夢を見ないと彼女は云った。
 そんなもの、見ようとして見るものではないと私は答える。

夢などないと彼は云った。
 そんなもの、どこにでもあると私は答える。

夢すら忘れたと私は云った。
 じゃあ私の言葉には、誰が答えてくれるのだろう。


――――Frederica Bernkastel



黄金コガネの空に、ひぐらしはく。



――――みなさんこんにちわ、ストーリーテラーのキィ=ヒストウォーリーです。
今回はみなさんに、いつもとは少し違うお話をお届けしましょう。


舞台となるのはここ、暗黒シティ西地区の端にある「雛見沢」。
地理的な事情によって市街地とは切り離されたこの小さな区画は、そのため過去より自給自足を常としてきました。
無論、市街地との交通手段が存在しないわけではありません。ですがここを訪れるためには、西地区の最も大きい駅から雛見沢と地図上で隣接する興宮通りに機動鉄道で乗り継ぎ、さらに興宮から日に数本のみ出るバスを使ってようやく辿り着くことができるのです。
そんな辺鄙なところですから、雛見沢はシラバノとも市長軍とも関わりを持たず、独自の風習のもと今なお牧歌的な田園風景を残していました。

どこまでものどかな雛見沢。クロラット=ジオ=クロックスとカタナ=シラバノは、一時の休息を得るためここを訪れます。
しかし外界から閉ざされたこの場所には、彼らも知らない異質な“ルール”があったのです。

別の夢に生きる者同士が出会った時、彼らと彼らは何を思い、何を願うのか。

───それでは、物語の始まりです。


* * *


……宝暦2046年、6月。

その年の夏は、ひどく早かったことを覚えている。

暦の上ではまだ初夏だと言うのに気温はすでに真夏並みに上がり、気の早いセミたちがいたるところで騒がしく鳴いていた。
あぜ道を上下に揺れながら走るバスの中。
カタナ=シラバノは、そのセミの合唱をどこか胡乱な面持ちで聴いていた。

「……タナ……、カタナ……」

窓の外の景色は、一面が緑。
とても同じ暗黒シティとは思えないな、なんてことを、頭の片隅で考える。

「カタナ……カタナってば!」

「……えっ?」
上下の振動に対して左右の振動を加えられ、ようやく彼女は我に返った。
「……く、クロくん?」
「そろそろ着くよ。ぼーっとしてちゃ駄目でしょう」
「あ、ごめん……」
ぱちくりと目を瞬かせ、あたりを見渡す。
おんぼろな車内にはまばらに人が乗っており、無論、知っている顔は隣に座る彼しかいない。……暗黒シティの西端、雛見沢に通じる唯一のバスの中だった。
「まだ疲れが抜けてないみたいだね。……まったく、倒れるまで仕事するなんて何を考えてるんだか……」
「うぅ、だからその件については何度も謝ってるのに……」
ジト目を向けて、むすりと言うクロラットに、カタナは居心地悪そうに肩を落とす。
それには何の反応も寄越さず、彼は窓の外に視線を向けてしまった。どうも彼は珍しいことに、本気で怒っているらしい。
自分の付き添いでこんな田舎まで来なきゃいけなくなっちゃったのがそんなに嫌だったのかなぁ、と考え、カタナもまた開け放たれた車窓の向こうを流れていく緑の景色に目をやった。

『───率直に言って、休め。』

……それが、彼ら二人が『雛見沢』と呼ばれる暗黒シティの陸の孤島に向かう理由であった。
シラバノの業務中───と言っても、明らかに時間外労働の深夜だったが───に倒れたカタナを診察したドクターの言葉だ。診断結果は過労。ろくに睡眠も摂らず四日も黙々と働けば、当然の結果である。
かつてないほどクロラットに怒鳴られた後ドクターから申し渡されたのは、半月余りの休養だった。シラバノの名前すら届かない場所で、仕事を忘れてゆっくり休め、ということらしい。
とはいってもこの街で、シラバノの名前すら届かないなどという場所はそうそうあるものではない。そこでドクターから紹介されたのが、この雛見沢だった。

「……それにしても、すごいところだね。私、こんな場所が暗黒シティにあるなんて知らなかったなー」
山道を抜けると、今度は一気に田園風景が広がっていた。確かに街の中にも古代文明の遺跡なんかがあったりするが、それとはまた全然違う。そういう退廃的な静けさとは別の、なんと言うか……静かでありながら、今ここで人が生きているあたたかさがあると言うか。
「空気のにおいからして街中とはぜんぜん違うね……クロくんは知ってた? ここのこと」
「……ん、名前くらいは。でも詳しいことはぼくも知らないな」
「へぇー」
なんとなく、楽しい。
知らない場所へきた不安よりも、期待のようなものの方が大きくなっているのがわかった。
車内には冷房すら付いていない上にセミは相変わらず五月蝿いし、おまけにこの暑さ。きっとこれから半月ほどの生活は不便なこと極まりないだろうけれど、なぜだかそれも苦にならない。

……カタナ=シラバノであることを忘れて、か……

流れていく風景は決して変化に富んだものではないが、それでも飽きもせずにそれを眺めているカタナをぼんやりと見ていると、車内アナウンスが目的地の名を告げた。
慌てて座席横の下車ランプを押してから少し進んだ後、お世辞にも小奇麗とは言えない停留所の横で、ゆっくりとバスが停車する。

「おぉー、すごいボロさだね」

何だか微妙に嬉しそうに言うカタナに呆れたように嘆息を付き、クロラットは時間を確認する。予定よりも少し早めに着いてしまったようだ。迎えの人が来るまでもう少し余裕がある。
「カタナ、どうしようか───……」
何気なく。
ほんとうに何気なく、バスを見上げて。



────座席に並んだ人間が、すべてこちらを見下ろしていることに気が付いた。



「──────な、」

そんなはずはない。カタナ=シラバノを知る者も、クロラット=ジオ=クロックスを知る者も、ここにはいるはずがない。
ならばなぜ。
きっと、見かけない人間が如何にも余所者といった態度で騒いでいるからに違いない。もしかしたら地元の人間はこの停留所で降りることは少ないのかもしれない。
だから、きっと────その、一様に向けられる能面じみた目は、ただの気のせいだ。


「クロくん、どうかしたの?」

呆然としていたのは、一瞬のことだったらしい。はっと我に返ると、すぐ脇でバスが排気音を立てて発車していく。
「あ、いや……なんでもない」
曖昧に笑みを浮かべるクロラットに、カタナは不思議そうに首を傾げる。


バスの音が遠ざかった後には、ただ、セミの合唱だけがあたりを取り巻いていた────。


* * *

『惨劇に挑め。』

* * *


「……君は?」
「ボクの名前は梨花というのです。はじめましてなのですよ」
そう言って、少女はにぱー、と笑みを浮かべる。
年はまだ二桁に届かないだろう、色白の肌に長い黒髪が目に映える少女だ。媚びまがいの人懐っこい笑顔とは裏腹に、どこか神秘的な雰囲気を持っている。
しかしそんな少女が、こんな寂れた停留所で一人でいるというのは些か不自然な状況ではあった。
「えっと、リカちゃん? ……君はここで何をしてるの?」
「待ってるのですよ」
にぱー、と。
どこまでも愛らしい笑顔で。
「────ようこそ、雛見沢へ。歓迎するのです、クロラット=ジオ=クロックス。そしてカタナ=シラバノ」


* * *

雛見沢へと到着したクロラットとカタナ。
どこか奇妙なズレを覚えながらも、彼らは徐々にその穏やかな時間に浸っていく。

* * *


で、ふと気が付けば、ばっちりクロくんとはぐれていた。

「……あ、あれ?」

ぼーぜんとあたりを見回すものの、高らかに積み上がったゴミの山のおかげで視界はさっぱり塞がっている。
しかし改めて見るとすごい。これ、明らかにここの住人が出したゴミじゃない。いわゆる不法投棄というやつだろう。わざわざこんな辺鄙な場所まで、こんな量になるまで捨てに来てるわけだ。
「うーむむ、せっかくいいところなのになー。こんなガラクタで汚したらもったいない気がするよ」
でもこーゆースクラップに囲まれてるとなぜか落ち着くわたし。
クロくんを探さなきゃいけないってゆーのについふらふらと怪しげな機械の残骸に引き寄せられていくと、いきなり上から声が聞こえた。

「───そこで何をしてるんですか?」

見上げた先にいたのは、私と同じかやや下くらいの女の子だった。
白い服に白い帽子。オレンジがかった茶色い髪の、見た目ごくごく普通の女の子だ。ただしブーツで軽々とゴミ山を移動できるのは、もしかしたら普通じゃないかもしれない。
「……もしかして、カタナさんじゃないかな? ……かな?」
「え? ど、どうして私の名前を知ってるの?」
一瞬どきりとしたが、すぐに彼女はにっこりと笑みを浮かべて、
「さっき、お連れの人と会ったんです。あなたのこと捜してるみたいだったから、お手伝いしてたんですよ」
「お連れの人……それってもしかして、この暑いのになんか全体的に黒い人?」
「はい」
くすくすと笑う彼女に、なるほどと合点がいった。そっか、クロくんに会ったのか。
……って、今捜してるって言ったっけ。うわ、じゃあまた怒らせちゃったかも。
「レナー、そっちいたー?」
その時、ゴミ山の向こうから声が聞こえた。溌剌とした女の子の声。
「いたよー」
その声に、目の前の子が答える。どうやら彼女の名前はレナというらしい。
レナちゃんの返事を受けて、向こう側の声の子は「見つかったよー」とこちらとは別の方向に声を上げた。どうも、私のことを捜すお手伝いをしてくれてたのは、レナちゃんと向こうの彼女だけではないようだ。
「カタナー!」
よたよたとゴミ山を上り最初に姿を現したのはクロくん。続いて4人の子が、ひょこひょこと顔を覗かせる。
「よかったですねぇ、カノジョが見つかって」
「いや、カノジョって君ね……」
クロくんにそう言ったのは、いちばん年長らしいポニーテールの女の子だった。ちょっと堂々としててリーダーって感じがする。
「さすがレナだよな、こんな足場の悪いところであれだけ動けるのはすげーよ」
「あはは、慣れればそれだけのことだよ。だよ」
「をっほっほっほ、圭一さんはいちばん役に立ってないのではなくて?」
「ぐっ……」
レナちゃんと話しているのはケーイチくんという元気そうな男の子と、彼らよりさらに幼い金髪の女の子。そしてその子と同じくらいの、長い黒髪の────
「役立たずの圭一はかわいそかわいそなのですよ」
さらりとひどいことをなぜか満足そうに言ったのは、いつかの停留所で出会ったリカという少女だった。


* * *

偶然に果たされた邂逅。
雛見沢に住まう彼らとの出会いがもたらすものは何か。
物怖じしない少年たちは、クロラットとカタナを歓迎し雛見沢の中へと引き込んでいく。

* * *


『ぶ、部活?』
思わずハモって聞き返す、クロラットとカタナ。
それに対し、自ら「部長」と名乗った彼女───ミオンは、ただでさえ豊満な胸をことさら大きく張って頷いた。
「そう! 我が部は複雑化する社会に対応するため活動毎に提案される様々な条件下のもと時には順境、あるいは逆境からいかにして……」
「ま、よーするにゲームして楽しんで騒げりゃそれでいいってことだけどな!」
「ちょっと圭ちゃん、まだおじさんの台詞の途中だよー!」
話の腰を折られてぶーぶーと唇を尖らせるミオンと、げらげらと口を開けて笑うケーイチ。ちなみにゲームとはカードやボードゲーム、果ては鬼ごっこなど様々なジャンルの非電源ゲームを指すらしい。
呆気に取られているクロラットとカタナに、レナがくすりと笑って説明した。
「お二人が早く雛見沢に慣れてくれたらと思ったんです。二週間ほどしかいられないってお話ですけど、それならなおさら、ここでは楽しい思い出を残して欲しくて」
せっかく知り合えたんですから、仲良くしましょう、と微笑む。
「で、でも……私たちは別に学校に通ってるわけでもないし……」
いくらか嬉しそうな様子を覗かせつつも、おそらく負い目を感じているのだろう。当たり障りのない言葉で遠慮しようとするカタナを、サトコは不思議そうに見た。
「何言ってるんですの。お二人とも見たところ、お年はそれほどわたくしたちと離れているわけではないのでしょう? だいいち部長である魅音さんがいいと言ってるのですから、そんなこと理由になりませんわ」
「ならないのですよ」
にぱー、といつもの笑顔で、リカがサトコの言葉をなぞる。
「ま、そっちが嫌って言うならしょうがねーけどな。けど俺もさ、1ヶ月くらい前にここに越して来たんだけどよ、こいつらと一緒にやってるうちに雛見沢にすぐ慣れた。
 飽きさせないのは保証する! 嫌なコトもぜーんぶ忘れて楽しませてやるぜ!」
「無理強いするつもりはありませんけど……どうですか?」
ケーイチとレナは、あくまで強要はせず、二人の意志を尋ねてくる。
それでも躊躇を捨て切れないカタナに代わり、クロラットが訊き返した。
「本当に、ぼくたちでいいのかな?」
「え、クロくん……!?」
驚いてクロラットを見るカタナに、彼は小さく笑みを返す。あ、という小さな呟きをかき消して、サトコが意気込んで両腕を上げた。
「そうこなくてはですわー! カタナさんもよろしいですわね?」
「わ、私は……う、うん。よろしくねっ!」
ぱぁっと満面の笑みを浮かべるカタナに、おぉーっと子供たちが沸く。
「よっしゃ、それではクロラット氏とカタナ嬢を我が部の特別部員として迎え入れる! みんな、いいね!?」
『異議なーし!』
「オッケー! それでは各自、勝利に向けて努力を怠らないように!」
高らかと宣言するミオンに、おぉー!と答えるメンバー。……が、無論新入部員である二人には、彼等の熱意が理解できない。
「え、あの、勝利って……ただ楽しく遊ぶんじゃないの?」
ぼーぜんと訊ねるカタナに、ミオンはニヤリと笑って答えた。
「ちっちっち、甘いねカタナさん!
 会則第一条、狙うは常に1位のみッ! そのためならあらゆる手段、あらゆる努力が要求されるんだよ!」
『えぇー!?』
「ちなみに負けたら過酷な罰ゲームが待ってるから、二人とも心して挑むように!」


* * *

今までの暮らしが嘘のような楽しい日々。
世界が違って見えるほどに、充足した時間が過ぎていく。

* * *


「ちょ、たんまたんまー! ウソ、この私が負けるなんて……!?」
呆然と自分の札と、クロラットの札を見比べるミオン。しかし何度見返しても、彼女の手札はストレートフラッシュ───だったはずの、ブタ。対して彼はただのワンペア。……しかし、勝敗は確かに決していた。
「そんな、魅音さんが……な、なにものですのー!?」
「クロくんはこういうことは異常に強いからなー」
「すごい、魅ぃちゃんがイカサマで負けてる……」


* * *


見た瞬間に、愕然とした。
あのカタナが。シラバノの次期総帥が。


────スクール水着の上に、エプロン着けてる。


「うわーん、クロくんたすけてよー!」
顔を真っ赤にして必死に身体を隠そうとするカタナ。
……すごい。何がすごいって、そうやって隠そうとすればするほど余計にアレになっていくということだ。
「ダメだぜカタナさん! これは罰ゲームだからな!」
「ちょっと圭ちゃん、あんまり人様の彼女にセクハラしちゃダメだよー」
と言いつつ、ミオンも彼を止めない───と言うかむしろ奨励している。まぁひごろ男であるケーイチに進んで体操着やメイド服を着せている彼女のことなわけだから、止めるとは思ってなかったけど。
ちなみに彼らいわく、メイド服などチョイスした日にはいろいろタイヘンなことになるらしい。ゆえにこれはむしろ温情ある罰ゲームと言えるとか何とか。
「はぅ〜☆ カタナさんかぁいいよ〜☆ お持ち帰り〜!」
マトモだと思っていたレナまで脳が発酵している。恐るべし雛見沢……!


* * *


「あははっ、驚きましたか? 私、園崎魅音の双子の妹で詩音っていいます」
経営者の趣味炸裂、と言わんばかりの際どい制服に身を包んだウェイトレスは、そう自己紹介をした。
それにはクロラットも素直に驚く。何しろ目の前の少女は、彼の知るミオンと本当に瓜二つだったのだ。
「私たち、筋金入りの一卵性双生児ですからねー。相手が話を聞くだけで感覚や経験、記憶なんかも共有できちゃうんです」
「へぇ……」
それはすでに一種の特殊能力だ。一卵性の双子には稀にそういった感応能力が備わるという話は聞いたことがあるが、本物を見たのは初めてだった。
しかし言われてみれば頷ける。微妙な違和感を覚えてはいたが、シオンとミオンでは受ける印象が異なっている。
ミオンは部長の肩書きに恥じない威風堂々とした、いかにもリーダーといった感じだが、シオンはそれよりもいくらか柔らかな雰囲気だ。……もっとも、この少女も負けず劣らず悪戯好きなようではあるが。

───しかし、些か奇妙な点もある。
ソノザキはこのあたり一帯を取り仕切る豪族だと聞いたが、その次期頭首が双子では、何かしら面倒なことになるのではないだろうか────?


* * *

打ち解けていく仲間達。
だが綿流しと呼ばれる祭りが近付くに連れて、日常は変わり始める。

* * *


パシャッ。

「わっ!?」
突然横からフラッシュを浴びせられ、思わずカタナは声を上げる。
「な───」
「すいませんね、夕陽に映えるシラバノの姫の横顔があんまり綺麗だったものですから」
カメラを提げた、体格のいい男だった。
一見するとスポーツマンか何かのようにも見える。自らの素性を言い当てられ言葉を失うカタナに、しかし彼はすぐさま申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「あぁ、驚かせてしまいましたか。僕の名前は富竹ジロウ。毎年ここに野鳥なんかの撮影に来てるカメラマンです」
言って彼は、帽子を取って頭を下げる。
毎年来ている、という言い回しからすると、どうやらこの人物は雛見沢の人間ではないようだ。なるほどそれなら確かに、カタナ=シラバノを知っていても不思議ではない。悪い人間には見えないが……
「……カメラマンの方が、私に何か用ですか?」
「そんなに身構えないで下さい。さっきも言ったように、僕があなたを写したのはただの気まぐれなんですよ。あなたをどうこうするつもりはありません」


* * *


「安心して頂戴。あなたたちの素性を吹聴して回るつもりはないわ。私はただ、私の好奇心を満たしたいだけ」
そう言って、ミヨと名乗った女性はくすくすと微笑った。
興宮通りの図書館の一角。埃っぽい静けさの中で、女性の艶やかな───しかしどこか妖しい笑い声が響く。
「……それで、あなたはご満足されたんですか?」
ここに来て以来初めて、クロラットはその黒い目に冷たい色を湛えて彼女を見る。
この女性は、よくない何かを持っている。漠然と───理由は考えないようにして、クロラットはそう感じた。
「くすくす……そんなに警戒しないで頂戴。雛見沢の鬼じゃあるまいし、取って喰おうっていうわけじゃないんだから」
おもむろに。
狙い済ましたかのようなタイミングで、彼女はそんな単語を出した。
「───雛見沢の……鬼?」
「えぇ、私、趣味で民俗学の研究をしているの。今はこの雛見沢に伝わる、綿流しの儀式がその研究対象というわけ」
見るものを不安にさせるような笑みを浮かべて、ミヨはハンドバックの中から使い込まれたスクラップ帳を取り出す。ぱらぱらとページを捲り、どこか嬉々とした様子で語り出した。
「あなたでも知らないかしら? 雛見沢───いえ、鬼ケ淵に伝わる、鬼と人と────オヤシロさまの伝説」


* * *

雛見沢に住まう人々は、はるか過去より暗黒シティ中心部とは切り離されて生きてきた。
その裏にある凄惨な伝承、その地に潜む姿なき意思。
果たしてその真の意味とは何なのか。

* * *


ざわざわと風に木々が揺れる。
ミヨの語ったことが真実とするならば───まるで誂えたように、すべての記号が一致する。
「ね、おもしろいでしょう?」
ふわり、と。自ら口にしたことの内容とは、あまりにもかけ離れた笑みを浮かべて。
「……おもしろい───ですか」
「えぇ、とっても。
……そうだクロックスくん、このスクラップ帳、あなたに貸してあげるわ。あなたなら解けるけるかもしれないもの───“オヤシロさまの祟り”の正体が」


* * *

毎年6月、綿流しの夜に、1人が死に1人が消える怪異。
紡がれる死の連鎖。
かつて隠蔽された怪事件が、蘇る。

* * *


「へぇ、これが綿流し祭か〜。けっこう賑わってるんだねぇ」
「ま、大暗黒祭なんかにゃ全然及ばないけどね。ここらじゃ一番大きいお祭だから」
興奮を隠し切れない様子のカタナに、どこか得意げに説明するミオン。
神社シュラインの境内には出店が立ち並び、木々に吊り下げられた提灯が色鮮やかにあたりを照らす。聴こえる賑やかな祭囃子も、暗黒シティの中心部では見られない祭りの風景だ。
「あ、リカちゃん変わった服……」
「ボクは巫女さんなのですよ。にぱー☆」
赤と白の衣装を身に着けたリカが、いつもの笑顔で答える。祭りの雰囲気と相まってか、今日の彼女はいつも以上に神秘的な空気を纏っていた。
「このお祭りの最後に、梨花ちゃんが布団の綿を祭事用の鍬で裂いて、その綿を沢に流して供養する……“綿流し”の儀式があるんだよ。だよ」
冬の間の病魔を吸い取った布団を感謝と共に供養する……それもまた、暗黒シティでは考えられない風習だ。都市部との交流のない、この雛見沢ならではの儀式である。
へ〜、と感心するのはカタナとクロラットだけではなく、ケーイチもだった。
そう言えば彼も今年雛見沢へ越して来たばかりと言っていたことを思い出す。あまりにもこのメンバーに馴染んでいるので、つい忘れがちなのだが。
「いよいよ今までの練習の成果を見せるときですわね、梨花!」
努力を他人に見せることを嫌うリカが、今まで密かにこの日の祭事のため練習を積んでいたことを、親友であるサトコはよく知っていた。自分のことのように気合を入れる彼女に、リカもそこはかとなく意気込んで頷く。
「さぁ、それじゃあ綿流し五強爆闘改め、七強爆闘いくぜー!!」
『おー!』


* * *

雛見沢連続怪死事件。通称、オヤシロさまの祟り。

* * *


「……あら。クロックスくんは、あなたには言ってないのかしら?」
「何を……ですか?」
「“オヤシロさまの祟り”。……鬼隠しのこと」
その笑みは、あえて言うならば、不吉───だった。
隣に立つトミタケが、また始まった、と言わんばかりに苦笑を浮かべている。彼が普通にしていると言うのに自分が奇妙なざわめきを感じるのはおかしい。だからこれはきっと気のせいだと言い聞かせて、彼女は続きを促した。
「鬼隠しって……なんですか、それ。神隠しみたいなものですか?」
「だいたいは同じよ。神ではなく、鬼が人を隠すの。……どうしてか分かる?」
鬼が人を隠す理由。
それは────
「……まさか」
顔を強張らせるカタナに、ミヨはニヤァ───と。
歪んだ……だがこの上もなく、愉しげな笑みを貌に刻んで。

「────そう。鬼は人を喰い殺すために、哀れな生贄を攫うのよ」


* * *

まるで伝承になぞらえたように、雛見沢の仇敵が二人ずつ消えていく。
最初の事件よりすでに5年。
誰にも分かるほどの“敵”がいなくなった今、今年の犠牲者は果たして────誰か。

* * *


「────トミタケさんが、死んだ?」


* * *

陰謀か。偶然か。それとも祟りか。

* * *


「確かに彼の死に様は異様なものだったかもしれないけど、この街でなら決してありえないほどのものじゃない」
「そうですね。だからみんな、余計に信じちゃうんじゃないかな。……かな」
隣を歩いていたレナが、ぴたりと立ち止まる。
振り向いた彼の目に映ったのは、夕陽を背に佇む彼女の姿。口許にうっすらと笑みを浮かべて、どこか遠くを見つめる少女は、見慣れた彼女であるはずなのに。

「オヤシロさまの祟りは、あるんだって」

ざぁ、と。
風が一陣、吹き抜ける。

「……君はけっこう、冷静にものが見られると思ってたんだけどな。まさか君までそんなことを信じてるの?」
「信じる? 違うよクロラットさん、信じるとか信じないじゃないの。オヤシロさまは“いる”んだよ」
ぞくりとするほどいろを失くした瞳を向けて、レナは断定する口調で告げた。


* * *

いるはずの人間が、いない。
いないはずの人間が、いる。

* * *


凍えるような月明かりのもと。
長い黒髪を夜風になびかせ、リカという少女がそこにいた。

「感心しないわね、カタナ=シラバノ。シラバノの令嬢ともあろう人が、こんな時間に出歩くなんて」

それはまるで別人だ。
大人びた物言い、諦観を浮かべた双眸、ヒトならざる雰囲気……普段目にしていたリカという少女とおよそ同一人物とは思えない。
「……それはつまり、勝手に出歩いたら君みたいな怖い人がやって来て、鬼隠しにされちゃうぞっていうことなのかな?」
「────────」
警戒しつつも挑発じみた言動をするカタナに、リカは不本意そうに顔をしかめる。
「勘違いしないで欲しいのだけど、私は別にあなたたちに何かしようなんてつもりはないわ。
 囚われのお姫様を虐める趣味はないの。むしろ期待しているのよ、もう私はイレギュラーにでも頼らないとどうしようもない」
口調に混じる苦々しさが何に起因するものか、無論、彼女にはわからない。
自身の不運を呪っているのか、自身の無力を嘆いているのか。だがそのうちにあるものは、けっきょくのところ一つだ。
「……イレギュラー?」
「そうよ、ここはあなたたちのそれとは違う時間が流れていると言ったでしょう?
 あなたたちがくだらない夢を見ている間にも、雛見沢は終わらない悪夢を繰り返している。私はこの悪夢から抜け出したいの」
ふぅ、と一つ息を吐いて、少女は頭上の月を見上げる。
爛々と輝く満月が、夜空にひとりきり浮かんでいた。
「……ほんとうはこんなこと、あなたに言っても仕方ないのだけど。でもせっかく言える機会が来たんだもの、愚痴の一つくらい許して欲しいわ。
 ────でも、どうかしら。次からは、いくらでも言えるようになってしまうかもしれない」
言って彼女は、どこか悲しげな視線をカタナへ向けた。


* * *

昨夜出会った人間が、生きていない。
そして今いる人間が、生きていない。

* * *


「それは……どういう意味かな。……かな」

積み上がったガラクタの山。
捨てられたゴミたちの楽園で、二人の少女は雨に打たれる。

「……そう。ここが、君のお城なんだね」


* * *

惨劇は不可避か。屈する他ないのか。

* * *


「誰も狂ってなんかいないのですよ、クロラット」
にぱ、と。何度も目にした───道化じみた笑顔で言う。
自らの感情を押し殺して、無理矢理浮かべたようなそれを……彼はどこかで、見たことがあった。
「カタナもクロラットも、ボクも……みんな狂ってなんかいませんですよ」
ただ、ほんの少し間違えてしまっただけで。
レナも、魅音も、沙都子も、そしてもちろん圭一も。
誰も狂ってなどいない。だってあの日々を────楽しかった想い出を、もう一度と望む気持ちは少しも変わっていないのだから。

……たとえ、それが。

ひとときだけ重ね見た、ただの蜃気楼であったとしても。

夕闇の中、ぱちぱちと火が爆ぜる。
朱い炎に照らされた少女の姿は、どこまでも神々しく───そして、どこまでも儚かった。
「クロラットは賢いですから、もう気付いてるはずですよ。……この迷路から抜け出す方法が」
はっとして言葉を失うクロラットに、リカは淡く微笑む。
そして一歩、彼へと歩み寄ると、膝を付いたままのクロラットの頭にそっと手を伸ばした。
「かわいそ、かわいそなのですよ」
「────……!」
リカの小さなてのひらが、クロラットの頭を撫でる。
「クロラットはやさしいから、きっとそれが選べないのですね」
ぼさぼさの黒髪を撫でつける柔らかな手の感触。それを振り払うように、彼は俯いて力なく首を横に振った。
「……違う、ぼくは……俺は……!」
土の上の手を握り締める彼に、リカは、かすかに苦笑を浮かべたようだった。
「それを気付かせるのは、ボクの役目ではないのです。……あなたたちでは、いつになるかわからないけれど」
リカはクロラットの頭から手を離すと、再び、彼から一歩分の距離を置いた。
「っ……、君は────」
「……もしも何かが、狂っているとするのなら」
彼の言葉を遮って、いつもと変わらぬ笑顔のまま、彼女はまるでうたうように告げる。

────この街は。きっと最初から、狂ってしまっているのだろうと。

「だから───クロラットは、クロラットの夢を守ってあげてくださいなのです」

……ほんとうに、最後まで。
炎の光を撥ねてきらめく、頬のしずくには気付かぬまま。


* * *

でも、屈するな。

* * *


「たまにはこんな気まぐれも悪くなかったわ。……おかげで、忘れてた夢も思い出せたことだし」
おとなともこどもとも付かない、くしゃくしゃの笑顔を二人に向ける。
そして声には出さず、少女の唇が、別れの言葉を形作った。


 ────────ごめんさい。


* * *

君にしか、立ち向かえない。

* * *


────それは、誰かが見た夢の残骸。

こがね色の空のもと。……ひぐらしだけが、ないていた。











/Episode #another「夢零し編 〜最果ての勿忘草〜」 ...Never Closed.






+珍しくあとがき

エイプリルフール企画嘘予告、ドリムゴード×ひぐらしのなく頃にという無茶クロスネタ。(冒険!)(と言うより自殺行為!)
書いた時点での最新作は罪滅し編までだったので、皆殺し編・祭囃しで明かされた真相とは多少異なる解答を用意しておりました。雛見沢が強引ながら暗黒シティに存在するのはそのへんが原因です。
……“あの子”も出て来ておりませんしね(笑)。
ひぐらしヒロインで一番好きな娘さんをあんまり出してあげられなかったのがちょっと心残りだったり。だがあの娘さんを活躍させるともうわけわからんことに。
ともあれ、軽くお楽しみ頂ければ幸いです。わざわざ読んで下さった方、ありがとうございました。
※サウンドノベル『ひぐらしのく頃に』は(C)07th Expansion様の著作物です。



+++せっかくなので夢零し編・解。
雛見沢はDGシステムの実験として過去世界から引っ張ってこられた場所。本当は雛見沢なんて暗黒シティには存在しない。
『ドリムゴード』を再現するための試験として、可能性の蒐集を目的としたループが起こされている。これを知覚しているのは梨花だけ。梨花はこの原因がどこにあるかも知っているので、カタナに思わせぶりなことをほのめかしたりする。ぶっちゃけ八つ当たり。
梨花が殺されるとループリセット。これによって雛見沢は暗黒シティから切り離されて元の時間軸に。一つの歴史として並行世界扱いになるが、ループ自体は続いている。
梨花が生き残るかDGシステムを破棄することでループ脱出。ただし後者の場合は、必ずしも惨劇の回避を指すものではない。どちらに収束するのかはまた別の物語……というのがだいたい当時の想定でした。
皆殺し編・祭囃し編・さらに賽殺し編と出た今となっては、またいろいろ付加できそうですが。うみねこで登場したベル(ryさんとラム(ryさんなら暗黒シティの世界観にも何とか馴染めそうですし、そっちに合わせてもいいかもしれませんねー。



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