After the flower scatters.
|
[ d i s t r e s s f l o w e r . ] |
帝国有数の巨大劇場≪シアター・インペリアル≫は、今秋創設100年を数えるという歴史ある施設だった。 堂々とした重厚な外観と、豪奢でありながら厳粛さを感じさせる内装。伝統と格式を重んじるエレボニアらしい建築様式である。 その≪シアター・インペリアル≫の100周年を記念したセレモニー公演が、今日からおよそ半月に渡り開催される。期間中は大陸でも名高いドールトン劇団による演劇を始め、格調高い催しの数々が行われる予定だ。初日には国内のみならず各国の著名人を招いての観劇会が開かれ、シアターの運営・出資を担うスカンツォナート社の資金力を物語っていた。 「100周年って言っても、結局は一企業が保有する劇場でしょうに。よくここまでやるものね……」 そのあたりもやたらと物事を大仰にしたがる、帝国的な気風と言えなくもないのか。 軽く一つ嘆息を吐いて、シェラザード・ハーヴェイは『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた札が下げられている通路へと入っていく。彼女はこのセレモニー公演に招かれた、リベールからの来賓に 二時間ほどの上演はすでに終わり、現在シェラザードの警護するリベール政府の高官は別の来賓との会談中だ。彼女は席を外すように言われ、ゲストルームの隣室で待機していたというわけである。 化粧室から戻って来たところで、彼女は前方からこちらに向かい歩いてくる青年に気付いた。まだ若いが身なりから察するに、今日招かれている客人の一人だろう。大手企業のエリートといったところだろうか? そう考えていると、青年はまっすぐシェラザードに近付いてくる。職業柄咄嗟に警戒してしまったが、青年は至って友好的な笑顔で彼女に挨拶をした。 「はじめまして、貴女が≪銀閃≫のシェラザード・ハーヴェイさんですよね? 僕はこの≪シアター・インペリアル≫の副オーナーを勤めていますベーネ・スカンツォナートです」 悪意のない笑みを浮かべて、ベーネと名乗った青年は握手を求めてくる。警戒を解き、シェラザードもまたにこやかに微笑んで彼の手を握り返した。 「こちらこそはじめましてベーネさん。スカンツォナートの方に名前を覚えていてもらえたとは光栄です」 無論ここで言うスカンツォナートとは、社名を意味するだけではなく彼の名乗った姓に対しても含まれていることだった。青年の若さでこれだけの大劇場の副オーナーとは驚きだったが、彼がスカンツォナートの血に連なるのであれば意外なことではない。もちろん身内だからというだけで重役を任されるような企業であれば、今日のスカンツォナートはありえないだろうが。 青年は苦笑して頭を掻くが、その仕草は嫌味のあるものではない。それだけでもベーネの穏和で誠実な人柄が窺えた。 「まぁ、僕は傍流なんですが……はは、実は妻が貴女と同じ名前でして。それで今日の客員名簿の中に貴女の名前を見つけたんです。これも何かの縁ですし、ぜひお会いしてみたいと」 「あら、それは奇遇ですわね。私のような者が奥様と同名で、ご気分を害されなければいいのですけれど」 「いえいえ、リベールでも著名な遊撃士である貴女と同じ名前で、妻も喜んでいましたよ」 確かに珍しいことではあるが、同名の別人がいたとしても驚くほどのものではない。 ベーネが自分に話しかけたのが本当にそれだけの理由であることは、彼の様子を見ていればわかる。だからこれはただそれだけの、他愛のない世間話で終わることだった。 「ふふ、もったいないお言葉です。ぜひ奥様ともお会いしてみたいものですね」 シェラザードのその言葉に、ベーネが嬉しそうに笑って、 「そう言って頂けるなら、ぜひ。実は妻もこちらに勤めていまして、今日も出勤していますから……ああ、噂をすれば」 少し照れたような笑みで、彼は右に交差した廊下に向かい手招きする。シェラザードからは見えないが、どうやらちょうどベーネの妻が、そちらから来ていたところだったらしい。その女性の名もシェラザードというのだろうと考えると、何だか複雑な気分だ。 彼の様子からして結婚からまだ一年と経ってはいまい。スカンツォナート社に勤めているというくらいだから、理知的なキャリアウーマンなのだろうか。あるいは彼の人柄に似た、上流階級の穏やかな女性かもしれない。いずれにしても、ずいぶんと大事にされているようだが。 「ベーネ。どうかしたの?」 廊下の向こうから聞こえる、鈴鳴るようなソプラノ。 ────あれ。 でも、この声、どこかで。 シェラザードの思考が凍る。心臓が大きく跳ね上がった。 ……落ち着け、よく似た声の持ち主なんていくらでもいる。だけどもあぁ────私があの声を、聞き間違えることなんてあると思う? 「シェラ、前に話していた遊撃士のシェラザード・ハーヴェイさんだよ。お前も挨拶するといい」 「え……」 ベーネの言葉に、曲がり角から一人の女性が姿を現す。 「────う、そ────」 ……シェラザードの口から、思わず乾いた呟きが漏れた。 そんな彼女の様子にも気付かないのか、ベーネに促され、女性は柔らかく微笑んで会釈する。 「はじめまして、ベーネの妻のシェラザード・スカンツォナートです。お会いできて光栄ですわ」 軽く頭を下げる仕草に合わせて、翡翠色の長い髪がさらりと流れる。優しげなクランベリーの瞳には、愕然とした自分が映っていた。 だって、知らない。こんな表情、一度だって見たことない。自分の知る彼女は、こんな満たされたような微笑みを浮かべてはいなかった。 だからきっと、これは瓜二つなだけの他人で────……ああ、なんて愚か。そんな嘘は自分ですら騙せないのに。 「……あの……シェラザード、さん?」 いつまでも言葉を返さないシェラザードを、女性は訝しげに見る。 理由もわからなないまま、ただ無性に身体の奥から来る震えが止まらない。彼女が生きていたならそれは喜ばしいことに違いないのに、どうして、自分はこんなにも不安なのか。 たった一言。それを確認するだけでいいのに。 縋るように女性を見つめ、震える唇で、シェラザードはようやくその一言を口にする。 「────ルシオラ……姉さん……?」 ……そう、彼女は。 あの≪リベル=アーク≫で消えた、ルシオラ・ハーヴェイだったのだから。 * * * もともとはシェラザードが護衛のために待機していた一室で、彼女とベーネは向き合って座っていた。 ベーネの妻である『シェラザード』───ルシオラには、先に戻ってもらっている。……そう、彼女はルシオラだ。かつてシェラザードと同じ旅芸人の一座に属し、彼女を本当の妹のように可愛がってくれていた女性。そして座長であったハーヴェイを殺めた後、≪結社≫に入り≪執行者≫として再び彼女の前に現れた──── 「……そうですか。彼女の本当の名前は、ルシオラ・ハーヴェイというんですね」 シェラザードが語った『ルシオラ』の話に、ぽつりとベーネが呟く。 もちろん≪結社≫や座長の殺害などの事実は伏せていたが、それでも彼はルシオラの過去に、何かしらの辛い出来事が含まれていることを感じたようだった。 彼がルシオラと出会ったのは二年前。まだ≪シアター・インペリアル≫の副オーナーを任される以前の、霧の深い朝のことであった。 ベーネには早朝、街を散歩するという日課がある。その日も彼は早くに起きて、まだ人々が動き始めていない静かな街並みを歩いていた。 数歩先さえ霞むような濃霧。とは言っても帝国では、朝霧は珍しいことではない。くすんだような静謐さが、ベーネは嫌いではなかった。……だからだろうか。霧の中に、ひどく儚げに響いた鈴の音を聞きとがめたのは。 ちりん、と。 この街には似つかわしくない澄んだ音色。 決して大きな音ではなかったはずなのに、その音は自然に彼の耳へと届いた。 どうしても気に掛かり、ベーネは霧の中を鈴の音を辿って進んで行く。そして、街の外れにある公園の広場で、彼女を見つけたのだった。 喪服にも似た、東方風の黒い衣装を纏った艶やかな女性。 この街では見かけたことはなかった。旅人だろうかとも思ったが、それにしてはこんな朝早くから、こんな場所で何をしているのだろう? 彼女はただ呆然と、虚ろな瞳で宙を見つめていた。胡乱な視線の先には何もない。ときおり思い出したように女性が歩を進めると、ちりん、と哀しげに鈴が鳴る。 それはあまりにも危うい様子だった。堪らず声をかけたベーネに、彼女はきょとん、と成熟した容姿とは不釣合いなほど拙い表情を浮かべて──── ふらりと、その場に倒れ込んだのだった。 「……彼女が気が付いたのは、その翌日のことでした。そして目を覚ました時にはもう────」 ────ルシオラは、自分の過去に関わるあらゆる記憶を失くしていた。 自分が今まで何をしていたのか、どうしてここにいるのか、そもそも自分は何者なのか。何を訊ねても彼女は「わからない」と答えるだけ。診察を担当した医師の話では、これから普通に生活していくことは出来るが、過去にあった出来事の大半は思い出せなくなっているということだった。 ……いや、思い出せないのではない。それらはすでに失われてしまったもので、思い出そうにもその情報が存在しないのである。どうしてそんなことになってしまったのか、わかる者はもうどこにもいなかった。 記憶のない女性が、一人で生活していくことは不可能だ。彼女が退院した後も、ベーネは積極的に彼女の身の回りを整えることに協力した。住む場所を用意したり、仕事を斡旋したり……まがりなりにもスカンツォナートの人間が素性もわからない女に関わることを誹る者もいたが、ベーネは極力それらを彼女の耳に入れないように努めた。……もっとも繊細な彼女のことだ、すぐにその良くない噂話に気付いてしまっていたようだが。 そうして一年余り────彼女の生活もようやく落ち着いてきた頃、二人はごく自然な流れとして結婚するに到ったのだった。 「────────」 シェラザードは何も言わない。……いや、言うことなど出来なかった。 ルシオラが記憶を失っていたこと───自分のことも、座長のことも、何もかも忘れてしまったという現実。ショックでないと言えば嘘になる。すべてを話せば、あるいは彼女は思い出してくれるかもしれない。 ……けれどそれを思いとどまらせるのは、あのベーネの傍らで見せた幸せそうな笑顔だった。 ≪執行者≫として再会した後はもちろん、一座にいた時でさえ浮かべることのなかった表情。……違う、それは嘘だ。本当は一度だけ、あんなふうに笑うルシオラを目にしている。 『……さようなら、私のシェラザード───』 ≪ 見せた彼女は淡い微笑みには、それでもきっとすべてがあった。きっと、彼女は満たされていた。だって自ら死を選んだのは、……つまり、そういうことだから。 決して幸多いものではなかっただろう人生。だけど彼女は、あのとき手にしていたすべてを、ルシオラという女性の生涯を閉じるに足るものだとしたのだ。それを逃避だと責めるのは、しょせん余人の感情だろう。 ルシオラはここで終わることを良しとした。否、自らはここで終わるべきだと決めたのだ。その決断は変わらない。今いる彼女は、ただ“結果的に助かっただけ”だ。それを思えば、ルシオラが記憶を閉ざしたのも道理だった。 ────そう、つまりいずれにせよ。 ルシオラ・ハーヴェイは、もう、この世にはいないのだから────── 「っ────……」 俯いたまま、シェラザードは唇を噛む。 その時ふいに、こんこん、と扉をノックする音が響いた。 「ベーネ、シェラザードさん。まだお話中ですか?」 扉の向こうから控えめな声がかかる。間違いなくルシオラの声音なのに、他人そのものの口調がシェラザードの胸をじくりと刺した。 「あぁ、すまない。もうこんな時間か……」 壁の時計を確かめてベーネが立ち上がる。シェラザードも仕事中だが、考えてみればベーネとてこの劇場の副オーナーだ。何かと多忙な身の上なのだろう。 「……すみませんでした、ベーネさん。お忙しいところを長々と」 「いえ、こちらこそ。……それで、あの……シェラザードさんは……、」 弱々しくも笑みを見せるシェラザードに、ベーネは言い難そうに口を開く。 「今の話を……彼女にも、聞かせるのでしょうか」 それは。 おそらくは彼が、何よりも一番に訊ねたくて。 そして今の今まで、ついに訊ねることの出来なかった言葉だった。 「────────」 「……僕には、貴女を止める権利はありません。僕は『ルシオラ』という女性のことを知らない……だから貴女と彼女の間にあるものに、口を挟むことは出来ません。 ……卑怯だと思われるかもしれませんが……貴女の判断にお任せします」 ぺこり、と小さく頭を下げるベーネ。温和な笑みを刻んでいたその表情が、今は痛ましげに歪んでいる。 ……彼とて、辛くないわけがない。ベーネが『ルシオラ』を知らないように、シェラザードもまた彼と共に二年の時を過ごした『シェラザード』を知らないのだ。それはどちらかを天秤にかけて、優劣を付けられるようなものではない。 無論、シェラザードがすべてを話すことで、ルシオラの記憶が戻るとは限らないだろう。むしろ戻らない可能性の方が高い。だがそれでも、一度でもその事実を聞いたのと聞かないままでいるのとでは大違いだ。シェラザードが彼女を姉のように慕っていたことを知れば、彼女とて心穏やかなままではいられまい。ようやく今の生活にも慣れ、幸福を掴んだ彼女の心を悪戯に乱してしまうことになる。 そんなことはベーネとて承知の上だろう。彼は間違いなく彼女を愛している。彼女が辛い思いをするのもましてルシオラとしての記憶を取り戻すことも、彼にとっては喜べることではないはずだ。 ベーネは何も言わなければ良かったのだ。『ルシオラ』の話を彼女にするのか、などとシェラザードに問わずに、素知らぬふりをして部屋から出て行けば良かったのである。そうすれば、シェラザードにはどうすることも出来ない。 だが、彼はそうはしなかった。きっとベーネ・スカンツォナートは、それを許せない人間だったのだ。今日会ったばかりの他人に過ぎないシェラザードの想いや、見知らぬ『ルシオラ』の人生を慮り、それが自身に不利益になるものであれ無視することの出来ない人。 ────だから、それが。 悔しいと言えば、悔しかった。 もし彼がもう少し嫌な人間であったなら、シェラザードは躊躇わずルシオラの手を引いただろう。……でも、そんなことは出来そうにもない。 「───……いいえ」 静かに、けれどはっきりと、首を横に振るシェラザード。 「ルシオラを────あのひとを、よろしくお願いします……ベーネさん」 何かを堪えるような、それでいて確固たる意思を込めた声音に、果たして彼が何を言えただろう。ベーネはしばし彼女を見つめた後、ただ一度だけ、強く頷いた。 「……はい。必ず」 そして一礼し、彼は扉へと向かう。 だがふと思い出したように、ドアノブに手をかけたところで足を止めた。 「……そうだ。お気付きかもしれませんが、一つだけよろしいですか」 「……? はい、なんでしょう?」 疑問符を浮かべて顔を上げるシェラザードに、ベーネは肩越しに振り返って、小さく笑みを浮かべる。 「妻の名前です。 ───『シェラザード』は、記憶を失った彼女が唯一覚えていたことでした。……てっきり僕たちは、それが彼女の名前なのだと思っていましたが」 貴女の名前だったんでしょうね、と。 そう残し、ベーネは軽く会釈して退室していく。 「────────あ……!」 その意味に気付いた瞬間、シェラザードは咄嗟に彼の後を追っていた。飛び出すように廊下に出ると、ベーネは妻と連れ立って奥の通路へと消えていくところだった。 青年の傍らで穏やかに微笑む彼女。その姿もその心もかつての姉のそのままで、けれどすべての記憶と引きかえに人並みの幸福を得た。何もかも失って、それでもたったひとつ残り続けた、名前。 「………………、っ……」 それは嬉しいことなのか、それとも悲しいことなのか。 片手で顔を覆い、深く吐息を漏らして、シェラザードはゆっくりと廊下の窓へ向かう。防犯のためなのか、窓は僅かしか開かなかったが、それでも新鮮な外気は心地良かった。 頬を撫でる風が冷たい。見上げた空は高く澄み渡って、まるでどこか知らない世界へ通じているような、そんな他愛無い錯覚さえ起こさせた。……じゃあその先には、願う未来もあったのだろうか? それはもはや意味のない仮定だ。 喪われたものは戻らず、在りし日の けれど、だからと言ってこの感傷は、きっと無価値なものではない。 胸に染み入る傷みこそがその証し。ならばせめてその価値を、過ぎゆく日々に埋めぬように。 シェラザードは一度だけ瞼を閉じ、確かな面影を空に刻む。 「…………さよなら……ルシオラ姉さん」 ────遥けし蒼に散り落ちた、悲哀の花を悼むように。 |
ブラウザバックプリーズ