Alice opens the parasol. #1
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[ a l i c e p e k o e . ] |
1/ royal milk 深緑を湛えた木々の群れが、眼下をゆっくりと流れていく。 慣れ親しんだ町並みはすでに遠く、見下ろせば視界一面に広がるミストヴァルトの森。生い茂った葉の上を、落ちた機影が泳いでいく。 定期飛行船≪リンデ号≫。約一週間のロレント滞在を終え、軍務に戻ったカシウスに続き、エステル、ヨシュア、そしてレンの三人もまた、ロレントの町を後にした。 と言っても、そのまますぐに出国しようというわけではない。まだレンが≪結社≫に属していた頃、その身の上を案じていたのは何もエステルらだけではないのだ。とりわけ仲の良かったティータに何も告げず出て行ってしまうのも忍びなく、彼らは親しい知人に挨拶を兼ね、レンと共に顔見せに行こうということになったのである。 その≪リンデ号≫の甲板の上に、ヨシュアとレンの姿はあった。 「レン……、それは本気?」 他の乗客に聞こえないよう抑えた声で、それでも驚きを隠しきれずヨシュアはレンを見やる。エステルの姿は近くにはない。 その言葉が心外だとでも言うように、レンはぷく、と頬を膨らませてヨシュアを見上げた。 「失礼しちゃうわヨシュア。レン、そんなウソついたりしないもの」 「あ、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど」 慌てた様子でバツの悪そうな表情を浮かべる彼に、レンはくすりと悪戯っぽく笑う。ヨシュアったら真面目なんだから、と、ふわりと髪をかき上げて、 「うふふ、冗談よ。……でも、そんなに意外かしら。レンが一人でお城に行きたいって言ったら」 言って、小さく首を傾げた。 「────……」 まるでなんでもないことのように嘯くレンだが、無論のこと少女の目的が、言葉通りの無邪気なものであるはずがない。でなければ一人で、ましてエステルたちより先にクローゼに会うなどというのは明らかに不自然だ。 エステルらと共に、レン・ブライトとしてクローゼと言葉を交わしてはいけない理由。おそらくはそれより先に、クローディア・フォン・アウスレーゼとしての彼女と相対するために。……その理由、その意味を、察するのは難くない。 少女はかつて≪執行者≫として、グランセルの街で二度に渡り事件を起こしている。今はすでに復興を果たしているとは言え、あの街はレンにとっても深い爪痕を残す場所であるはずだ。だからこそ一人で、女王やその後を継ぐ王太女に面会したいという少女の言葉に、どう返せばいいと言うのか。 一人でなければいけないことは理屈では理解できる───だが、それでも感情面で、レンを一人で行かせたくはないという想いは捨て切れない。エステルほどストレートではないにせよ、ヨシュアとてレンを想う気持ちは同じなのだから。 答えあぐねる彼にレンは小さく苦笑を浮かべる。───ヨシュアったら、ほんとうに真面目なんだから、と。 「もう、そんなに心配しなくても大丈夫よ。女王さまとお姫さまがどんなひとかなんて、レンよりヨシュアの方がよく知ってるでしょう? とって食べられちゃったりするわけじゃないわ」 「……それはそうだけど」 「レンのことよりヨシュアは自分の心配をするべきね。レンほどじゃなくても、ヨシュアだってグランセルではエステルに負い目があるんじゃない?」 指先を口許に当て、ひとの悪い笑みを浮かべる少女に、む、とヨシュアは言葉を窮する。あの女王聖誕祭の夜、褪めた月に見下ろされた別離の記憶。冗談半分ではあろうが、エステルはいまだにあの件を根に持っていると公言して憚らない。自業自得と言われればそれまでだが。 もっともエステルとて、本気であの時のことを引き摺っているわけではあるまいが。あの少女は基本的に、良くも悪くも振り返らない主義である。気にしているのはもっぱらヨシュアの方であった。 「───だから、ね? レンがお城に行ってる間に、ヨシュアはエステルをデートに誘ってあげたらどうかしら」 「え?」 想定外の、しかしやたら自信満々なレンの提案に、思わずヨシュアはぽかんとして目を瞬かせる。その顔を覗き込み、少女はにんまり笑みを浮かべて、 「だから、デート。何も難しいことじゃないでしょう? ヨシュアはエステルを悲しませたお詫びに、エステルを喜ばせてあげるだけなんだから」 「あ、うん……、それは、別にいいんだけど」 ただそれが、どうしてデートという結論に至るのかが分からないだけで。 そもそもデートといモノは、本来恋人同士、あるいはそれに準じる関係の男女が、プライベートな時間を共有することで親密さを深めることを目的としているはずだ。公私両面で行動を共にしている彼らにとっては、あまり意味のないことではなかろうか。 「……だから、それが難しく考えてるんじゃない。 別にイミとかモクテキとかなんて何だって構わないの。デート、っていうタテマエが、女の子にとっては重要なんだもの」 呆れたようにため息をつくレンに、よくわかっていない顔で、はぁ、とどこか間の抜けた返事をするヨシュア。 「エステルだって、ヨシュアがデートに誘ってくれたらきっと喜ぶと思うわよ?」 「そ、そうなのかな……」 「えぇ、そうなのよ。それにヨシュアだってレンがお城に行ってる間、ずっとやきもきしながら待ってるよりそっちの方がいいでしょう?」 肩口にかかる髪を軽く払いのけ、レンは最後の一押しとばかりに言を重ねる。しかしヨシュアは僅かに心外そうな表情を浮かべ、 「そんなことはないけど。レンのことでやきもきするのだって、僕たちにとっては大事なことだからね」 と、微妙な強調を込めて訂正してきた。 言い聞かせるように柔らかく頭を撫でられて、レンは照れたようにほんのりと頬を染める。 「ん……ヨシュアのそういうところ、嫌いじゃないけど……きっとゴカイを招くと思うわ……」 はふ、と心地良さそうな吐息を漏らしつつ、レンはよくわからないことを呟く。疑問符を浮かべるヨシュアに、少女はなんでもないわ、とやや憮然そうに首を振った。 「と、とにかく。ヨシュアもエステルとデートするのが嫌なわけじゃないんでしょ?」 「えっと……まぁ、うん。そうだね」 多少の気恥ずかしさはあるが、エステルが喜ぶと言うならデートだろうが何だろうが構わない。頷くヨシュアに、レンは満足そうに微笑む。 「うふふ、それじゃあ決まりね。レンだって少しはアドバイス出来るんだから、しっかりエスコートしてあげないとダメよ?」 言って彼女らしい、悪戯っぽい笑みを浮かべるレン。 ……まぁ、この際。 その姿になんとなく、あくまっぽいツノとかしっぽとかが見えたような気がするのは、きっと気のせいということにしておこう。 「あ、ヨシュアにレン、こんなところにいたんだ」 その時、船内からエステルが姿を現す。ちょうどいいところに来た、と言わんばかりににんまりと笑うレンと、目を泳がせるヨシュア。 眼下の景色は広大な森林を抜け、アーネンベルクを越えようとしていた。 / ドックに停まった≪リンデ号≫から、乗客たちがざわめきながら降り立っていく。 飛行船公社本部を置く王都グランセルの発着場は、リベールで唯一の国際空港であることも手伝い、以前と変わらない賑わいを保っていた。 「ふぅん……本当にあんまり変わってないのね」 ステップから降り、発着場のみならずここから見える街並みも視界に納めてレンは呟く。懐かしむような穏やかな口調と、どこか安堵するような声音。……少女の胸にどんな記憶が去来したのか、察するには余りある。 「レン……ねぇ、本当に一人で行くつもりなの?」 見かねたようにエステルは、身を屈めて少女の顔を覗き込む。心配そうであり、かつ、どこか怒っているような顔に、レンは思わず苦笑した。 「エステルも心配性ね。レンだってそれくらい一人で出来るわ」 えへん、と胸を張る少女に、むーっと釈然としない表情を浮かべるエステル。どうもレンが一人で城に赴こうとしていることを、自分がいないうちに決定されていたのがご立腹のようだった。 「そ、そーいうことを言ってるんじゃないわよっ! あたしはただっ……」 「うふふ、平気よ。 それよりもレンは、エステルの方が心配だわ。『デートらしいデート』なんてどうせしたことないんでしょう?」 齟齬をはぐらかすように、レンはエステルの言葉を遮ってからかうような瞳を向ける。う、と言葉を詰まらせて照れくさそうに視線を逸らすエステル。 「や……やっぱりなんか変じゃない? いっしょに来たのに、わざわざ待ち合わせとか……」 「そんなことないわよ。こういうのはね、カタチが大事なんだから。本当はオシャレもさせたいところなんだけど、お洋服がないんならしょうがないし。次のデートの時のために、ヨシュアに買ってもらえばいいわ」 「つ、次って……」 頬を染めて困惑するエステルは、それでも嬉しそうな様子を隠し切れていない。レンとしても二人の仲が良好なのは喜ばしいし、やはりこの提案は当たりのようだ。 「って言うか、そもそもそういうのはあたしには似合わないって言うか……!」 が、なおもばたばたと大げさに手を振って否定するエステル。ことヨシュアとの関係において彼女はやけに開き直っている時と、妙に恥ずかしがっている時があるが、そのあたりのスイッチはどこにあるのだろう。まぁ、どちらも違う意味で好ましいことには変わりないので、レンとしては困らないのだが。 「ふぅん? レンはそんなことないと思うけど、別に緊張することなんてないわよエステル。ただヨシュアといっしょに楽しんでくればいいんだから。 ───それに一人前のレディは、デートくらいでうろたえたりしないものよ」 大事なのは気品と余裕よ、などとのたまう12歳。 むぅ、と唸るエステルをくるりと回れ右させて、レンはその背を軽く押す。 「レンのことは気にしないで、楽しんできたらいいわ。ずっとレンがいたからヨシュアと二人っきりになれるのも久しぶりでしょう?」 「あぅ、それはっ……じゃなくてその、うん、覚悟決めて行ってくるけどっ」 別にそんな覚悟を決めるとかたいそうなものではないのだが、思い切りがいいのは彼女らしい。やたら気合の入った頷きを一つして、エステルは再びレンの方へ振り向いた。 そしてまっすぐ少女を見つめ、 「───レンのことが気にならない、なんてことはないんだからねっ! 楽しんでくるけど、それとは別に、レンが気になるのはしょうがないんだからっ! 気にしないで、なんて言わないでよ。あたしはレンを気にしたいの!」 そう、真摯な声で宣言した。 「────────」 「えっと……そ、それは覚えておいて。 じゃあ、あたしはそろそろ行くわっ。あんまりヨシュアを待たせたら悪いし。レン、何かあったらすぐ呼びなさいよ、どこにいたってすぐ飛んでいくんだからね!」 言ってから照れたのか、ぽかんと目を見開くレンに一方的に告げエステルは雑踏に溶けていく。 その後ろ姿を呆然と見つめた後────少女はどこか戸惑うような、けれどくすぐったそうな笑みを浮かべ、胸の中心に手を添えた。 * * * かつてにも通った門をくぐると、青く揺れるヴァレリア湖を背に白亜の城が視界に広がる。 『リベールの真珠』とも讃えられるグランセルの王城。かの巨兵をもって砕こうかと嘲笑った城は、尖塔の影を湖面に落とし、変わらぬ壮麗さで佇んでいた。 「……そう言えば、普通に来たことって一度もないのよね」 ため息混じりに呟いて、レンは高く聳える城を見上げる。あの時≪ この位置からではよく見えないが、もう少し後ろに下がれば屋上のバルコニーが確認できるはずである。その周りには空中庭園だ。一度くらいは、ゆっくりと見学するのも悪くないかもしれない。 「ねぇ、兵士さん。お城って、いつもはフツウに入れるのよね?」 「えっ!? あ、あぁ、許可さえ出れば一般公開しているよ。込み入った場所には入れないけれど……」 突然話しかけられて、彼は動揺しつつもそう答える。それにレンは「残念ね」と呟き、また退屈そうに桟橋の欄干へ乗りかかった。 ぷらぷらと足を揺らす少女を、王城入口の扉を守る兵士である彼は戸惑いがちに見遣る。この、どこからどう見ても幼い子供にしか映らない少女が、────本当に、あの日グランセルを襲った敵だと言うのだろうか。 最近になって王都に勤めるようになった彼には、≪執行者≫という存在がどれほどの脅威であったのか実感として得ることは出来ない。しかし彼と共に見張りをしていた先輩兵士のアルツは、少女を見るなり躊躇なく銃剣を抜いたのだ。レン自身は記憶していなかったが、彼はあの時≪執行者≫らによって倒された兵士の一人だった。 今はもう≪結社≫には属していない、ただの民間人だと言う少女の言葉を疑いながらも、アルツは指示を仰ぐと言って城中へと入っていった。少女は彼と共にこの場に残り、その指示を待っているというわけである。 「もう……レン、いつまで待てばいいのかしら」 まだそれほど経ったわけではないが、レンはつまらなさそうにそうこぼす。 不満げに唇を尖らせている様は、とてもではないがそんな恐ろしい存在とは思えない。どこにでもいる、と言うには少し際立つ容姿だが、どこにいても不思議ではない、あどけないただの子供だ。 躊躇いがちに、彼はレンに声をかけた。 「……えぇと……君、レンっていう名前なのかい?」 「? えぇ、そうよ。下の名前は秘密だけれど」 口元に人差し指を当て、うふふ、と悪戯っぽく微笑む少女。それもまた彼の心中を細波立たせた。こんな少女が≪結社≫の幹部だなどと、やはりアルツの勘違いではないのか。 「……こんなことを訊くのは失礼かもしれないけど……君は、本当に王都を襲ったという≪結社≫の一員なのかい? 君みたいな子供が……」 その当然の疑問に、レンは小さくため息をついて、ちろりと彼を流し見る。 「───つまらないことを訊くのね。 確かにあの時のレンは≪結社≫の人間だったわ。大人とか子供とか、そういうことは関係ないの。≪結社≫にいるひとはみんなそうよ。単に、イス取りゲームに負けちゃっただけ。 ≪結社≫はそういうひとにも、新しいイスを用意してくれるもの。最初のゲームは自分じゃどうしようもない原因で負けちゃうこともあるけど、≪結社≫のイスは自分のチカラだけで座れる。チカラさえあれば、いくらでもいいイスに座ることが出来るわ。 だからレンは≪結社≫のイスに座っていただけ。……うふふ、レンの言うことわかるかしら?」 からかうような言い回しは、けれどどこか突き放す響きを含んでいた。 金耀石の瞳に覗く冷たさがひやりと彼の背筋をなぞる。簡明としない言葉は漠然と意味を捉える程度しか出来なかったが、それでも少女がただの子供ではありえないこと、少女にとって今の話題が、面白いものではないことは彼にとて理解できた。 思わずごくりと唾を飲み込む。と、レンははたと気付いたように口許に手を当てた。 「あ───ごめんなさい。怖がらせるつもりはなかったんだけど」 やっちゃった、と言うように、レンは自分にため息をつく。まだまだシュギョウが足りないわ、などと呟きつつ、少女はぴょんと欄干から飛び降りた。 「ビックリさせちゃってごめんなさいね、兵士さん。あなたに言っても仕方のないことだったのに、レンったらつい意地悪しちゃったわ」 ぺこり、と行儀良く頭を下げる仕草は、先ほどまでの可愛らしい少女のものに戻っていた。 呆気に取られている彼に、レンはしゅんとした表情を浮かべて、 「レンの言ったことはあんまり気にしないで。どのみちレンはもう≪執行者≫じゃないし、≪結社≫とも関係ないもの」 そうきっぱりと口にする。 だが気にするなと言っても、先の言葉に混じっていた非難めいた響きは、おそらく気のせいではあるまい。『イス取りゲーム』に負けたと言う少女と、その彼女に新しい『イス』を用意してくれたという≪結社≫。何を言えばいいのかわからず、彼は一つだけ、最後に気になったことを訊ねた。 「……じゃあ……今の君は、どんな『イス』に座っているんだい」 その質問に少女は答えず、ただ屈託なく、満面の笑みを浮かべたのだった。 * * * 「────君のことは、一応は聞いている」 レンの方を振り返りもせず、凛とした声の主は背筋を伸ばして王城の廊下を歩いていく。 王室親衛隊に属することを示す青と白の軍服。中性的な雰囲気を引き立てるベリーショートの髪。前を行く背中は、やはり女性にしては少し広いだろうか。 ユリア・シュバルツ────かの≪剣聖≫の弟子の一人であり、女性ながらにして王室親衛隊を率いる王国軍大尉である。彼女に先導されて、レンは女王と皇太女がいるという女王宮へと向かっていた。 あの後、王城入口に現れたのは見張りをしていた兵士ではなく、親衛隊大隊長である彼女だった。どうやらあの兵士は彼女に指示を仰ぎ、さらに彼女が女王に指示を仰いだらしい。結果として、レンは最短ルートで女王と皇太女の二人に面会できることとなったのだ。 「レンのことって、例えばどんな?」 「君がエステル君とヨシュア君のもとに引き取られたことだ。それ以外に何か知るべきことがあるなら聞こう」 「────────、別に、ないわね」 つかつかと先を歩く女性の後に続きながら、レンはその背を見上げる。正門に現れた時から彼女はこんな調子だ。硬いと言うよりむしろ、敵意に近いものをレンに対して発している。 もっとも、それが当然の反応なのだということもレンはじゅうぶんに承知していた。自分がしたことと彼女の立場を思えば、そのくらいの扱いは受けてしかるべきだろう。だから不満を口にすることも出来ず、黙って階段を上っていくユリアの姿を見上げることしか出来ない。 階段を上りきり、屋上へ出る。 美しい空中庭園はなかなか見応えがあったが、あいにく先導する彼女はゆっくりと見て回るなどということは許してくれそうになかった。脇目も振らず進んでいくユリアを追いかける。────いつかにも通った道筋。 そして、ややもせず女王宮へと到着する。入口のところで見張りに立っていた親衛隊員が、ユリアに敬礼して道を譲った。 「アリシア陛下とクローディア殿下はこの中においでだ。面会には私も同席するが、構わないな?」 ようやくレンの方へ振り向き、用件のみを告げて同意を求めるユリア。それに、レンはため息混じりに小さく頷いた。 「えぇ、……まぁ、仕方ないわね。同席するのはお姉さんだけ?」 「ああ。本来ならば親衛隊員を控えさせるところだが、陛下と殿下が共に反対されたのだ。……君の事情は大勢に聞かせるようなものではないし、そんなことをすれば、君を引き取ると決めたエステル君やヨシュア君に失礼だとな」 簡潔にそう答えて、ユリアは女王宮の扉を開ける。そして、意外そうに彼女を見つめるレンに中へ入るように促した。 「謁見は陛下の私室で行う。ついて来るといい」 「……それじゃあ、お邪魔させてもらうわ」 軽く呼吸を整えて、レンは女王宮へと足を踏み入れた。 / 開け放たれたテラスから、微かな風が流れてくる。 やわらかにそよぐレースのカーテン。鼻腔を掠めるローズアロマは、花弁を浮かべた紅茶からのものだろうか。上品なティーセットが用意されたテーブルには、初老の女性と、十代半ばの少女が着いていた。 「───ようこそいらっしゃいました。わたくしがリベール王国第26代元首、アリシア・フォン・アウスレーゼです」 柔らかに微笑んで、初老の女性がそう告げる。 諸国に名高き 直接見えるのは二度目となるにもかかわらず、彼女は自らそう名乗った。あの時に王都を襲撃した執行者ではなく、今ここにいるレンに改めて。 「皇太女のクローディア・フォン・アウスレーゼです。……お久しぶりですね、レンちゃん」 一方、かすかに眉を伏せて微笑む少女、クローゼ。『クローディア』とも『クローゼ』ともつかない曖昧な挨拶が、彼女の複雑な心境を物語っているようだった。 「お久しぶりです、アリシア女王にクローディア皇太女。お忙しい中ご接見いただき光栄です」 スカートの端を持ち上げ、レンは丁重にお辞儀する。戸惑うような表情を浮かべるクローゼを手で制し、アリシアは穏やかにレンへ笑いかけた。 「今日は私的な会見です。どうぞ、普段のままのあなたでお話しください。 ……それでレンさん。今日はいったいどのようななご用件でいらしたのでしょう?」 促す口調は優しげで、強要する響きは一切ない。もしもこの場でレンが踵を返したとしても、彼女はそれを許すようにすら思えた。 ……つまりは、あくまでもレン自身の意思に問うということ。 それがこの場において、アリシア・フォン・アウスレーゼが下した裁量だった。 そして永いような短いような沈黙の後────ぽつりと、躊躇いがちにレンは呟く。 「────………………今日は、……謝らなくちゃいけないって、思ったから」 背後に控えたユリアと席に着いているクローゼが、微かに息を呑む。ただアリシアだけは落ち着きを払ったまま、静かにレンの言葉を聞いていた。 「……なぜ、謝らなくてはならないと思われたのですか?」 「……レンは……悪いことをしたわ。お茶会のときも、お城を襲ったときも……ううん、それだけじゃなくて、きっともっとたくさん……だから───ごめんなさい」 言って、レンはがば、と深く頭を下げる。 前髪に隠れてその表情はわからないが、スカートの上で揃えられた小さな手のひらが、きつく握り締められているのは見て取れた。 「レンちゃん───……」 何も言うことが出来ず、クローゼは痛ましげに目を伏せる。レンが一人で城を訪れたことを、そして彼女らに面会を求めていることを聞いた時、こういうことだと理解はしていた。 ……ただ、それでも「どうして」と思ってしまう。レンがブライト家に引き取られたと聞いた時、複雑な思いもあったけれど、それ以上に良かった、と安堵した。一時のことではあったが、クローゼとてレンと同じ時間を共有したことはある。ティータと一緒に楽しげに笑う少女のことを憶えている。一度は欺かれ果ては落城の危機さえ招いた相手だというのに、それでもレンを憎みきれないのは彼女も同じなのだ。 次に会う時は、きっと少女はいつかのように、彼女の大好きな人たちと幸せに笑っているのだと────たとえこれこそが避け得ない現実なのだとしても、……そう思ってしまう自分は、やはり甘いのだろうか? 罪は償わなければならない。それは誰よりも、レン自身が自らに課したこと。素知らぬふりで通り過ぎてしまうことも出来ただろうに、少女はこうして彼女たちの前へと進み出た。その決断はクローゼにはどうすることも出来ないものだ。 ────じゃあ、自分に出来ることはなんだろう? 自分なりに、自分の立場からレンのことを気にかけるなら。それならせめて自分が出来ることは────それはやはり、見届けることに他ならないのではないか。 心のままに手を差し伸べることも、声を届かせることもクローゼには出来ない。けれど彼女はここにいることが出来る。誰よりも近くにいたかっただろう彼らのためにも、自分が目を逸らすことは許されない。おそらくは彼女が信じるもののためにも。 きゅっと唇を引き結び、クローゼは毅然と顔を上げる。すると、まるでそれを待っていたかのように、アリシアが静かに席を立った。 「……レンさん、どうか顔を上げてください」 その言葉にレンは僅かに顔を上げ、上目遣いに女王を窺う。迷子のように不安そうな眼差しを受けて、アリシアは穏やかに微笑みかけた。 「あの時のあなたが、どうであったかはわかりません。ですが今のあなたは、そうした行いを『やってはいけないことだった』と認識しているのですね?」 「……えぇ。ごめんなさいって言えば、許してもらえるとは思わないわ。……でも、どうしたらいいかわからなくて……ごめんなさいって言うことしか、思い付かなかった」 女王の問いかけに小さく頷き、レンは再び視線を落とす。その小さな身体には重すぎるほどの罪。 「……そうですね。あなたのような幼い子供があのような組織に属していたからには、何か重い事情があったのでしょうとは思います。けれど、だからと言ってあなたのしたことがなかったことになるわけではない。わたくしがあなたを裁くことも許すことも簡単でしょう。ですが────」 そこまで言って言葉を切り、アリシアはレンの方へと歩み寄る。そして、その傍らで膝を折り、少女の目線に合わせるように屈み込んだ。 「それではきっと、意味がないのでしょうね。 ……レンさん。あなたはどうすればいいのかわからないと仰いました。ですがそれはわたくしにもわからない。 この国であなたが犯した罪だけであるなら、わたくしが采配を下すことも出来ます。ですがあなたはおそらく、今までにあなたが犯してきたすべてを負おうとしているのでしょう? あなたが……あの子たちと、共に在るために。 それならば、残酷ですが……わたくしにはどうすることも出来ません」 「…………ッ…………」 「───ですからレンさん。どうしたらいいのか、どうすべきなのかは、あなた自身が考えなければならないことです」 はっきりと告げられた言葉に、レンは「あ」と小さく声を漏らした。……だってそれは、確か以前にも、覚えのあるものだったから。 「あなたはあなたの目で、あなたの心で、この国と世界を感じて下さい。そして、あなたが犯した罪を識りなさい。 その上であなたが為すべきこと、為したいことを、あなた自身で見つけて欲しい。それが見つかったとき、もう一度わたくしの前へ立ってください」 目の前でまっすぐに自分を見つめるアリシアの顔を、レンは呆と見つめ返す。 ────同じかどうかはレンが自分で考えてみて。 ────……レンが自分の心で感じるままに判断しなさい。 いつかにも聞いたそれは、ひどく温かくて、同時にひどく残酷だった。 女王もエステルと同じ。いちばん難しいことを、すべて少女に委ねてしまう。レンが望むことも望んではいけないことも、自分自身で選びなさいと。 本当の意味で罪を負うのなら、ニセモノの自分でいることは許されない。そんないちばん最初の大事なことを、今更のように思い知らされた。 「────レンが、為すべきこと……、………………。 そうね……カシウスにもあんなこと言ったのに、ずるいことをしちゃったかもしれないわ」 気まずそうに呟くレンに、しかしアリシアはくすりと微笑み、優しく少女の頭を撫でた。 「ふふ、そんなことはありませんよ。 それにもしそうだとしても、何も気に病むことはないのです。間違うことも迷うことも、子供の特権のようなものなのですから」 「……え?」 「わたくしのように年をとってしまうと、なかなか失敗は許されないものです。だから子供のうちに、躓きながら色々なことを学んでください。 過ちを取り戻せるだけの時間も、過ちに気付かせてくれるひとも、あなたにはちゃんと在るでしょう?」 レンの瞳を覗き込み、アリシアは少女の手を取る。そしてそのてのひらを、そっと少女自身の胸へと添えさせた。 「────────」 「それもまた、家族の役割なのですから。どうか憶えていてくださいね」 胸の上でぎゅっとてのひらを握り締めるレンに、彼女は最後にそう伝えて立ち上がる。そして扉の前に立つユリアと、腰掛けたままのクローゼに向き直り、 「クローディア、それにユリア大尉。わたくしはこのように考えます。何か意見があればお聞かせください」 「いえ……陛下のご判断であれば、私に異存はありません」 「はい、わたしも……ありがとうございます、お祖母さま」 深く敬礼するユリアと、安堵したように顔を綻ばせるクローゼ。アリシア・フォン・アウスレーゼは、やはり偉大な女王だった。かつてはその巍然に迷いもしたけれど、今は素直に誇らしいと感じることが出来る。 胸に手を添えたまま、ぼぅ、としているレンを見遣る。……少女は、まだこれからだ。見つけた光に続く道を、戸惑いながら探している。それは決してやさしいことではないだろうけど、でも、あの二人となら大丈夫。いつか必ず少女自身で答えが出せるはずだ。 孫娘の表情にアリシアは小さく微笑むと、再びレンへと視線を戻す。 「……レンさんも、それでよろしいですか?」 「え、ぁ…………う、うん」 少女らしからぬ稚い返事。アリシアもまた優しく笑みを浮かべて、頷きを返した。 「それでは本日はこれで。────またお会いできる日を楽しみにしています、レンさん」 * * * 行きの時にも通った廊下を、今度は三人で戻っていく。 ユリア、レン、そしてクローゼ。時折すれ違う使用人が、二人に頭を下げていく。 それなりに親しげなレンとクローゼとは対照的に、ユリアは行きと同じく黙々と足を進めていた。 「……ねぇ、大尉さん。ほんとうに良かったの?」 王城右翼から玄関広間へと出る間際、とうとうレンはそうユリアに問いかけた。 彼女がレンに対して快い感情を持っていないであろうことは見ればわかる。アリシアの裁量は、彼女の立場からすればあまり嬉しいものではなかっただろう。 ぴたりと足を止めるユリアに、つられて二人もその場に留まる。 「…………君の事情を考えれば、陛下のご判断は十分に納得できるものだ。もとより陛下は寛大な方……君に厳しい処罰が下るとは私も思ってはいなかった。……それは、誰が望むところでもない」 肩越しに答える横顔は平坦で、それゆえに彼女の複雑な内心を物語っているかのようだった。硬質な物言いの裏にある感情は、騎士としてのそれではなく、彼女個人のものであるように感じる。 「ユリアさん……」 理由を察したクローゼの戸惑う声に、ユリアの頑なな面持ちがふと崩れ、ため息と共に瞳が逸らされた。 「……これはあくまで個人的な問題だ。 ───君は、カノーネを陥れた。私にはそれを許すことは出来ない」 「────────」 ユリア・シュバルツという一個人として漏れた思いに、レンは思わず言葉を失う。カノーネ・アマルティア────聞き覚えのある名前。かつての≪お茶会≫の時、少女が利用した一人の女性。 思わぬところを突き付けられ、しかしレンはそれを黙して刻み付けるより他になかった。……おそらくはこれから先、きっとこんなことが、何度となくあるのだろうから。 「────……そうね。あのお姉さんにも謝らなきゃ」 噛み締めるような呟きに、ユリアはふい、と顔を背け再び歩き始める。 右翼を抜け吹放しの広間へ出たところで、ちょうど階段を上ってきた人物と出くわした。 「え?」 「あ───」 軍将校であることを示す緑衣の軍服に身を包んだ彼は、穏和だがどことなく気苦労の多そうな面差しに僅かな驚きを乗せて三人を見比べる。 「まぁ……シード中佐?」 クローゼの声に、彼───リベール王国軍中佐、マクシミリアン・シードは軽く頭を下げた。 「お久しぶりです殿下、ユリア大尉。……それとレン君」 王城で会ったとしても何の不思議もない前二者と異なり、些か意外そうにシードはレンへと苦笑を向ける。少女がブライト家に引き取られたことはエステルらが帰国した当日、カシウスに会うためにレイストン要塞を訪れた際に知っていた。しかしこうして改めて顔を合わせると、場所が場所であることも加えて複雑さを禁じえない。女王宮前での攻防でもまた、こんなふうに階段の上と下で少女と向かい合ったのだった。 「あら……うふふ、きちんとご挨拶するのは初めてね。レイストン要塞へ行った時はお話も出来なかったし、ちゃんとお顔を合わせるのはあのとき以来になるのかしら」 くすくすと笑いながらそう言うレンに、シードはますます困ったように苦笑いを浮かべるしかない。敵対していたとは言えやはり子供に剣を向けたことは、彼にとってあまり褒められたものではなかった。 「あの時はすまなかったね……私としても予断ならない状況だったとは言え、君に傷でも付けていたら今頃はエステル君たちに顔向けできないところだった」 許してほしい、と謝罪するシードだが、別にレンもそんなことを気にしてはいない。攻めたのはこちらなのだから、反撃はあって然るべきだ。まぁそれとは別のところで、自らの実力にそれなり以上の自負を懐いているレンにとっては、今の言葉は少々カチンとくるものがないでもないのだが。 「……んー、そうねぇ。ヴァルターやブルブランだっていたんだもの。レンに斬りかかるのはちょっとオトナ気なかったかしら?」 というわけで、ちょっと意地悪してみたり。 金耀石の瞳に悪戯っぽい色を覗かせ、肩口にかかる髪をかき上げるレンに、面目ない、と頭を下げて謝辞を重ねるシード。条理で言えば非があるのはレンの方であり、彼が責を感じる必要はないのだが、なんと言うか本当に律儀な人である。 「そう言えば……シード中佐って、確か以前にレンちゃんと面識がありましたよね? 不戦条約の時にエルベ離宮で……」 「港湾区の倉庫街でも顔を合わせているかと。……ですが女王宮での戦闘は火急の事態だったのですから、最も与し易しと判断した相手を狙うのは適切だったと思われます」 「あら、ヒドイ。そんなつもりでレンを狙ったの?」 「い、いや……」 いつの間にか針の筵のような立場になってしまい、シードの額に困惑の汗が浮かぶ。消極的なユリアのフォローも逆効果だ。 目に見えて焦り始めたシードの表情を見ていると、つい、レンの悪戯心がむくむくと頭をもたげてくる。……ちょうどいいことだし、彼にも少し付き合ってもらうのも悪くないかもしれない。何気なく後ろに回した手でポケットの中のものを確かめ、レンはにっこりと笑みを浮かべる。 「冗談よ、いけないのはレンの方だったんだもの。おじさまが気にすることはないわ」 「お、おじ……!? あ、いや、そう言って貰えると助かるよ」 何気なく「おじさま」と呼ばれたことに軽くショックを受けつつも、その内心を押し留めシードもまた少女へ小さく笑みを返した。 「うふふ、じゃあ仲直りね」 満足げに微笑んで、レンは彼の軍服の裾を引きその手を取る。あくまでも可愛らしく、無邪気な子供そのものの仕草で。 「ねぇおじさま────仲直りのシルシに、レンと一緒にかくれんぼしましょう?」 |
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