The bottom of the origin.
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 星にも似た光と、果てのない闇が彼方まで広がる。
 天と地に境はなく、ともすればどちらが下でどちらが上なのかも見失いそうなこの空間は、≪影の国ファンタズマ≫と呼ばれる次元の狭間────その中で唯一≪王≫の支配を逃れ得る聖者の庭だ。
 ここにおいて大地となるのは、石を思わせる材質で造られた床だけ。もしも知らぬ間にこの床が逆さまになったとしても、上と下とを分ける力が床によって生まれているなら、きっと誰にもわかるまい。
 そんな他愛無いことを考えながら、レンは庭園の最下段───あくまで感覚的なものだ───にある書架へと向かっていた。
 細い通路をとことこと駆けていく。一歩踏み外せば奈落の底へ真っ逆さま……と言いたいところだが、床より外には不可視の壁が作られていて、落ちることはまずありえない。視覚的な窮屈感もなく安全なのはいいのだが、なぜそもそもこんな細くて長い通路を設けたのかは、庭園の主たるセレストに一度聞いておかなければならないだろう。
 と、通路を渡り終え、書架へ続く階段にさしかかったところで、レンは階下に目的の人物を見つけた。

「ここにいたのね、神父さん」

 階段の上から顔を覗かせ呼びかける少女に、神父───ケビン・グラハムは、目を落としていた本から視線を移した。
「なんや、レンちゃんか。俺に用でもあるんか?」
「ええ、捜してたの。きゃんきゃん煩い番犬さんも、今は連れてないでしょうし」
 ひとの悪い笑みを浮かべつつ階段を下りてくる少女に、ケビンは思わず苦笑いを浮かべる。レンが言うところの『煩い番犬』ことリースは、現在オリビエ・アネラス・ティータと共に≪深淵≫へと行っていた。レンが自分に話しかけてくるのは、そうしたリースのいない時だけである。
 初めて会った状況からかあるいは性格的なものなのか、二人はとにかく相性が悪い。決してお互い嫌い合っているわけではないのだが、リースは少女がケビンに近付くたびにいちいち過剰反応するので自然とそうなってしまったのである。……もっともレンの方も、わざとリースを煽っては混ぜっ返して楽しんでいる節があるのだが。
「レンちゃんもあんまりリースをからかわんといてや。あいつ、挑発には弱いからなぁ」
「うふふ、特に神父さんのこととなると、ね」
 階段の途中まで降りて、レンはその場に腰かける。ケビンが階段近くにいたので、そのあたりがちょうど目線の合う位置なのだった。
「んで、俺に用ってのはなんやの? リースがおらんからおしゃべりに、ってわけでもないやろ」
「そうね、それも悪くないけど用は別にあるわ。
 レン、あの奥に連れて行って欲しいの。第六星層の周遊道にあった、結界の向こうよ」
 言って、少女はケビンの顔を覗き込むように、上半身を傾ける。思いも寄らぬレンの提案に、ケビンは僅かに目を丸くして、
「≪紫苑の家≫に? ……なんでまたそないなこと」
「別に、深い意味はないわ。最初に行った時は入れてもらえなかったから、レンがシスターのお姉さんと交代したでしょう? だからレン、向こう側がどうなってるのか気になるの。このままだとお預けされたみたいでスッキリしないわ」
 ぷく、と頬を膨らませ、拗ねたようにそう言う。はじめは何か思惑でもあるのかと思ったが、レンの様子からは、言葉以上のものは読み取れなかった。
 手にした本を棚に戻し、うーん、と腕組みするケビン。連れて行くだけなら容易いのだが、果たして本当に連れて行っていいものかどうか。まぁいくら彼女とは言え、この≪影の国≫でそう物騒なことは出来ないだろうが。
「せやけど、今行っても無人の建物があるだけやで? 第七星層───≪煉獄≫にはもう行けへんやろうし」
「そっちは別にいいわ。神父さんたちを迎えに行った時に、だいたい把握したし。単に向こうが見てみたいだけだもの、何も起きなくても構わないのよ。
 ……ああ、でも確か、七耀教会の施設なのよね。だったらレンに見せたらダメなのかしら」
 いちおう≪結社≫の人間だものね、と付け加えて、レンは口許に人差し指を当てる。仮に教会の機密事項に関わるようなものを見てしまっても口外するつもりはないが、執行者であるレンがそれを知っているというだけで問題はあるだろう。ましてケビンは第五位の守護騎士だ。下手をすれば責任問題にもなるかもしれない。
「あー、いやいや、そういうことやないけどな。確かにもとは重要施設やったけど、現実あっちではとっくに取り壊されとるし。
 レンちゃんこそ、それでもええんか? 何も面白いとこなんてないで?」
 ぱたぱたと手を振ってレンの言葉を否定し、ケビンは再度少女に確認を取る。それに、レンは一つ頷き、
「ええ、もちろんよ。何度も言ってるけれど、あくまでただの興味だもの。つまらなくったって神父さんにあたったりしないわ」
「はは、そう言ってくれるとありがたいわ。……んじゃ、≪紫苑の家≫に連れて行けばええんやね?」
 人差し指と親指でOKサインを作るケビンに、レンはやった、と顔を輝かせる。そしてすくっ、と立ち上がり、
「それじゃ、さっそく行きましょう。強い装備はシスターのお姉さんたちに回しちゃったけど、あのあたりの魔獣ならこのままでもじゅうぶんだもの」
「ん、まぁそやなー。そんならその前にエステルちゃんたちに言付けとこか?」
 傍らに立てかけてあったボウガンを担ぎ直しつつ、何気なくケビンが言った一言に、レンはぴたりと動きを止めて眉根を寄せる。むーっと不服そうな表情を浮かべる少女に、彼は小さく首を傾げ、
「なんや? どうかしたんかレンちゃん」
「……どうもしないけど。どうしてそこでエステルたちの名前が出るのかしら」
 何とも言えない不機嫌さを醸し出すレンに、あぁそういうことか、と納得する。少女曰くリースはケビンのこととなるとムキになるらしいが、要はそれがレンにとってはエステルらであるというわけだ。
「どーしてって、レンちゃんを連れて行くんならまずエステルちゃんたちに話を通すのが筋やろ?」
「だっ……だから、そんな必要ないって言ってるの! 別にエステルたちはレンの保護者でもなんでもないんだから!」
 がーっと腕を振り上げて抗議するレンだが、これが過剰反応でなくてなんだと言うのか。くつくつと笑いを噛み殺しつつ、ケビンはレンの位置まで階段を上っていく。
「へいへい、そういうことにしとこか。けどエステルちゃんたちはともかく、内緒で出かけるってのはあかんからな。セレストさんにでも言付けとくわ」
「っ……ま、まぁ、それは仕方ないわね。
 ……あ、そ、それにレンだって、別にどうしてもエステルたちじゃダメって言ってるんじゃないもの! ただ真っ先に挙げられるのがおかしいって言いたいだけで……!」
「……ナンギやなぁレンちゃんも。まぁ微笑ましいからええんやけどね」
 軽く肩を竦めながら、ケビンは石碑のある中央庭園へと歩いて行く。その後ろに早足で続きながら、法衣の裾を引っ張るレン。
「ちょ、ちょっと待ちなさい! レンのことばかにしてるでしょ!?」
「そないなことしたらエステルちゃんとヨシュア君にボッコボコにされてしまうわー。あの二人レンちゃんにはホンマ甘いからなぁ」
「だからそれがばかにしてるって言うのー!」
 ぐいぐいと裾を引っ張る少女にそろそろ伸びるからやめて欲しいと訴えつつ、二人は長い通路を抜けて庭園に向かう。
 珍しい組み合わせが珍しい賑やかさで現れたことに、庭園に佇む女性───セレスト=D=アウスレーゼはにこやかな笑みを向けた。


* * *


 白い霧のような結界を抜けた先は、どこか冬の情景を思わせる庭先だった。
 七耀教会の福音施設≪紫苑の家≫────今はすでに失われたこの姿は、ケビンの記憶から再現されたものだという。決して立派な建物ではないが、清潔で清廉な雰囲気は悪くない。

「ふぅん、こんなふうになってたのね……神父さんたちは、コドモの頃ここで暮らしてたんでしょう?」

 言って、レンは数歩後ろを歩くケビンの方に振り返る。
 かつて同じ場所に立ったこともあるであろう青年の姿は、五年の時を挟みはや存在しない景色の中にいる。それはひどく違和感があるようにも、ごく自然に馴染んでいるようにも見えた。
「んー、まぁ厳密に言えば『ここ』やないけどなぁ。俺らが昔、こことそっくりなところに住んどったのは間違いないよ」
 ゆっくりと歩を進めながら答えるケビン。彼がこの場所に持つ想いなど少女にはわからないが、ただ、その瞳が穏やかないろを湛えていることはわかった。ちょうどヨシュアがレーヴェのことを語る時は、こんな目をしていたっけ。
「そうね……レンならどうなのかしら」
 ぽつりと呟いて、レンは顔を背けた。
 例えその結末が報われないものであったとしても、そんなふうに責めることなく思い出せる記憶。自分ならどうしたろう……
「レンちゃん?」
 立ち止まって口を噤む少女に、ケビンは訝しげに声をかける。再び振り向いた彼女は、いつも通りの『レン』だった。
「なんでもないわ。それより神父さん、中を案内して」
「あ……ああ、ええよ。簡単にやけど」
「うふふ、わかってるわ。隠し通路の場所なんて訊かないでおいてあげる」
 くすくすと微笑うレンに苦笑いで応え、ケビンは少女を連れて手前の建物へ入っていく。
 中を一通り回って、渡り廊下から教会へ。さして広いわけでもない敷地内を巡るのに、時間は大してかからなかった。

「まぁざっとこんなもんやね。レンちゃん、満足できたかいな?」
 教会の正面扉から外に出て、ケビンは後ろの少女に訊ねる。とことこと彼の後を歩きながら、レンはにっこりと頷いた。
「ええ、そうね。それなりに興味深かったわ」
「レンちゃんが言うと、なんや意味深やなぁ……」
 軽く頬を掻きつつ、ケビンはレンが出たことを確認して扉を閉めた。もっともレンがいくら優れていると言っても、七耀教会────と言うより封聖省も馬鹿ではない。この施設一つ見られたからと言って、重大な危機を招くようなことはあるまいが。
「……あら、あっちには井戸もあるのね」
 そこで教会の向こうにある古井戸の存在に気付いたのか、レンはぱたぱたとそちらへ駆け寄る。上下水道の完備されたこの時代に、井戸というのは珍しかったからだろう。
「ああ、それなぁ。落っこちんように気ぃ付けてや」
「もう、レンそんなにドジじゃないわ。……水は枯れてないみたいね」
 足元の小石を拾い上げ、レンは井戸の中へと放る。暗くて中はよくわからないが、遠くでぽちゃん、という水音が聴こえた。
「今どき導力ポンプもない井戸なんて不便極まりなかったわ。冬場とか地獄やったで」
 ため息混じりに回想するケビンに、少女はへぇ、と小さく呟く。
「水はあるのにポンプがない、ね……うふふ、それってまるで神父さんアナタのこころのなかみたい」
 くすりと笑って、レンは肩口にかかる髪を軽く払った。だが聞き逃せないその言葉の内容に、ケビンはひた、と少女を見る。
「──────、どういう意味や?」
「あら、そのままの意味よ? 例えば井戸をこころの容れ物、水を感情とするなら、普通のひとはポンプで自動的に水を汲み上げられるの。
 でも神父さんの場合はポンプが壊れちゃってるから、自分の手で水を汲み上げてる状態ね。それは今神父さんが言った通り、とっても大変なことよ。だけど神父さんは自分のポンプが壊れてないフリをするために、普通のひとが自然に水を出すところへ合わせて自分の水を汲んでる。────違うかしら?」
 井戸に背をもたせ掛け、レンはケビンの顔を覗き込んだ。
 少女は言う。彼の心は順番が逆なのだと。心が動くから感情が表れるのではなく、心を動かすために感情を表している。しばし二人の視線が交錯し、やがて、ふっと笑みをこぼしたのはケビンの方だった。
「なかなかスルドイ分析やなぁ。……まぁ、おおむね違いはせんよ」
「ふぅん……ちょっと意外かしら。前のあなただったら、こういう時は水を汲むのをやめちゃってたのに」
「まーなぁ。その方がしんどないからなぁ」
 肩を竦めるケビンを、レンは思案するように見上げる。感情という名の水を自らの手で汲んでいる以上、ケビンはその水を汲むのを止めることも出来るのだ。
 普通の人間なら嫌悪を感じるような行いも、嘆き叫びたくなるような痛みも、その手を止めれば無視できる。
 だけど、それでは────
「けどそれじゃあ解決にはなってへんやろ。だいいち水を汲まんといても、水そのものがなくなるわけやないしなぁ」
 ポンプのように吐き出されないなら、それはただ井戸の中に沈殿していくだけだ。やがて蓄積された濁りは、彼という井戸そのものを駄目にしてしまうだろう。
 ……何より、彼は単にやせ我慢しているだけに過ぎない。自分を騙して、平気なふりをしているだけ。それを責めながら、わざわざ同じ苦労を買って出た少女に任せきりには出来ないのだ。
 面倒だろうが辛かろうが、少しずつでも、自らの手で感情を掬い出していくしかない。

「……ふぅん……それもそうね。まぁレンも、前の神父さんより今の神父さんの方が好きだけど」
「お、光栄やねぇ。苦労しとる甲斐があるわー」
 くすりと微笑うレンに軽い笑みを返し、ケビンは井戸の淵に腰掛ける。そして、彼もまた足元の小石を拾い上げ、暗い井戸の中へと放った。

「その例えで言うと、……レンちゃんは井戸の中に何重も底蓋がある感じやね」

 ぽちゃん、という水音の後。闇の中で、小石が井戸の底に当たる音が聴こえた。

「──────何の冗談?」
 金耀の瞳に冷たい光を宿らせ、レンは敵意さえ含んだ眼差しでケビンを射抜く。だが彼は動じた様子もなく、ただ苦笑を浮かべて少女の視線を受け止めた。
「レンちゃんも知っとるやろ? 七耀教会は町医者も兼ねとる場合が多いんや。俺かて簡単な病気や怪我の治療くらいは出来るんやで。
 ……ま、そっち・・・方面は詳しないけど……君みたいな例も、二、三度は見たことある」
「ッ……、レンのことを病気みたいに言わないで! 神父さんは何か勘違いでもしてるんじゃないかしら!?」
「ま、確かにな。レンちゃんのそれは特殊やし」
 ぎり、と奥歯を噛み締め、視線で射殺さんばかりの殺気を込めてケビンを睨み付けるレン。それは少女が、自身の心の在り方を自覚している証拠だろう。

────解離性同一性障害────

 とりわけ幼児期に受けた心的外傷から逃れるため、記憶や意識を自我から切り離す防衛機制。本来ならば一人の人間が統合して持つべき精神機能が乖離してしまうという疾患。
 ただレンの場合は、他に見られるケースとは多少事情が異なる。原因となる出来事、そこから生じた心の働きは同様だが、彼女のそれは疾患と言うより能力の発現だろう。幸か不幸かはわからないが。
 かつてヨシュアが語った、レンの持つ環境適合と情報制御の能力───それによって導き出された結果が、解離性同一性障害と酷似した・・・・人格分裂なのだろう。少女の人格は個々で乖離していながら、根底にある一つの人格の元で統合されている。
 無論のこと、ケビンがレンの過去を詳細に知るわけではない。あくまで今のレンを見ての推論だ。……ただ、そう間違っているわけでもあるまい。彼らが知る『レン』は、少女が≪結社≫という環境に対して最適化した自己に過ぎないという憶測は────

「……勝手なことばかり言わないで。それ以上つまらないことを囀ったら、その口を二度とお喋りできないように縫い付けてあげるわ」

 零下の殺意を込めて、レンはケビンを睨め付ける。だが携えた鎌の柄を握り締める手が、微かに震えているのを青年は見逃さなかった。
 ……この少女の井戸の中が、果たして幾つの蓋によって閉じられているのか。それはケビンにも窺い知ることは出来ない。どれほどポンプで水を汲み上げたところで、それは表層に現れている『レン』のもの。井戸自体が同じである以上決して別物ではないだろうが、……その下にいる少女には届くまい。
 哀しいのは、おそらく『レン』自身がそれを理解していること。理解していながら、自分ではどうしようもないこと。だからこそ彼女は、──────……

「……そうやね。これ以上は俺が───いや、他人が言うべきことやない」
 小さく息を吐いて、ケビンはレンから視線を外す。それから僅かに肩を竦め、
「ま、心理分析の話題を振ってきたのはレンちゃんなんやし。このくらいはお返しと思って勘弁してくれると助かるわ」
「────────」
 しばしケビンを見据えていたレンだったが、やがてふっと目を逸らし、同じように微かに息を吐いた。冷えた外気が白く煙る。
「…………そう、ね……今回は痛み分けかしら。神父さんのお話はぜんぜん的外れでレンは痛くなんてないけど、不愉快であることに変わりはないもの」
「そやね、スマンかったわレンちゃん。
 ほな、ぼちぼち帰ろか。あんまり長いこと留守にしとると、リースにどやされるからなぁ」
 井戸の縁から腰を上げるケビンに、ええ、と曖昧な頷きを返すレン。出口へ足を向ける彼に対して、しかし少女はその場から動こうとはしなかった。じっと井戸の方へと落とされる眼差しは、哀しげにも、どこか決意を込めたもののようにも見える。
「レンちゃん?」
 振り返り呼びかけるケビンに、彼女はぽつりと、独り言のような呟きを漏らした。
「────もしも。神父さんの言ったことが、すべて当たっていたとしても」
 そこでいったん言葉を切って、少女は一度だけ目を閉じた。まるで死者に捧げる、哀悼の祈りのように。
「だとしても、……どうにもなりはしないわ。例え何もかも望みが叶うような、都合のいい奇跡が起きたとしても……
 その底にいる『わたし』は、二度と目を覚まさない」

 淡々とした声。痛みに震えることも強く意志を乗せることもない。……だって、そんなのはわかりきっていることだ。

 彼女という井戸の底に眠る、もういなくなってしまった少女。ずっと昔に喪われてしまった名前。
 それを救うことは、もう誰にも出来はしない。例えエステルやヨシュアらであっても、彼女自身ですら────終わってしまったこと、すでに起きた過去は変えることが出来ないから。
 ケビンとて同じことだ。井戸から水を汲み、同じ機能を果たすことは出来ても、壊れたポンプが直ったことにはならないように。それらはもう二度とは戻らないもので、……戻らないからこそ、ここへ至る軌跡──────

「……けど、同じ“レンちゃん”やろ。ならそう難しい考えるこたない。
 仮定の話に返して悪いけどな」
「……………………」
 肩を竦めるケビンに、レンは困惑気味の瞳を向ける。だが少女が何か口にするより早く、

「くぉら、レーーン!! こんなところにいたーッ!!」

 ───場違いなほど溌剌とした声が、あたりに響き渡った。


「お」
「え……」
 白い結界を抜けてこちらに駆け寄ってくる三つの人影。その先頭にいた人物はまっすぐに、タックルでもしかねない勢いでレンへ向かって走ってくる。
「あーんーたーねー! いないと思ったら勝手に拠点から抜け出したりして、心配したでしょっ!?」
「エ、エステ……るっ!?」
 何だか及び腰の少女をがっつりと捕まえ、その両頬を手のひらで挟み込む人物───エステル・ブライト。彼女にやや遅れて、ヨシュア、リースと続き合流する。
 よっ、と片手を上げて軽く挨拶するケビンに、少年は小さく嘆息を吐き、リースはジト目で迎撃した。
「……ケビン、リーダーとしての自覚がなさすぎ。≪結社≫の人間と二人で行動なんて、軽率としか思えない」
「まぁそう言うなやリース、少なくとも≪影の国ここ≫ではレンちゃんは仲間やん。もーちょい信用したってもええやろ。……ついでに俺のことも信用して欲しいんやけどね」
「ケビンを信用するくらいなら、子供のお使いを信用した方がマシ」
 拗ねたような表情のまま、リースはぷいと目を逸らす。いったい何に対してヘソを曲げているのかは微妙によくわからないのだが。
「エステルちゃんにヨシュア君も悪かったなー。レンちゃんを勝手に連れ出したりして」
「どーせレンがワガママ言ったんでしょ? あんまりレンを甘やかしちゃダメなんだから」
「そうですね、無茶なことを言うようなら僕たちに相談してもらえると助かります」
 こくこくと頷き合うエステルとヨシュアに、誰より甘やかしてるのは二人なんやけどなぁ、と内心ツッコみつつ苦笑を浮かべるケビン。そして、エステルに捕獲されたまま不満たっぷりに腕を振り回すレン。
「なっ……何よ二人して、レンのなんだって言うのよ!? レンがどこで何をしていようと二人には関係ないでしょー!?」
「関係なくなんてないわよ。あたしたちはあんたの保護者なんだから」
 あっさりとそう答えるエステルに、うんうん、と同意するヨシュア。一瞬だけ唖然とした後、見る間にレンの顔が赤く染まっていく。
「な、な、ッ……!! ば、ばかなこと言わないで、なんでそうなるのよ!? 誰がいつエステルたちに保護してもらったって言うの!?」
「いつ、も何も、はじめからそういう認識でしたが。おそらくあなた以外の全員が」
 そう答えたのはリースだった。今度こそ口をぱくぱくさせて絶句するレンを、ヨシュアがひょいと抱え上げる。
「さて、それじゃあ庭園に戻ろうか、レン」
「きゃっ……な、何するよのヨシュアー! おろしなさいばかー!」
「おろしたら逃げるでしょーが。戻ったら、たっぷりお説教なんだからね!」
 じたばたと暴れる少女を連行して、彼らは元来た道を戻っていく。ヨシュアに担がれたままみゃーみゃーと喚いていたレンだったが、やがて諦めたのか大人しくなると、代わってきっとケビンの方を見た。
お兄さん・・・・に一つ言っておくけど!
 お兄さんは自分で思ってるより、ずーっとお人好しなんだからねっ! 無理して悪人ぶったってカッコ悪いだけなんだからー!」
 と、捨て台詞を残して、三人の姿は白い結界の向こうに消えて行った。
 その姿をぽかんとして眺めるケビンに、リースはじと、とした視線を向けて、
「……何を言うかと思えば。
 ケビンがバカの付くほどのお人好しなんて、とっくに知ってること」
「だからバカは言うなって……」
 はー、と疲れたため息をつくケビンから、再びついと視線を逸らすリース。苦笑いを浮かべつつ、彼はもう一度背後にある古井戸へと振り返った。

「……何やかなぁ。
 お人好しなんは、むしろレンちゃんの方やろうに」

 呟いて頭を掻く。共通事項は実に簡単、“わかってないのは本人だけ”だ。
 しかしそれもいずれ時間が解決してくれることだろう。何しろ少女には、あの二人がついている。そう遠くない未来、例え騙し騙しでも、眩しい夢を描いていける。



────────ただ、それでも。

 それでも、掬い切れないモノはあるのだ。


 深く閉ざされた井戸の底、少女は永久に眠り続ける。
 すべての『レン』のその袂、開かれることはない水底に、今も未来も変わらぬまま横たわる……はや終わったセカイ
 そこにはもう、喜びも悲しみもない。永遠に実らない無垢の楽土。

 ……だけど、もしも。
 もしもその井戸を、あたたかなもので満たすことが出来たなら────せめて彼女は安らかに、眠ることが出来るのだろうか。










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