There is not the rain which does not stop. part-B
[ r a i n b o w . ]




 それからというもの、エステルはずいぶん悩んでいるようだった。

 『レイン』という少女との出会いからおよそ二ヶ月余り。もともとレンのことを気にかけていた彼女ではあったが、あの一件からというもの目に見えて物思いに沈んでいることが多くなった。
 さすがに仕事に支障をきたすようなことこそないものの、その合間合間───個人的な時間が許す限りは、真剣な面持ちで考え込んでいる。暇があればあの活字嫌いのエステルが、自分から何か調べ事をしていることさえあった。
 レンのために自分がしてあげられることは何なのか。どうしたらレンにとって、最もいい環境を与えられるか。レンと、そして自分自身の納得のいく答えを見つけられるか────

 無論ヨシュアにしても、思うところは少なくない。
 何しろ彼は見ているのだ。≪楽園≫と称された地獄の中、見るも無残な姿で横たわる少女を。それでもなお必死で、息を繋ごうとする彼女を。
 だが≪中枢塔アクシスピラー≫での一件以来、彼はレンに関してはほぼエステルに一任する姿勢を保っている。自分からレンのことを口にしようとはせず、時折エステルに助言を求められた時だけ、客観的な意見を述べるだけに留まっていた。ヨシュアとしての考え、願いは、エステルが結論を出してからでも遅くはない。
 ……何より、ヨシュアはレンと近過ぎる。
 少女の抱えた闇、心の傷、空虚さ、そして陽の光への憧れ。解りすぎるほどに解るがゆえに、それを自分が言ってしまうのは卑怯に思えた。誰にとっても。

 いつかエステルが言っていた。父がそうしたように、自分にもレンを≪身喰らう蛇≫という闇から掬い上げることが出来るはずだと。
 ────だから、口に出しこそしないけれど、願っている。
 彼自身がそうであったように。
 あの、あまりにも過酷な時間を過ごさなければならなかった少女が、いつか何の憂いもなく太陽の下で笑えるようになれればいいと。





 明確な答えを出せないまま、日々は淡々と過ぎていく。
 雑用でヨシュアと別行動していたエステルは、てくてくと街の石畳を踏んでいく自分の足を眺めながら思わずため息をついた。

────いったい、どうすればいいのだろうか。

 レンのために何かしたい。
 その気持ちばかりが先行して、けれど少女の所在さえ掴めない現状に、焦りが生まれ始めている。
 もとより理論よりも直感に優れているのがエステルだ。あれやこれやと悩むのは、なんだかんだでそう縁のないことでもないのだけれど、やっぱり柄ではないと思う。
 そんなことはわかっている。ヨシュアだって何も言わないけれど、いろいろと気を遣ってくれているのは知っていた。とは言えこれ以上は彼にも心配を懸けてしまうし、精神的にもよろしくない。
 ここのところは仕事も忙しくて、レンについてゆっくりと考えている時間もなかった。遊撃士としての本分を、力及ばないだけならまだしも、私事に気を取られ失態を見せるようなことがあってはならない。場合によってはそれが周囲の人間に───とりわけパートナーである少年に───危険を及ぼすことにも繋がるのだから。
 だからエステルは、仕事の間は極力この問題を頭から追い出すことに決めていた。
 しかしだからと言って、いつまでもこんなふうにしているわけにはいかない。レンを救うつもりなら一刻でも早く行動を起こさなければいけないのだ。レンが今どこで何をしているのかはわからないけれど、……きっと、ひとりきりでいるのだろうから。

 そう、これはあたしが考えなくちゃいけないこと。
 これは、あたしが悩まなくちゃいけないこと。

 あたしらしくはないけれど、それでも────いい加減な気持ちでは、レンも、自分も、ヨシュアも裏切ってしまうことになる。そんな無責任は許されない。
 あの幼い少女は、きっと自分なんかより、もっとずっと考えているのだろうから。

 ……一人でゆっくり考えてみる、と少女は言った。
 ヨシュアと二人でいろいろと調べてみたところ、辛うじて掴んだ情報によれば、どうやらレンはあれから≪結社≫には戻っていないらしい。あの≪パテル=マテル≫と共に行方をくらましているというのだ。
 それはとりもなおさず、レンがあの時の言葉に未だ迷っているということである。どこに行きたいのか、レン自身でさえわからないから、どこにも行けないまま出口の見えない孤独にいる。

『……レンが自分の心で感じるままに判断しなさい』

 そう諭したのは他の誰でもなく、エステルなのだ。
 なら自分はその言葉に責任を持たなくてはならない。レン・ヘイワーズを救うことはもう出来ないけれど、今生きているレンなら手を届かせることが出来るはずだ。
 レンに必要なものを。
 おそらくはレンが、ずっと焦がれ続けているものを。
 それを思い当てるのは、そう難しいことではなかった。

「───『本当のパパとママ≪パテル=マテル≫』……か……」

 機械仕掛けの人形兵器を、偽りない父母と慕う少女。それがどれほど凄絶なことなのか、エステルには想像も付かない。だって憎しみですらないのだ。───レンは、ただ切望しているだけ。

『レインはパパとママのこと大好きよ? かぞくだもん……』

 そんな当たり前のことを、当たり前に言えるように。
 本物の両親を偽者だと諦めながら、あたたかな記憶を捨てられずにいる。

 だから、それを与えてあげたい。そばにいたい。ひとりではないと……あなたは望まれてこの世界にいるのだと、あの子が安心できるように。
 ────でも、それを、与えるということは。

「────────……」

 正直に告白すれば。
 もう、とっくに望みは決まっていた。

 決められないのは踏ん切りだけ。
 自分自身だけでも手一杯で、ヨシュアのことだってあるのに、そのあたしに────レンを、背負える? その意味をちゃんと理解ってる? それだけの覚悟は、ある?

 レンを幸せにしたい。屈託なく、心から笑えるようになって欲しい。もう二度と、あんな瞳はさせたくない。

 その気持ちは偽りない本物だ。でも、気持ちだけでは足らない。
 結果を伴わないなら、そんな気持ちには何の意味もないのだから。無価値ではないかもしれないけれど、こればっかりはそれじゃいけない。
 あの子を────“かぞく”とするならば、その人生いのちに責任を負わなければならない。

 不意に父の顔が頭をよぎる。
 父さんもヨシュアを養子にすると決めたとき、こんなふうにたくさん考えたのだろうか。それともいろいろ飛び抜けている人だから、あっさり決められたのだろうか。
 ただ間違いないのは、カシウス・ブライトは少年の生に責任を持てるだけの大人であったということだ。それだけの力もある。対して自分の手は、……こんなにも小さい。
 いつかは追い越してやろうというくらいの気概はあるけれど、それでもやっぱり、まだまだ遠すぎる目標だった。

────あたしは……本当はどうしたい……?

 もう一度自問する。
 胸のうちにある思いを強く意識した瞬間、どん、と目の前にいた誰かにぶつかった。

「わっ……!?」
「っと、大丈夫?」

 反動で後ろに倒れそうになった身体を、よく知った腕が捕まえる。あ、と少し上を見上げれば、見間違えようもない顔がそこにあった。

「ヨシュア……」

 相棒で、姉弟で、恋人でもある少年。
 崩れた体勢を戻して、エステルは少々しゅんとした仕草で小さく頭を下げる。

「ごめん……ちょっと考え事してた」
「別に僕に謝ることはないけど。脇見走行は危ないから、気を付けた方がいいよ」

 ぶつかったのが自分だから良かったものの、もしも他の人間や露店になど突っ込もうものなら色々と問題がありすぎる。
 怪我はないね?と確認して、ヨシュアはエステルの身体を放した。うん、と素直に頷く彼女は、やはりどこか意気消沈しているように見える。きっとまたレンのことを考えていたのだろう。
 これは少し休憩させた方がいいな、と判断して、ヨシュアはエステルの手を引いた。
「エステル、少し散歩でもしようか」
「え? ……で、でも、ギルドに戻るんじゃ」
「もちろん戻るけど、少しくらい遅れても大丈夫だよ。後は報告するだけだし。
 それよりもエステルはちょっと頭を休めた方がいいんじゃないかな」
 もともと苦手分野なんだからね、と悪戯っぽく笑う少年に、思わず眉をしかめる。否定できないのが悔しいところなのだが。
「悪かったわね、どーせあたしは頭脳労働は専門外よっ」
「必ずしも悪いことじゃないさ。それに苦手だからって逃げようとしてないのはえらいと思うし」
 たださすがに眉間に皺を寄せすぎだろう。煮詰まってるのは傍から見てもあきらかだし、少し換気をした方がいい。
「むー……やっぱりなんかバカにしてない?」
「してないってば。ほら、行こうエステル」
 なにやら釈然としない様子の彼女を、苦笑しつつ手を引く。もちろん無理強いするつもりはなかったが、エステルの方も多少の自覚はあったのか、特に何も言わずヨシュアの後をついて行った。
 商店や娯楽施設の多い北街区を抜けた先、街の北西へと進む。案内板で知っていただけだが、さほど迷うことなく目的地へ辿り着いた。


「───わぁ……」


 隣の少女が感嘆の声を上げる。

 視界は一面の青と白。潮騒と、植樹の葉擦れの音が心地良く耳朶を震わせる。
 広大な海に臨む海浜公園は、この街の主要施設の一つだった。

「キレイねー……港があるのは知ってたけど、こんな場所があったんだ」

 海沿いの柵まで駆け寄って、陽光に撥ねる水面を覗き込むエステル。彼女の長い栗色の髪が、風に攫われふわりとなびいた。
「今の季節じゃ見れないけど、春になれば海沿いの木に花が咲くそうだよ。このへんじゃわりと有名な観光スポットらしいね」
「へぇ〜」
 ヨシュアの言葉につられるように、公園を見渡す。嵐の時などには波や風を防ぐ意味もあるのだろう、敷地の東から西へ抜ける並木道。今は青々と葉を繁らせているものの、何の木なのかはわからなかった。
 道沿いには屋根のある休憩場所ベンチが並んでおり、そこかしこに人の姿も見られる。子供たちが遊ぶ広場では、飲み物や食べ物を売る屋台も出ていた。
「────あ」
 不意に、エステルの視線が止まる。
 つられてそちらへ目を向ければ、公園の中央、まだ新しい時計塔が建っていた。
「ね、ヨシュア。あれって登れるかな?」
「上の方に手摺が見えるから行けると思うけど───登るの? エステル」
「だって高いところのほうが見晴らし良さそうじゃない」
 それはそうだろうが、彼女の言葉は少し唐突なように感じられる。しかしヨシュアがそれを疑問に思うより先に、エステルは時計塔へ向かって歩き出してしまった。



「わー、けっこう遠くまで見えるのね」

 地上より少しだけ空に近い場所で、エステルは青を織り綴じた景色を仰ぐ。やや遅れて、ヨシュアも上へと登ってきた。
「ヨシュアおそーい」
「………………」
 冗談混じりに言っただけなのに、何やらジト目を向けられる。何が機嫌を損ねたのかわからず戸惑うエステルに、彼ははぁ、と大きくため息をついて、
「エステル、……スカートで梯子を登る時は、もう少し気を付けないと駄目だよ」
「ッッ!!」
 反射的にばっ!とスカートの端を押さえるエステル。まぁ、そんなことをしてもイマサラなのだが。
「み、見たッ!?」
「見てないよ。……見せたくないならお願いだから気を付けて。僕だって困るんだから」
 ちなみにヨシュアが遅れたのはエステルが先に行ってしまったからではなく、彼女が登り切るのを待っていたのと、他の人間が来ないか見張っていたためである。つくづく律儀な彼氏だった。
「さささ、先に言ってくれればいいじゃない!」
「言う前に登って行っちゃったじゃないか、エステル。
 だいたいスカートになってからだいぶ経つのに、なんで今まで気付かないかな……」
 照れているのか怒っているのか呆れているのか、なんとも判別しづらい様子で、ヨシュアは口許を手で覆ってぶつぶつと呟く。言っていることはもっともなので、反論できない彼女としては呻くしかない。
「うー……わかったわよ、次から気を付けるわよっ。気を付ければいーんでしょっ」
 微妙にふて腐れて手摺にもたれかかるエステル。
 見られて困るのは君の方じゃないのか、と内心ツッコミを入れつつ、ヨシュアは頬を膨らませる少女の横顔を眺めた。まだ家族でしかなかった頃から思えばずいぶんと大人っぽくなっているけれど、こういうところは相変わらずだ。それも彼女の魅力の一つだとは思うのだけど、やっぱりちょっと防御が甘すぎると思う。
 少し強めの海風に髪を押さえるヨシュアとそのままなびくに任せるエステル。僅かな沈黙のあと、彼女はちらりと横目でヨシュアのほうを見た。

「……ごめん。あたし、ヨシュアに心配かけちゃってるね」

 さっきのやり取りのことではないだろう。となれば彼女が何のことを言っているのか、察するには難くない。
 申し訳なさそうに顔を曇らせるエステルに対して、ヨシュアは小さくかぶりを振った。

「二度目になるけど、僕に謝ることはないよ。……むしろ僕の方が、レンのことを君に任せっきりだしね。間違ったことをしてるつもりはないけど、それでも負担をかけてるのは事実だから」

 ごめん、と呟く少年に、エステルはぶんぶんと勢いよく首を横に振る。そして彼へと向き直り、力いっぱい断言した。
「な、なに言ってるのよ! レンのことはあたしが責任を持たなくちゃいけないことなんだから、ヨシュアが気に病むことなんてないっ!」
「だけど≪結社≫にいた間、レンの一番近くにいたのは僕だ。でも僕はあの子に何もしてあげなかった。それはやっぱり僕の責だよ」
「そんなの仕方ないじゃないっ。ヨシュアはその頃いろいろ大変だったんだし、レンだってそうしなくちゃどうしようもない状況だったんでしょ? あたしの場合とは違うわよ!」

……………………

 ややあって。
 いい加減、自分たちがなんとも奇妙な討論をしていることに気が付いて、二人は揃って吹き出した。
「はは、……おかしいね。お互い「非があるのは自分だ」なんて主張し合うなんて」
「あはは……そーね。うん、でも……ありがと、ヨシュア」
「どういたしまして」
 その言葉なら素直に受け止めることが出来る。ヨシュアにしてみればエステルを気遣うのは───気遣う、という意識さえ必要ないほど───当然のことで、改めて感謝されるようなことでもないのだが。どうせ言われるのなら、謝罪よりは感謝の言葉のほうがいい。

「……うん、そうよね。ヨシュアがいてくれるなら大丈夫」

 自らに確認するように呟いて、彼女は一度だけ瞼を閉じる。
 海と空の蒼、境界を彩る黄金きんの波間を背に、エステルはまっすぐにヨシュアを見つめて。


「ヨシュア。────あたし、レンを引き取りたい」


 淀みなく、自らの答えを告げた。

「────────」
 しばし、沈黙が落ちる。
 エステルはそれ以上言葉を重ねようとはしなかったし、ヨシュアもすぐには言葉を返さなかった。
 ……驚きはなかったと思う。たぶん、君ならそう言ってくれると思っていたから。
 けれどそれでも、確認しておかなくてはいけないことがあった。

「……エステル、僕が言うのも何だけど、人間は犬や猫とは違う。簡単に引き取ったり、面倒を見たり出来るわけじゃない。
 ましてや君は未成年だし、こんな職業だ。それはわかってるね?」
「───うん」
「レンのことを考えるなら、ちゃんとした大人に任せるべきだ。正直言って、経済的にも能力的にも、僕や君じゃ力不足だっていうこともわかってるよね?」
「────うん」

 真剣な面持ちで頷くエステルに、彼はそう、とだけ呟いて、しばし瞑目する。
 ……正しく、合理的に判断するのなら、それは容易く頷いていいことではない。レンの将来を考えるなら、ちゃんとした、信頼できる大人に預けるべきなのだ。少女一人を背負うには、エステル・ブライトは未熟すぎる。
 だけど、それでいいのだろうか。
 自分たちの存在がレンの中で決して無視できないものであることは、ヨシュアも、そしてエステルもまた理解っている。彼らだからこそ、固く閉ざされたレンの心に触れることが出来る。そんな少女のことを誰かに任せてそれで済ますなんて、本当にいいのだろうか?

 被害者のまま加害者になった、そうしなければ生きてはいけなかった少女。
 傷付き続けた過去も、犯してきた罪も、決して無くなりはしない。だけどそれでも、願い手を伸ばし続けていれば、届かない夢などないのだと。
 重ねてきた心があるのなら、いつか、苦しみに見合う輝きを掴めるはずだ。



──────そう、例えば彼が、昏い闇の底で。

            差し出されたてのひらに、眩い奇跡を見たように。



「覚悟は───あるみたいだね、エステル」
「うん」
 はっきりと頷く少女に、ようやく彼は、その表情を柔らかいものへと変化させた。
「思い切りがいいのは君らしいけど。……エステルは、それを言うために時計塔ここへ?」
 ヨシュアの表情にほっと安堵の笑みを浮かべたのも束の間、少女は僅かに思案した後、あはは、と苦笑いを浮かべる。
「……ううん、正直言うと、登る前はまだ迷ってたのよ。ここに来たのは、ちょっと初心に帰ろうかなーと思って」
「初心……?」
「うん。……ほんとはロレントの時計塔じゃないから、あんまり意味はないのかもしれないけど」
 その言葉に、ヨシュアはエステルが言わんとしていることを察した。しかし彼が遮るより早く、エステルは晴れやかな笑顔で言葉を続ける。

「でも、少しでも空に近い場所がいいと思って。───お母さんがあたしを守ってくれたことと、そんなふうに、あたしが誰かを守りたいと思ったこと」

 それをもう一度、確認したかったから。

 口にする彼女の口調ははっきりとしたもので、どこか誇らしげですらあった。かつて少女がヨシュアに語った翳りの色は、もうどこにも見当たらない。
 ───レナ・ブライト。かつて百日戦役の最中、幼いエステルを助けて命を落とした女性。それは奇しくも、彼を庇い逝った姉とよく似た最期であった。
 違うものがあるとすれば、遺された者が、そこから何を見出したかということ。その死に意味を求めるあまり、修羅と成ろうとした者もいた。その悲しみに心を閉ざして、すべてから目を背けた誰かもいた。
 そして────その強さから、大切なものを学んだひともいる。守られたなら、誰かを犠牲にしてでも生きているなら、喪われた人のためにも胸を張って進まなければ嘘になる。

「あたしが遊撃士を目指したのは、お母さんみたいな強さが欲しかったから。
 なのにレンを守れないなんて、そんなの何の意味もない。あたしは絶対にレンの手を掴んでみせる。……そう、絶対に……手が届くところにいるんだもの」

 そう言って、エステルはぎゅっと自分のてのひらを握りしめる。その瞳にあるのは、強い決意のいろだけだ。
 ……いつでも後戻りは出来るのだと、いつかエステルは少女に語った。けれど本当に「後戻り」をした時、少女の小さな身体には、とてつもなく重いものが圧し掛かることになる。
 今までの自分とか、これからの自分とか。
 それは11歳の少女が向かい合うには、あまりにも残酷なことだ。付けられた傷の痛みも、奪ってきたものの重さも────きっと一生、消えずに残る咎痕。

 理解が及ばないほど、レンは愚かでも無垢でもいられない。だからこそ少女は今も悩み、迷路の中に囚われているのだろう。
 強要することは出来ないけれど。
 でも、示してみせることは出来るはずだ。こんな道もあるのだと。
 過ちを知り罪を負う幼い少女を、放っておくことなんて出来るはずがない。

 愛されることが当たり前だった自分なんかより、ずっとつらい日々を送ってきたであろう少女に────愛されることが当たり前だった自分だからこそ、与えられるものがあるのなら。


……そして、いつか必ず。
 少女が、その日々かがやきを取り返せるように。


「……本当はちゃんとした大人に任せるべきなんだって、理屈ではわかってる。
 でも、それでもそばにいてあげたい。あの子に間違ってるって言ったのはあたしだから、最後まで、その責任を果たさなくちゃいけない。
 ……何よりも。あたし、レンのことが好きだから───あの子が泣いてるなら、抱きしめてあげたいし。一番近くで、あの子が幸せになるのを見ていたい」

 それは、自己満足でしかないのかもしれないけれど。
 本当はもっと、正しい選択があるのかもしれないけれど。


それでも。

その強さを、その想いを──────……この世の誰が、否定できるのだろうか。


 見たことがないくらい優しげに微笑み、どこか、そう目の前の少年にも伝わるように語るエステルを、ヨシュアはまっすぐに見返し。
「────そっか」
 一度だけ、胸の中の何かを確かめるように目を閉じたあと、眩しげに彼女を見つめた。

「君がそこまで考えてるなら、僕から言うことは何もないよ。
 ……正直に言うと、ちょっと妬けるくらい。────ありがとう、エステル」
「……なんでその流れで、ヨシュアがお礼言うのよ」
「レンのことは僕の問題でもあるから。……それと、どうも他人事のような気がしなくて」

 そう言うヨシュアの表情はどこまでも穏やかで嬉しそうで、何も言えなくなってしまう。
 しばし照れくさそうに口を噤んでいたエステルだが、ふと何に思い至ったのか、申し訳なさそうにヨシュアを見た。
「……その、ごめん。ほんとはレンのことは、あたしが責任を取らなきゃいけないことだったのに……ヨシュアとはんぶんこするカタチになっちゃって」
 本気でそんなことを言っているらしい彼女に、思わず呆れてしまう。普段はあれだけヨシュアが一人で抱え込もうとすると怒るくせに、肝心なところで抜けているのはお互い様じゃないか。
「あのねエステル……ついさっきも言ったけど、レンのことは君だけの問題じゃない。それに何より───」
 そこでいったん言葉を切って、彼は彼女の手を取る。
 重なったてのひらは、きっとこれから先も変わらずに繋がれ続けるもの。
「────僕にだって、君を支えさせてくれてもいいんじゃないかな?」
 君が、僕を支えてくれているみたいに。

そうやってずっと、一緒に歩いて行くと誓ったのだから。

「────────」
 ぽかん、とした少女の顔が、ゆっくりと朱に染まっていく。
 それでも彼女は、満面の、咲き誇るような笑顔を浮かべて。

「……うんっ!」

 握り返されるてのひら。
 胸をあたためる感触が嬉しくて、少しでも早く、このぬくもりがあの少女にも伝わればいいと願った。


──────空は高く、どこまでも蒼く。


 さあ、それじゃあ少し気が早いけど、ここから一緒に始めよう。
 君が思いきり幸せになるための、新しい命の軌跡カゾクケイカク────────。








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...after the "Phantasma".


────だから、もう一度手を差し伸べる。

 一緒に行こうと。共に生きていこうと。
 重ねる言葉は必要なかった。迷いなんて初めからない。そんな余裕は持てなかったし、伝えるべきことはすべて伝えたのだから。
 差し出された手をちらりと見て、レンは俯く。涙を溜め、まるで迷子のように頼りなげなその姿は、普段の気丈で悪戯な少女のそれではない。どこにでもいる、小さなか弱い女の子。
 いつかの異界の国で、光の門を仰いだ時も、彼女はこんなふうに怯えていた。
 今この手を、レンが取ってくれるかどうかはわからない。やはりあの時のように拒まれるかもしれない。でも、それだって構わなかった。レンがどこにいようが追い駆けて、また手を伸ばすだけだ。……失った輝きを、少女が取り戻すその日までは。


「……………………ぃ、や…………」


 永いような、短いような沈黙のあと。
 消え入りそうな声で、レンは小さく呟いた。

「……そう。やっぱり、まだ駄目か……」
 苦笑を浮かべながらも、エステルは差し出した手を戻そうとはしなかった。
 例え受け入れられなかったとしても、少女が立ち去るまでは、自分から手を引くことなんて決して出来ない。
 だがレンはふるふると首を横に振って、ぼろりと、その瞳から大粒の涙を零した。
「っ……ちがう……ちがうっ……!」
 しゃくりあげ、顔をてのひらで覆いながら、レンは何度も頭を左右に振る。
「レン……?」
 ヨシュアの呼びかけにレンは鈍く顔を上げ、すん、と小さく鼻を鳴らした。それでも涙は止まることなく、少女の頬を滑り落ちていく。濡れた金耀石の瞳がゆっくりと二人に合わせられた。

「……いや、なの…………わたしは、カゾクじゃいやなのっ……」

 ……その、「わたし」という自称は、エステルの知る限り初めてのものだった。レンが何を思い、それを使ったのか────いや、今まで「レン」と自らを呼んでいたのかはわからない。でもきっと、そんなことは瑣末なことだった。
 その意味を考えるのは余人の行いだ。エステルとヨシュアにとっては、今、レンが紡ぐ言葉を聴くことこそが大切なのだから。

 ぽろぽろと零れ落ちる涙を拭うことすら忘れたように、少女はまっすぐに二人を見つめ、震える唇を形作る。

「……わた、しは……パパとママが……いいの……」

 身を切るようなその願いを。
 臆病に、弱々しく伸ばされたてのひらを。


「……パパとママじゃなきゃ、いやなの……!」


 エステルはただ静かに、少女の身体ごと抱きしめた。



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