。今日はじめて会ったレンですら気付いたと言うのに。
 間に立っているハンナは苦笑している。顔を赤く染めてちらちらとヨシュアに視線を送るチェルと、すこぶる平和そうな顔のヨシュアを交互に見比べ、レンは深々とため息をついた。

「……レン、エステルの鈍さは壊滅的だけど、ヨシュアの鈍さは破滅的だと思うわ」
「え?」

 不思議そうに目を瞬かせるヨシュアに、レンは今更ながら彼の評価を改めなければいけないことを思い知った。







/佳日、或いは過日

 ……そうして、忙しなく平穏な一日目は暮れてゆく。
 オーブメント工房の裏手、集合住宅の二階から続く立橋の上で、レンは何をするでもなく夕焼けのロレントを眺めていた。

「レン」

 不意に呼ばれて、少女は肩越しに振り向く。立橋へ上がる階段から顔を覗かせたのは、見知った黒髪の少年だった。
「あら、ヨシュア。どうかしたの?」
 そう言えば前も───まだ彼らが『身喰らう蛇』と呼ばれる組織に属していた頃も、レンが一人でどこかへ行ってしまった時、真っ先に少女のところへやってくるのは彼だった気がする。
 もうひどく昔のことのように思える日々の断片。彼らを取り巻く状況も彼ら自身もずいぶん変わったというのに、こんな些細なことは変わらないままなのだ。
 思わず小さく笑う少女に、ヨシュアも同じことを思い出したのか、クスリと笑みを返した。
「エステルが呼んでたよ。今はステラさんのところにいると思うけど」
「ステラと? ……そうね、すぐに行くわ」
 頷いてそう答えるが、ヨシュアは引き返すことなくそのままレンの隣に並び立つ。きょとん、として彼を見上げるレンに、ヨシュアはいつも通りの口調で話しかける。
「どうかな、ロレントは。気に入ってもらえればいいんだけど」
「あ……そうね、悪くないわ。素敵なところだと思うわよ」
 にっこりと微笑む少女に、よかった、と、彼もまた穏やかに笑い返す。
 ……だが、ふと少女は、その笑みを曖昧なものに変えた。何かを言いかけるように唇が僅かに開き、しかし何も言わず口を閉ざす。
「レン……?」
「…………………………」
 訝しげなヨシュアを見上げる視線が移ろい、それからゆっくりと、再びロレントの街並みへと向けられた。すぐ隣の家から聞こえる子供の声。真向かいにある居酒屋≪アーベント≫からは、もうすぐ夕飯時だからだろう、食欲をそそる良い匂いと賑やかな喧騒が届いてくる。

「…………レンは…………」

 ぽつりと呟くレンの髪を、夜の気配を含んだ風が攫う。

「レンはね───人の苦しむ姿を眺めるのがとっても好きなの。ぽっかり空いた胸の穴が埋まっていく気がするから。
 レンはね、人の痛がる声を聞くのがとっても好きなの。夜、ぐっすり眠れるから────」

「────────」

 感情が欠落したような平坦な声音で、少女はかつて琥珀の塔の屋上で口にした言葉をなぞる。
 とおく、今ではないいつかを見つめるような金耀石の瞳から覗くもの。ヨシュアにはそれがはっきりと理解できたようにも、少しも見透かせないようにも思えた。

「────レン」
「うふふ……ごめんなさい、今のは忘れて。レンは平気だから」
 いったい何が「平気」だと言うのか。苦笑いを浮かべて誤魔化そうとする少女を、ヨシュアはただ静かに見遣った。
 ……強制はできない。けれどきっとそれは、幼い少女が一人で背負うには重すぎるものだ。彼に出来るのは少女の胸のうちを察してやることだけ────それでも、そんなことがレンにとって、何かの救いになるのなら。
 そう、何かの救いになるとレンが思うなら、話してくれればいいと。

「────ヨシュア……」

 困ったような表情が、やがて拙い笑みに変わる。
 それでもそれは、さきほどの誤魔化そうとしていた表情よりは、いくらか安らかなものになっていたような気がした。

「……やっぱり、ヨシュアには隠し事は出来ないわね。もう、こんなときばっかりスルドイんだもの」
「レン…………」
「ねぇ、ヨシュア。……ここは、素敵な町ね」
 彼の言葉を半ば遮るように、レンは暮れゆく陽に朱に染まるロレントを眺めた。ヨシュアは黙って、その言葉の続きを待つ。
「牧歌的……って言うのかしら? グランセルみたいな華やかさはないけど、こういうのも嫌いじゃないわ。町の人も面白くていい人ばかりだし。
 そうね、例えば────あの農園が、もし何かの間違いで潰れてしまったとしても。この町の人なら、ティオたちを見捨てたりはしないでしょうね」
「────────」
 そこまで聞けば、ヨシュアにもレンが何を言わんとしているか理解できた。
 いつからか俯いていた少女の表情は、夕陽の濃い影のために窺うことが出来ない。
「……それから……、ハンナなら、例えどんなことになったって────あの子たちを、悪い大人に渡したりなんて、しないんでしょうね…………」
 視界の隅で、少女が強くてのひらを握り締めるのが見える。その小さな姿は今にもひび割れてしまいそうなほど脆くて、……そして、痛々しいほどに強かった。

 触れれば壊れてしまいそうな危うさ────けれど壊れてしまうことを、きっと少女は許さないから。

 誰かの悲鳴で空虚キズを満たせないことは、もうレンだって気付いている。忘れていたはずの傷が再び痛み出したことは、果たして良いことなのだろうか。悪いことなのだろうか。
 他者の痛みを知るために、心の熱を失くさないために、その傷みは必要なもの。……だけど、それは何よりも。
 自分たちでは、レンの傷を塞げないと、そう拒まれたも同然なのだった。

「レン、君は────」
「うふふ……ごめんなさいヨシュア。こんなこと、ヨシュアに言っても仕方ないことよね」

──────だから、どうして。

 言葉を詰まらせる少年に、レンは顔を上げて笑みを作る。いつも通りの、悪戯で無邪気な笑顔。
「でも、話したらちょっとスッキリしたかも。……あ、それとねヨシュア、お願いがあるんだけど」
「……なに?」
「今の話、できればエステルにはヒミツにしておいて欲しいの」
 口許に人差し指を当てて、内緒のポーズを取るレン。どうして、とヨシュアが理由を尋ねる前に、少女は曖昧に笑って言葉を続けた。
「あんまりね……エステルには知られたくないのよ、こういうこと。心配かけたくないし、せっかく故郷ロレントにいるのに、へんに気を遣わせちゃったりしたら嫌だもの」
 だからお願い、と言うレンだが、それが理由のすべてではないことはヨシュアにもわかった。おそらくはレンも、彼がそれを察してくれることを見越した上で言っているのだろう。
 少女の胸のうちにある、身勝手な希望。行き場のない切望。だがそれは、あくまでもヨシュアの推察に過ぎない。確信を持つに至らない状況で、口を出すことは憚られた。
 ……ただ、彼にはどこか、レンが戸惑っているように見えたのだ。そうあるべきと少女自身が決めたことと、あるべきためにそれを曲げなければならない矛盾。そして何よりも、少女の心の奥底にある想い。生じた小さな軋轢を、幼い彼女は扱いかねている。彼にはそんなふうに思えたのだった。
「……わかった。でもそれがレンのためにならないと判断した時は、僕は今の話も含めてエステルに相談すると思う。それは覚えておいて」
「うん……、充分よ。ありがとう、ヨシュア」
 暗に“いつかそうなる時が来る”という意味を込めた言葉を、レンがどう受け止めたかはわからない。
 曖昧にレンが頷いたとき、不意に真下から彼らを呼ぶ声が響いた。

「レーンー、ヨシュアー! 何やってんの、そんなとこでーっ」

 揃って二人が声のした方へと顔を向けると、立橋のすぐ下に、こちらを見上げるエステルの姿がある。レンを呼びに行ったはずのヨシュアまで戻ってこないため、どうやら自分で迎えに来たらしい。
「───エステル……
 やぁね、気が利かないんだもの。せっかくヨシュアと二人きりでナイショのお話をしてたのに」
「え? ……な、何なのよそれはー!」
 頬を膨らませるエステルに、くすくすと楽しげに微笑うレン。立橋の手摺に身を乗り上げ、下を覗き込む少女の横顔には、先ほどまでの翳りはすでになかった。
 レンが浮かべる笑顔は自然そのもので、無理をしている様子はどこにもない。エステルと接している彼女は、本当にただの子供のようで────それはきっと、レンが望む『レン』なのだろう。
「こ、こらーっ! レン、降りてきなさーいっ!」
「うふふ……はぁい、仕方ないわねエステルってば。それじゃあヨシュア、レンはエステルが呼んでるから行くわ」
 エステルとレンのやり取りをぼんやりと見つめていたヨシュアに、レンは軽く目配せして小走りに立橋の階段へ向かっていく。その小さな背に、彼は思わず言葉をかけていた。

「レン────、君には、僕たちがいるから」

 ……それは、自分が言うべきことではなかったかもしれない。
 出過ぎた言葉だ。自分がそれを言ったとしても、レンにはおそらく伝わるまい。ヨシュアがレンにすべきことは手を差し伸べることではなく、彼女が倒れてしまわないようその背を支えること。エステルには理解出来ない、理解すべきではない陰を、知っていてあげることなのだ。
 だけど────それでも。

「…………やぁね、ヨシュアったら。そんなこと、言われなくてもそのつもりよ?」

 それでも、この子に伝えたいと思った。
 たとえ心には届かなくとも、何ひとつ意味がないとしても。ただ彼女に、そう言ってあげたかった。その想いは無価値ではないはずだ。
 彼の言葉がレンにとって、ただの「言語」でしかなかったとしても、残る記憶はきっとある。
 いつか、少女の心にその言葉が届くようになった時────その時に理解してもらえるなら、今は、それで構わない────

「そっか、ごめん。変なこと言ったね」
「……ううん。いいわ、ありがとうヨシュア」
 笑みを残して、レンは階段を駆け下りていく。すぐに下の道から、賑やかな少女たちの声が聞こえた。

────不安はない。
 だって、難しいことなんて何もない。

 かつて少女はその強さゆえに、闇の中で生き抜くため心に闇を宿した。だけどそれならその逆のことが、出来ない道理はどこにもない。環境に適応するのがレンの才能だというのなら、きっとすぐに気が付くはずだ。
 何よりも────彼は、彼女たちを信じている。
 今はまだ噛み合わない歯車だとしても、願い望むカタチは違わない。同じものを求め手を伸ばし合っているのに、届かないなんてあるわけがない。
 多くが足りないのは承知の上。傷付くことも覚悟の上。それでも後悔はないし、そんなことで手を離すほど安易な約束はしていない。絶対に幸せにしてみせると、幸せになってやると、彼の太陽は笑ったのだから。

 ……一人では出来ない。でも、二人なら恐れはない。
 それが三人なら、どんなユメだって叶えていける。




──────過ぎたる日々はとおく。
        そして、佳き日々をあなたの前に。










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