Alice opens the parasol. #3
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[ a l i c e p e k o e . ] |
それはかつての夜のこと。 ホテル≪ローエンバウム≫の一室で、同じ部屋に泊まることになった少女レンは、エステルに幾つかの寝物語をねだった。 とりわけ少女が興味を示したのは、今は行方知れずとなっている少年の話だった。その時は単に少女がマセているだけだと思っていたが、後にして思えば、レンがヨシュアの話を聴きたがったのは当然のことだったのだろう。おそらくはレンの知る面影と大きく異なったであろう思い出話に、少女はどんな 求められるまま、ずいぶんといろんな話をした気がする。根負けして、とうとう彼が姿を消したことまで話してしまった。さすがに仔細な原因まで喋ったわけではなかったけれど、その中でふとエステルは、漏らすべきではない弱音を漏らしてしまった。 「でもね……たまに不安になるときもあるよ。 ヨシュアはあたしなんかよりずっと頭もいいし、いなくなったのだってそれだけの事情があったからだし。それなのに、本当に……あたしはヨシュアを追い駆けていいのかな、って」 きっとその部屋が、以前にも彼と泊まったことのある部屋だったせいもあるだろう。 少女が『外』の人間であったからこそ、そんな感傷が口を突いてしまったのかもしれない。 そう言いつつ、それでも追い駆けるけどね、と苦笑を浮かべつつエステルは付け加えた。───それはもう決めたことだ。突き付けられた別離が、どんなに仕方ないものだったとしても。納得も受け入れることすら出来ないまま、いずれ薄れていく記憶に彼の存在を埋もれさせてしまうなんて出来はしない。 少女はそれを黙ったままで聴いていた。年上らしからぬ弱気な姿を笑うでもなく、和やかだった語り合いに水を差したことを戸惑うでもなく、ひどく真剣に。 「ふぅん……でも、不安になることなんてないんじゃないかしら? レンはエステルの選んだほうが、正しいって思うわ。 そのお兄さんにどんな事情があったかは知らないけど────待ってるだけじゃ、ホントウに欲しいものは手に入らないもの。レンはそれを知ってるわ」 自覚ないこととは言え、両親に置き去りにされた少女が言うにはあまりにも皮肉な台詞だ。 だが思い返せば、それは紛れもなくレンの本心だったのだろう。待ち続けても叶わなかった、戻らないてのひら。 ……だからだろうか。その言葉に、情けないほど励まされてしまったのは。 レンからすればそんな意図はなかっただろうけど、エステルにとっては信じられないくらいありがたい言葉だったのだ。たぶん、それが最初のこと。 レンという一個人を本当の意味で好きになった、はじめの夜のことだった。 3/ aromatic harb 結局レンを捜そうということになったエステルとヨシュアは、現在王都西街区の住宅地にいた。 民家が密集し入り組んだ小路地を作り上げているこの区画では、建物の陰に回ってしまえば人一人くらいは簡単に身を隠せてしまえる。それがレンのような小柄な少女であればなおさらだ。 もちろん彼女に限って大人しく身を潜めているとも思えないし、とうにシードも捜していることだろうが─── 「そう言えば……シード中佐って、まだレンを捜してるのかな?」 路地裏から出て来たエステルが、ふと思い出したように言う。 「まだなんじゃないかな。シード中佐ももちろんすごい人だけれど……レンだから、ね」 「そーよねぇ。レンだものねー……」 あはは、と、二人して苦笑を浮かべ合う。 軍人としてのシードの有能さは疑うべくもないが、やはり狡猾さという点では、躊躇のないレンの方が強い。どちらかと言えばレンの「遊び」に付き合っている形のシードでは、おそらく時間切れまで引っ張り回されることになるだろう。 「情報交換でも出来ればいいんだけど。中佐もあちこち移動しているみたいだからね」 手帳に走り書きした地図をチェックしながら、ヨシュアはエステルを片手で呼ぶ。ひとまずこちらは切り上げて、別のところに行ってみようかという話になったのだが。 「お? エステルにヨシュアじゃねーか!」 ───と、懐かしい声が二人を呼び止めた。 「あ……ナイアル!」 声のした方に振り向けば、珈琲ハウス≪バラル≫の店先でテーブルに着き、片手を上げている中年男性が一人。 よれよれのシャツとズボンに無精髭と、お世辞にも小奇麗とは言えないが、気安い笑みには親しみがある。すぐ間近の出版会社≪リベール通信社≫に勤める記者、ナイアル・バーンズだった。 「よう、久しぶりだなお二人さん。いつこっちに戻ってたんだ?」 駆け寄ってくる二人に、まぁ座れ、とばかりに向かいの席を勧めるナイアル。言葉に甘えて腰を下ろしながら、ヨシュアは軽く会釈を返す。 「お久しぶりですナイアルさん。 旅先で父に話さなければいけないことが出来たので……一週間ほど前に帰国したんです」 「ほーぉ。カシウス准将に話さないといけないこと、ねぇ。なんだ、子供でも出来ちまったのか?」 コーヒーカップを口に付けつつ、ニヤニヤと笑うナイアルに、二人は揃って赤面する。 「ば、ばかっ! そーいうんじゃないわよッ!」 ばん、とテーブルに手のひらを叩きつけ、……しかしはたと、エステルは首を傾げた。 「……あ、ううん、そうなるんだっけ?」 「ぶッ!!」 今度はナイアルが盛大にコーヒーを噴き出す番だった。気管支に逆流したカフェインにげほげほと咽返る彼に、ヨシュアは同情の眼差しを送りつつ備え付けの紙布巾を渡す。 「すいませんナイアルさん……エステル、それはちょっと違うよーな」 「な、何よー、あたしだって恥ずかしいけどホントのことだし……」 「いやだからね」 確かにその通りだ。嘘は言っていない。だが斜め上の方向にすっ飛んでいく彼女の発言は、知らない人が聞いて誤解するなと言う方が無理な話だろう。ようやく復帰したナイアルが、びし!と二人に指を突きつけてくる。 「おおおおおまえら! 未成年の分際で何をやってんだ!!」 「何って言われても……」 「エステルごめん、ちょっと黙ってて。ナイアルさん、落ち着いて聞いてもらえますか」 放っておくとますます話がややこしいことになりそうだったので、二人の間にさっくりと仲裁に入るヨシュア。二名ははい、と素直に着席し直した。 「まず最初に、ナイアルさんが誤解しているよーな事態はありません。 子供というのは……ナイアルさんもご存知だと思うんですが、レンのことです」 その言葉に、弛緩していた空気が僅かに張り詰める。驚きの表情を浮かべて二人を見るナイアル。対する彼らに、嘘や冗談を言っている雰囲気は微塵もなかった。 「……レン……ってのは確か、≪身喰らう蛇≫にいた元執行者のガキだったよな?」 「今はあたしたちの家族よ」 すかさず訂正するエステルに、ナイアルは深々と嘆息を吐き出す。しかし彼の発言に、ヨシュアは微かな違和感を覚えた。今ナイアルは、 「なるほどな……そーいうことか」 「あまり面白くはなさそうですね、ナイアルさん」 煙草を取り出して火を付ける彼に、ヨシュアは苦笑を浮かべる。それにナイアルは煙草を咥えて、複雑げな顔を作った。 「……ま、お前らが決めたことだ。信用は出来るんだろうさ。 ただ、俺はこれでも ……正直に言っちまえば、歓迎は出来ねぇよ。もちろん反対も出来んけどな」 ガリガリと頭を掻いて、ナイアルは紫煙を吐き出す。 それなりに事情を知る親しい知人、それもどちらかと言えば人のいい方に分類されるだろう人物から聞かされる遠回しなレンへの非難。覚悟いていたはずの“当然の報い”は、それでもやはりショックを伴うものだった。膝の上に置いた手を、エステルは思わず握り締める。 「ですがナイアルさん。そういうことなら、僕についても同じことが言えます」 そう言うヨシュアだったが、ナイアルは首を横に振る。結局のところ、人間の感情として直接被害を受けたかどうかは大きく違う。それに彼はヨシュアのことはよく知っているが、あの少女についてはほとんど知らないのだ。少女の身の上に同情はしても、許せるかどうかは別問題だと。 「……ま、要するにそーいうことだ。俺はあの娘がどういう人間か知らねぇし、それは俺以外のヤツらにしたって同じことだ。知っているのはあの娘がこの街を襲ったっつー事実だけ。 なら話は簡単だろ。その事実を帳消しにしてもいいと思わせるだけの『事実』を、これから作っていけばいいんだよ。 過去にどんな善行を重ねてきた人間でも、今がどうしようもねぇ悪人なら裁かれる。それと同じで、過去にどんな失敗をしていようと、それを反省して償おうとしているヤツは責められない。……ま、今すぐにとは言わねぇさ。もうちっとデカくなって、償い方を見つけてからでも遅くはねぇよ。 そのあたりは、お前らが責任持つとこだろ?」 そう一息に言い切って、ナイアルはにやりと笑い二人を見た。 「ナイアルさん……」 「あ……、当たり前よそんなの! 今に見てなさいよね!」 感謝の笑みを浮かべるヨシュアと、力強く宣言するエステル。それに彼はやれやれと言うように軽く肩を竦めて、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。 「おう、楽しみにしててやるよ。俺の審査は厳しいぞ? 言っとくが、初めに話したことは紛れもない本心なんだからな」 念を押す口調でもう一度強く言うナイアルだが、改めて言われるまでもなく、それは忘れてはいけないことだ。だけど、それでも。 「わかっています。……だからこそ、レンに猶予をくれたことに感謝してるんです」 「そうよねー。ナイアルって、なんだかんだ言ってもいいヤツだわ」 にこやかに笑う二人に、ナイアルは嘆息をついて新しい煙草に火を点ける。けれどそれが照れ隠しのパフォーマンスだということは、たとえドロシーでも分かっただろう。 「へいへい。せいぜいしっかりやってくれよ、『パパとママ』さん」 「モチのロンよ!」 意気込んで答えるエステルの横で、再びヨシュアは眉をひそめる。さきほどの「元執行者」という言い回しといい、今の「パパとママ」という言葉といい……彼にはまだ話していない部分であるにも関わらず、さも当然のように口にしているのはなぜなのか。 「あの、ナイアルさん……その『パパとママ』というのは、誰から?」 立場的には親なのだから、それをからかって言っているだけ、というニュアンスには思えなかった。ヨシュアの疑問に、ナイアルは咥え煙草をぴこぴこと燻らせ、 「ん、なんだ。よーやく気付いたのか?」 と、実にあっさりと答えたのだった。 『はい?』 声を揃えて彼を見るエステルとヨシュア。ぼーぜんとした顔に、ナイアルはにやにやと人の悪い笑みを浮かべて言葉を続ける。 「もっと早く気付くかと思ったんだがな。ヨシュアの方はともかく、エステル、お前さんはもうちょっと他人の言動に気を配った方がいいんじゃねーのか?」 「だ……だから、何の話よっ!?」 聞き捨てならない雰囲気に詰め寄るエステルに、しかしナイアルは余裕の笑みを崩さぬまま、 「お前らが来る前、俺ぁここでもう会ってるんだよ。あの執行者のガキ───もとい、レンにな」 と、ニヤリと笑って答えたのだった。 「あ、あんですってー!?」 「んで、まぁ簡単に事情は聞いてるってーワケだ。ついでに、お前らとここで会ったのも偶然じゃねーぞ」 得意げに紫煙を吐き出すナイアルを、二人は愕然と見つめる。つまり彼はすでにレンと会っていて、こちらの事情もある程度は知った上で、あんなことを言ってきたというわけだ。 「な……なんてシュミの悪い……」 「これくらいは出来ねぇとブン屋は務まらねぇよ。 何度も言ってるだろ? 俺はあのガキを許したわけじゃねぇ。だからお前らの覚悟のほどを聞いておきたかったんだよ」 「そういうことでしたか……」 憮然と頬を膨らませるエステルの隣で、ヨシュアは深々とため息を吐く。ナイアルを責める気は毛頭ないが、まぁ、一本取られた、というところか。自分たちもまだまだ修行が足りない。 「まぁそうふて腐れるなや。ほれ、こいつは預かりもんだ」 言ってナイアルは、おもむろに懐から一通の手紙を取り出した。 シンプルな白い封筒に赤い封。宛名には、エステルとヨシュアの名前が書かれている。 「こ、これ……!」 思わず、エステルは椅子から腰を浮かす。見覚えのある封筒、見覚えのある筆跡……ナイアルの手から引っ手繰るようにしてそれを受け取ると、彼女は焦る手つきで封を開けた。 中から現れたのは一枚のカード。 それは────≪お茶会≫の、招待状だった。 * * * グランセル大聖堂の白い壁を、朱に色付き始めた陽が琥珀に照らす。 定めた時間が近付いていることを知り、シードは本日何度目か分からないため息を吐いた。 「やれやれ……」 西街区、教会前広場。エステルやヨシュアから西街区へ向かう少女を見た、という話を聞いてから後を追うも収穫はなし。それからひたすら王都を歩き回り、結局いまだにレンの姿すら見ていなかった。ここを通るのも何度目になることか。 「ん……?」 と、ふと彼は、見下ろす通りの喫茶店に目を止める。≪バラル≫の軒先に据え付けられたテーブルに、見知った姿があった。 「あれは……エステル君とヨシュア君、それに≪リベール通信≫の記者殿か」 三人は楽しげに談笑している。もう一度レンのことを訊ねてみようかとも思ったが、積もる話もあるだろうし、邪魔をするのは忍びない。どのみちもうしばらくすればタイムリミットなのだから、何とか自力で捜すことにしよう。 そう思い直し、シードは再び道並みに歩き始める。たむろする鳩が一羽、足下から飛び去っていった。 「それにしても、いくら広い街の中とは言え、ここまで見つけられないとはな……さすがと言うべきか」 なんだかんだと、子供だと思って甘く見ていたのかもしれない。悪戯好きで気まぐれ、という印象に間違いはないだろうが、やるとなれば徹底してやるタイプなのか。やはり相手を知ることは大切だ。 「────────」 そう評価を改めてみれば、一つ、重要なことが思い浮かんでくる。シードは咄嗟に懐を探り、それを捨てずに持っていたことに安堵して、取り出した。 少女の名が綴られた白い封筒。この『かくれんぼ』の開始直後、彼に宛てられて衛兵経由で渡されたレンからの手紙だった。あの時は何の意味があるのかわからず仕舞い込んでしまったが────シードはもう一度、その中に収められた便箋を丁寧に読み返す。 『おばけ戦車のびっくり箱はどこにお片付けしたの?』 ……なんのことはない。少女は初めから答えを示していたのだ。思い込みでノイズを混じらせ、遠ざけていたのは自分自身だった。 シードは手早く便箋を封筒に戻すと、踵を返し、ある場所へと向かった。 * * * 水面に反射し、あたりを染める夕日が眩しい。 耳朶に掠める波の音と、混じる船の汽笛の声。ヴァレリア湖に面したグランセルの波止場は、時間帯のためか、港湾関係者以外の姿はあまりない。そんな中、オレンジ色の湖面を背に街灯に寄りかかる少女は、ひどく孤独に見えた。 「……やはり、ここだったんだね」 シードの言葉に、少女は顔を上げる。葡萄酒色の髪、金耀の瞳───シードが捜していた目的の人物、レン。 「あら……意外と遅かったのね、おじさま。もっと早く来てくれると思ったのに」 「すまなかったね。君がこんなに素直だとは思わなかったものだから」 心外ね、と言うように、レンはくすくすと微笑う。 港湾区へ入ってすぐの倉庫前────少女はそこに一人佇んでいた。あの脅迫状事件の終わり、情報部の残党が再決起のために造り上げた巨大戦車≪オルグイユ≫との戦闘があった場所。そして自らがすべてを画策した、≪結社≫の執行者であることを明かした場所。あのメッセージは、この一連のことを示す≪お茶会≫の招待状に他ならなかった。自分の到着を待ちながら、彼女は何を思っていたのだろうか。 「……さぁ、これで『かくれんぼ』はおしまいだ。君はエステル君とヨシュア君のところに戻るといい」 屈み込み、ぽん、と少女の頭に手を乗せるシード。直接触れなければならないのはルールだった。だがそう取り決めたレンこそが微かに驚きの表情を浮かべ、しかしふるふると首を横に振った。 「それはだめ。まだお客様が来てないのに、勝手にお開きには出来ないわ」 「お客様……?」 少女の言葉に、シードは怪訝な表情を浮かべる。その彼の背後から、駆け寄ってくる二つの足音が聞こえてきた。 「───レン……!!」 少女の視線を辿り振り返れば、こちらに向かいまっすぐに走ってくる見知った二つの人影。夕暮れの波止場に長い影を伸ばす少年と少女は、やはりと言うべきか、ヨシュアとエステルの二人だった。 「うふふ……やっとゲストが揃ったわね。 ───ようこそ、レンのお茶会へ。おもてなしは出来ないけれどね」 スカートの端を持ち上げ、ふわりと優雅な仕草で一礼する少女。あの夜を思わせるそれに、シードが何かを返すよりも早く、声を上げたのはエステルだった。 「バカッ!」 一直線に駆け寄ってくるなり、シードには目もくれずエステルはレンの身体を抱きしめる。すぐ後から追い付いたヨシュアは彼に軽く会釈をすると、やはり二人へと視線を向けた。 「も、もうエステルっ……ちょっと苦しいわ」 「知らないわよバカ! ……ッ…………なに、考えてるのよ……!」 エステルの腕の中でもぞもぞと動くレンを、彼女はさらにきつく抱きしめ、絞り出すような声で言う。それに少女は動きを止め────エステルの肩越しに、ゆっくりと瞳を伏せた。 「…………なにって、何かしら」 「決まってるでしょ! ……なんで、こんなことしたのよ……!?」 問い詰める言葉にすぐには答えず、レンは小さく一つ息を吐く。ヨシュアはそんな少女に、持っていた封筒を指し示した。 「エステルに聞いたよ。……これが、前の事件の時に使った『招待状』の手紙なんだね」 いくらヨシュアとは言っても、直接その場に居合わせなかった以上さすがに便箋の形状までは把握していない。それはシードも同様だった。彼の場合『招待状』のことは知っていたが、レンがかくれんぼと称してなぞなぞ形式のメッセージを残していたことまでは聞いていなかったのである。 「私も同じものを貰ったよ。……すまない、最初に会った時に言うべきだったね」 手にしていた封筒を掲げるシードに、いえ、とヨシュアは首を横に振る。レンのことだ、彼がそれを漫ろ事として仕舞い込んでしまうことも見越していたのだろう。 ヨシュアは再びレンへと視線を戻す。少女はそんな彼らに、くすくすと微笑んだ。 「もう……おおげさなんだから、二人とも。別にそんな、深い意味があったわけじゃないのよ? ただ……ちょっとした思い付きよ」 「ちょっとしたって……それで、こんな……!」 ……こんな、自らの傷を抉るようなことを、したのか。 言葉にすることも出来ず、声を詰まらせるエステルに、レンはその腕の中で苦笑する。そして、そっと彼女の背中に、自らも腕を回した。 「だから、それが心配のし過ぎなの。レンが自分でやりたくてやったことなんだから、エステルが気にすることなんかないのに」 「…………ばか」 腕の力を緩め、エステルはゆっくりと首を左右に振る。 「何度も言わせるんじゃないわよ……あたしは、アンタのことを気にしたいんだって、言ったでしょ……」 そうして今度は優しく、まるで壊れ物に触れるかのように、少女の身体を抱きしめた。 ぴくりと、レンの身体が微かに強張る。戸惑うように揺れた瞳が一度だけヨシュアの方へと移り、再び伏せられた。瞼を閉じたレンはエステルの肩に顔を埋め、どこか祈るような声音で、 「……だめなママね。レンは悪いことをしたんだから、ちゃんと叱らないといけないのに……」 そう、消え入りそうに呟くのだった。 ────ああ、つまり。 彼女は、罰を探していたのか。 この街で刻んだ罪の それは決して、自らに痛みを課すことで諦める嘘ではない。向き合い、共に前へ進むことを是とした決意。ただ少女は幼すぎるだけだ。ロレントでの最初の日と同じ───世界の中に自身を置き、そのことを感じるほどに、彼女は戸惑いどうしていいのかわからなくなる。 それでもあの夕暮れの時よりは、ほんの少しだけ、ヨシュアにとっては安心できた。 だって少女は、彼らを頼ってくれたのだ。 あの時すべてを一人で抱え込もうとしていたレンが、ほんの少しだけ────それもひどく遠回しなやり方ではあったけれど、二人の手を必要としている。……『家族』として。 レン自身がそのことを自覚しているのかしていないのかはわからないけれど、今はそれでも充分だった。これから少しずつ、そうやって手を伸ばし合えればいいのだから。 「レン……」 どこか安堵の色を声音に混じらせたヨシュアが、彼女たちの傍らに膝を付きそっとレンの頭を撫でる。驚いて顔を上げた少女に、今度はエステルが、コツンと額を合わせた。 「……アンタって、物分りがいいように見えて、実はけっこう頑固者よね。そういうとこ、やっぱりヨシュアによく似てるわ」 え、と目を見開くレンに、エステルはくすりと笑って続ける。 「だから……安心でしょ? レンにはヨシュアっていうお手本がいるんだから。 もちろん何もかも同じっていうわけにはいかないけど、参考くらいにはなるじゃない。焦らなくても、置いて行ったりしないから……」 言って彼女はヨシュアに向かい、ね?と一つウィンクをする。それに彼は小さく苦笑して、そうだね、と頷いた。 「気持ちはわかるよ、レン。でも、今すぐじゃなくたっていいんだ。まだまだ先は長いんだから───ひとまずは僕の後をついてくるだけでも、考える時間はたくさんあるよ」 「ヨシュア……」 罰はいつか少女を裁く。犯した罪の代償を、彼女に要求するだろう。 そのための贖いを見つけるのは、確かにレン自身に他ならない。傷を受けることも、罪を識ることも避けては通れない道だ。でもだからと言って、道標があってはいけない、などということにはなりはすまい。自ら歩んでいくのなら、誰かの背に倣うのも、一つの選択肢だろう。 そしていずれは彼女自身の道を、見つけなければならないのだから。 「……そうだね。それも、子供の一つの特権だ。自身で考えることはとても大事なことだけれど、だからと言って無理に茨の上を歩く必要はない。指標となる存在が先にいるのなら、素直にそれを受け入れることも大切だよ」 三人からは少し距離を保ったまま、シードもまたその言葉を肯定した。 彼もまた偉大なる師、カシウス=ブライトを目標とする身である。立場や年代は違えど、自己を持つことと道に沿うことは相反するものではないと理解しているつもりだ。 「シード中佐……ありがと」 「……おじさま」 短く感謝の言葉を述べるエステルの陰で、レンはすまなそうに瞳を伏せる。思えばこんな少女の姿は、今まで見たことのないものだった。 かつてこの場所で酷薄な笑みを浮かべ、彼らを睥睨した少女もまたレン自身である。それはどうやっても否定できない事実。だが同様に、今こうして迷いながらも、償いの道を探す少女をどうして否定できるだろう。 「おじさまは……怒らなくていいの? だってレンはおじさまにも、悪いことをしたのに」 躊躇いがちにそう言うレンに、シードはふむ、と思案するように目を閉じた後、 「……咎めるばかりが罰ではないが───そもそも今回、それが必要だとは思わないな。 私は君の『かくれんぼ』に付き合っただけだからね。何も悪いことをされた覚えはないが、違うかな?」 言って、彼らしい苦笑をレンに向ける。しばし少女は唖然としてシードを見つめ、やがて困惑げに顔を伏せた。 「そ……だけど、でも……じゃあ……」 『────仲直りのシルシに、レンと一緒にかくれんぼしましょう?』 あの言葉を、有効だと思っても、いいのだろうか。 声には出さずスカートを握り締めるレンに、シードはああ、と合点がいったふうで頷く。言い出したのは少女の方だろうに、なるほどエステルらが彼女を鍾愛するのもわかる気がするというものだ。 「ふむ。では“仲直り”しようと思っていたのは、私だけだったということかな?」 「そっ……そんなこと……ないけど」 「ならばそれで何の問題もあるまい。私はむしろ、君という人間を知る機会が持てて感謝しているくらいだよ」 エステルやヨシュアが受け入れているから、レンを信用するのではなく。 レンだから信用できるのだという、少女自身が築いた繋がりを示すように。 「レン君。私は 穏やかに告げるシードの言葉に、レンはぽかんとして彼を見返す。その頬が薄っすらと赤くなっているのは、夕日のせいだけではないだろう。 「……っ、お……おじさまも、おおげさね。まぁ別に、レンのことを認めてくれたんなら、いいけど」 急にたどたどしい言葉遣いで視線を泳がせ始める少女に、シードは思わず小さく笑う。それにレンが何か言い返すより早く、少女の身体をぐいと引き寄せたのはエステルだった。 「……ふーん。レンでも照れたりとかするんだー」 「べ、別に照れたりなんてっ……! ……エステル、何むくれてるの?」 「べっつにー。レンがあたし以外の人には甘えるのなんて、今に始まったことじゃないし」 ぷく、と頬を膨らませて、エステルはレンの身体を後ろから抱え込む。どうやら父・カシウスに引き続き、少女が他の大人には年相応の可愛らしさを見せるのが気に食わないらしい。そんな顔であてつけがましいことを言ってしまうあたりがその一因ではあるのだが、まぁ、そうしたところもまたエステルの人好きする部分と言えなくもないか。 「エステル……また焼きもち?」 「もう……エステルってば意外と根に持つ方なのね」 「な、何よ、悪いっ!? だいいちレンがもっと素直なら、あたしだってねー!」 苦笑するヨシュアと腕の中で呆れたため息をつくレンに、むーっと膨れて抗議するエステル。レンへの文句を口にしていながら、がっちり少女の身体を離していないあたりは何とも複雑な親心だ。 「はは……それでは私は、これ以上エステル君に嫉妬されないうちに行かせて貰うよ」 そんな三人の様子に朗らかに笑って、そう告げるシード。それに、エステルは慌てて言葉を付け足す。 「あっ、べ、別に中佐は悪くないんだからねっ!?」 「はは、気にしているわけじゃないよ。ただそろそろ、仕事に戻らないといけないからね」 そもそも彼が今日グランセルを訪れたのは、軍予算に関係する資料を受け取りに来たためであった。それらを揃える時間の猶予も、すでに使い切ってしまっている。 「あ……ありがとう、おじさま。レンに付き合ってくれて」 「いや、私も有意義な時間だったよ。また気が向いたら誘ってくれたまえ」 その時は私も加減なしで行こう、などと微笑んで、シードは軽く手を振り去って行った。 「……うふふ、楽しみね。そうしたらレンも、本気で相手してあげるんだから」 街と埠頭を隔てる塀の向こうへ消える後姿に、くすくすとレンは微笑う。どこまで本気で言っているのかは定かではないが、その声は楽しげだった。口約束にもならないただの思い付きだけれど、それでもそれは少女にとって、自らここに戻るための一つの理由になっただろう。 「───さて。それじゃあ僕たちもそろそろ戻ろうか」 すっ、とその場に立ち上がって、ヨシュアは港をぐるりと見渡した。さすがにこれ以上ここを陣取っていると、港湾区で働く人には迷惑だろう。 「そうね、もうこんな時間だし。今から宿取れるかな?」 今日中にツァイスへ向かうことはもう無理なので、今夜はグランセルで一泊ということになる。観光客が集うような時期ではないが、この時間では部屋が埋まっている可能性もなくはない。 ギルドで雑魚寝は遠慮したいわ、などとぼやきつつ、エステルもまた立ち上がる。当たり前のように、レンの手を引いて。 「……あ……、そうね、床でお休みなんてレディがすることじゃないもの。前に泊まった王都のホテルはなかなか良かったわ」 「≪ローエンバウム≫だね。僕も前にエステルたちと泊まったことがあるけど、著名なホテルみたいだから空いてるかどうかわからないな」 「そうそう、レンと泊まった時も、武術大会の時にヨシュアと泊まった部屋だったのよねー。……あの部屋って人気ないのかな?」 そんなはずはないのだが、エステルの言葉に三人はくすくすと笑い合う。言葉にこそしなかったけれど、きっと気持ちは同じだった。 「あら……いいのエステル、そんなこと言って。本当に“いわくつき”のお部屋だったらどうするのかしら?」 「えッ!? ちょっ……ちょっと何よ、いわくつきって!?」 「……まぁ、古いホテルと言えばそのテの話は付き物だからね」 「だから、そのテの話ってどのテの話よー!?」 半ばわかっていながらきゃーきゃーと騒ぐエステルに、ヨシュアとレンは顔を見合わせ可笑しそうに笑い合う。彼女のホラー嫌いは相変わらずのようだ。 それでも三人の心中には、一つの期待があったから。 あまり現実的とは言えない希望だけれど、どこかで叶うという確信を持った──── 「うふふ……心配することなんてないわよ。だってもう二度も泊まって、何も 「大丈夫だよエステル。知らなければそれだけのことだし」 「もーっ! アンタたち、いい加減にしなさいよー!!」 言い合いながら、彼らはそれでも手を繋いだまま、 ──────そう、今度もまたあの部屋で。 今度は、三人一緒に眠れるように。 |
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