Brightness. #1



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 その日、ティータ・ラッセルは朝から落ち着きがなかった。
 いつもなら絶対にやらないようなミスを連発するばかりか、声を掛けてもなかなか気付かない、正面から壁に激突する、果ては工房内で迷子になるなど惨憺たる有様。外見の印象よりもはるかにしっかり者で要領の良い少女なだけに、その姿は見ている方がハラハラとさせられるものだった。本人も失敗するたびに気を付けようとはしているらしいのだが、しばらくするとまたそわそわと落ち着きを失っていくのである。
 そんなわけで、ティータが本日5枚目の設計図にインク瓶を倒しても、設計士であるプロメテはただため息をついただけだった。ちなみに他4枚の内訳は、インクが乾き切らないうちに定規を乗せてしまったものが2枚、力を入れ過ぎて破いてしまったものが1枚、インクではなくコーヒーをぶちまけたものが1枚である。
「え、えとえと、あの……ご、ごめんなさいっ!!」
 ぺこぺこと何度も頭を下げるティータを、いいですから、と落ち着けるプロメテ。5枚目ともなれば、さすがに腹を立てるというレベルも通り過ぎている。むしろここまで来ると少女の方が心配だ。
「ティータさん、こちらはもういいですから。無理をせず休んで下さい」
「で、でも……」
「今日のティータさんの様子がおかしいのは明らかですから。今はまだ設計図だけで済んでいますが、工具を扱う作業なら小さなミスでも大事故を起こしかねません。そうなれば工房全体の問題になってしまうんです」
 宥めるような口調だが、言っている内容はもっともだった。こんな状態では自分がいてもプロメテの仕事を邪魔するだけだろうし、肩を落として頷くティータ。
「は、はい……」
「では、片付けは私がやっておきます。どうかお大事に」
「はい……」
 落ち込む少女を見るとすまない気持ちにもなるのだが、これ以上プロメテに出来ることもない。とぼとぼと踵を返す少女に気を落とさぬよう伝えた後、倒れたインク瓶を戻し黒く染まった用紙から水分を拭き取る────と。
「あぅっ!?」
 ごちっ。
 プロメテの耳に飛び込んできたのは、目測を誤ったティータが入口横の壁にぶつかる景気のいい音だった。


「うぅ……」
 到着を報せるベルと共に、エレベーターのドアが開く。
 ズキズキと痛む額を押さえつつ、ティータは見るからにがっくりとした様子で外へ出た。
 朝から絶えない失敗の数々。何がそうさせているのかは自分でもよくわかっていたが、わかっていてもどうしようもない。数日前に受け取った手紙は、少女から平静さを奪うには充分すぎる内容だった。
「あ……もうこんな時間なんだ……」
 中央工房一階、受付前の壁にかけられた時計を見る。さっきまで一分一秒がいやに長く感じたのに、肝心な時刻は見逃していた。今からでも間に合うだろうか?
「うん……やっぱり発着場へ行こう」
 少なくともここでうろうろしていても仕方がないし。幸い工房から目的地までは目と鼻の先だ。急げば間に合うかもしれない。
 そう考え、駆け出すティータ───だったが、またしても前方不注意、ちょうど工房へ入ろうとしていた人物と勢いよく正面衝突してしまった。
「きゃっ!?」
「はうぅっ!?」
 反対方向へ突き飛ばされ、たまらず尻餅をつく。今日はつくづくこんなことばかりだ。
 だが扉から現れた人物の姿を見た途端、痛みはどこかに吹っ飛んでしまった。
「び、びっくりしたぁ……って、あれ?」
「ティータ、大丈夫かい?」
 外から差し込む光を背に、入口横の壁に手を付いて身体を支える少女とこちらに手を差し伸べる少年。そして二人の後ろから現れる三人目の人物────

「やぁね、ティータったら。レディはもっと落ち着きがないとダメなのよ?」

 スカートの裾をふわりと翻し、小柄な人影が歩み出る。
 葡萄酒色の髪に金耀の瞳、悪戯っぽい笑顔。かつて目にしたそれと変わらない姿。
 そこに現れた三人こそ、ティータが今朝から気にかけてやまない待ち人だった。

「お、お姉ちゃん、お兄ちゃん……レンちゃぁんっ!!」

 じわ、と瞳の端に涙を浮かべ、弾けるように少女────レンへと抱きつくティータ。その感触も体温も、夢や幻などではない。ティータがただ純粋に、ずっと望んでいた再会の形。
「レンちゃん……よかったよぅ、よかった……!」
「ちょ……ちょっと、苦しいわよティータったら」
 安堵と喜びとその他様々な感情を綯い交ぜにしたような表情でレンを抱きしめるティータに、少女は戸惑いの視線を背後の二人───エステルとヨシュアへと投げる。だがそれに対し、二人はくすくすと───あるいはにやにやと、からかうような笑みを返しただけだった。
「あらら、やっぱりこーなったわね〜。ティータったら、あたしたちは眼中にナシ?」
「まぁ無理もないよ。レンも、もっと素直に喜んだらいいんじゃないかな」
「そ、それとこれとは関係ないでしょ!?」
 無論レンにだって、彼女との再会を喜ぶ想いはある。ただ会えばティータはきっとこんなふうに、何の飾り気もない感情を表すだろうと予想していた。それが何となく気恥ずかしいから、出来る限り何でもないように振る舞ったというのに……どうして自分の周りには、こう心配性な人間が多いのだろう。
「ほら、ティータ……いつまでも泣いてないの。他のひとも見てるわ」
「ぅん……レンちゃん、レンちゃん……!」
 頷きはするものの、ティータはやはりレンの身体を離そうとしない。結局のところ、彼らはティータが納得するまで工房の入口を占領し続けることとなった。



[ p a r e n t s . ]




 エステルとヨシュア、そしてレンの三人がロレントを発つ前、来訪に先んじて彼らはツァイスにいるティータに手紙を送っていた。
 積もる話は会ってから、ということで、内容はひとまず簡潔に。再会したレンを引き取ることになったから、近いうちに会いに行く───というものである。
 それを数日前に受け取ったティータが今日までどれほど悶々とした日を過ごしたかは、推して知るべしというところだろう。「たぶんこの日に着くと思う」などというアバウトな文言と共に添えられた日付ともなれば、それはもう朝からミスを頻発、設計図にインク瓶をクリティカルヒットさせても無理もないというものである。そのあたりをひとしきりティータから訴えられた後、三人はラッセルの自宅へと案内された。

「……じゃあ、ティータの両親は今いないの?」
 差し出されたコーヒーカップを受け取りつつ、エステルはティータに訊き返す。空になったお盆をテーブルの上に置いて、少女はエステルの言葉に頷いた。
「うん。お父さんとお母さんは、この前から共和国の方にお仕事で出掛けちゃって……お姉ちゃんたちに紹介したかったのになぁ」
 対面の席に座りつつ、残念そうに肩を落とすティータ。
 彼女の両親───ダン・ラッセルとエリカ・ラッセルは、≪輝く環オーリオール≫事件ののち帰国した導力技師である。聞くところに寄ればなかなか個性的なパーソナリティの持ち主のようだが、生憎エステル、ヨシュアらとは入れ替わりに戻ってきたようで面識はない。
「確かダン博士は元遊撃士だったらしいね。父さんに棒術の基礎を教えたのも、彼だっていう話だし」
「そう言えばそうだっけ。あー、それは是非とも会ってみたかったわ」
 今は引退したとは言え、あの父が教えを乞うたほどだ。同じく棒術を扱うエステルとしてはそのあたりは気になるところだろう。タイミングの悪さを悔しがる彼女の横で、それまで黙ってココアを啜っていたレンが唐突に口を挟んだ。
「ティータのパパとママも気になるけど。それよりレンは、オンセンっていうのに興味があるわ」
 ことん、とカップを置いて、身を乗り出すレン。ツァイスの南に位置するエルモ温泉は、国内の有名な湯治場だ。東方風の宿というのも、レンにとっては大いに興味を引くようである。
「おっきなお風呂なんでしょう? レンも見てみたいわ」
「あー、いいわねー。せっかくツァイスに来たんだし、みんなで温泉ってのも」
「わぁ……すごく楽しそう。わたしもみんなで行きたいな」
 期待に満ちた三対の目が、残るヨシュアに向けられる。それに思わず嘆息をつき、少年はハイハイ、と肩を竦めて頷いた。
「この状況で僕だけ反対はできないでしょう……でも、一泊だけだからね?」
 まぁ反対する理由も特にはないが、かと言ってそういつまでも遊び呆けるわけにはいかない。彼らには遊撃士としての仕事があるし、ティータとて工房の都合があるだろう。
 しかしそんなヨシュアの懸念をわかっているのかいないのか、きゃっきゃとはしゃぐ少女たち。女三人寄ればかしましいと言うが、……一人でも手を焼くというのに、こうなってはもう彼の手には負えるわけもない。
 ほのかな波乱の予感を含みつつ、四人はさっそくエルモ村≪紅葉亭≫へと向かうことになった。


* * *


 ポンプで汲み上げられる源泉の飛沫が、蒸気を伴い水面に弾ける。
 エルモ村のほぼ中央、井戸状の貯湯槽に駆け寄って、レンは思わず感嘆の声を漏らした。

「へぇ……これがオンセンっていうものなのね! それにこのニオイ……硫黄かしら」

 それほどきついわけではないが、独特の刺激臭が鼻を突く。くんくん、と鼻を鳴らすレンに、ティータはこくりと頷いた。
「うん、エルモ温泉は硫黄泉がベースなんだよ。含有量は少ないから、色とか臭いにはそんなに出てないと思うけど……」
「お湯の中に硫黄が溶けてるの? へぇ……その刺激で血行を促進したり疲労の回復をするのね。面白いわ」
 感想の内容はあまり子供らしくないが、初めて見るものに興味津々といったレンの様子は確かに年相応の無邪気さがある。そんな彼女にティータがあれこれ説明する様は、大人びたレンと子供っぽいティータといういつもの構図とは逆で、ヨシュアは小さく苦笑を浮かべた。
「何だか、レンはいつもよりテンションが高いみたいだね」
 もともと気まぐれで悪戯好きな少女ではあるが、今のように「元気が良い」とまで言えそうな姿は珍しい。ここまで来る道中でも、途切れることなくお喋りを続けていたほどだ。まるで何か張り切っているようにも見える。
「そーねー。久々にティータに会えて、はしゃいでるんじゃない?」
 事情を理解し、なおかつ年近い同性との交流はやはりレンにとっても嬉しいのだろう。仲良くじゃれ合う二人の少女は、さながら二輪の花フラワーズのようだ。かわいいものに目がない先輩遊撃士がいたら、まとめてお持ち帰りにされかねない。
「ほらほらレン。貯湯槽なんか眺めてなくても、すぐに本物の温泉に入れるわよ」
「はぁーい。うふふ、楽しみだわ!」
「一緒に入ろうねレンちゃんっ」
 楽しげに笑い合いながら、三人は向かいの旅館、紅葉亭へと連れ立って歩いていく。
 不自然なことなどどこにもない和やかな光景。それをヨシュアだけが、微かに眉をひそめて見送っていた。





 カウンターで女将であるマオに挨拶し、通された部屋は二階西側の四人部屋───以前にも何度か利用したことのある『柚子の間』だった。
 砂を砕いて塗り固めた白壁に、竹で格子を組んだ間仕切り。彩度の低い色彩でまとめた内装もほのかな木の匂いも、石造りが基本の大陸西部では見られないものだ。決して華美ではないが、かと言って地味でもない。落ち着いた、という表現が、やはりもっとも適切だろう。
「ふぅん、これが東方風の宿なのね。何だか落ち着くカンジで悪くないわ」
 見た目や振る舞いから都会的で高級嗜好と思われがちなレンであるが、意外とこういった素朴なものとも相性が良い。そのあたりは持ち前の順応力の高さゆえだろうか。
「おばあちゃんはもともと東方の出身なんだって。子供のころツァイスに移り住んできたらしいんだけど、この村はそういう東方出身のひとが多いの」
「へぇ……そうなのね。道理でこの村の建物は変わった感じだと思ったわ」
「だからお料理も本格的な東方料理なんだよ。とっても美味しいから、レンちゃんも気に入ってくれると思うな」
 いつぞやかにもエステルたちにした話をレンにも説明するティータに、少女はこくこくと興味深そうに頷きつつ聞いている。その間にエステルとヨシュアは荷物を整理して、貴重品や戦術オーブメントなど手許にあった方がいいものだけをまとめておいた。

「さてとっ、それじゃあさっそくお待ちかねの温泉に行きますか!」

 カバンの口をきゅっと留め、二人に向かってエステルが言う。途端、ぴたりとおしゃべりを止め、ぱっと瞳を輝かせてこちらを振り向くティータとレン。
「うんっ、お姉ちゃん!」
「あら……もうおフロに入るの? 普通、お休みする前に入るものじゃないのかしら」
 楽しみで仕方ないのをまったく隠せていないながらに、そう訊ねるレンをエステルは「甘いわね」と言わんばかりの得意げな笑みで見遣る。いわゆる「待ってました」というやつだ。
「ちっちっちっ。いいことレン、せっかくの温泉なのよ? 朝から晩まで一日中、何度も入るのが普通なんだから」
 ……見事にマオの受け売りである。
 それを知っているヨシュアとティータは苦笑を浮かべ、その空気を何となく察したレンも白い目で彼女を見る。期待していた反応が得られず、むぅ、と小さく呻くエステル。
「な、何よその呆れたよーな目は……」
「……別にいいけど。
 まぁ、そういうことならさっそく堪能させてもらおうかしら」
「えへへ……でも本当に、何回も入りたくなるくらい気持ちいいんだよ」
 言いながら、三人は備え付けのタオルを手に取る。しかしヨシュアはエステルから差し出されたそれを受け取らないで、軽く首を横に振った。
「僕は後で入らせてもらうよ。みんなは先に楽しんでおいで」
「え……、ヨシュアどうかしたの?」
 てっきり一緒に行くものだと思っていたエステルは、少年の辞退にぱちくりと目を瞬かせる。それにヨシュアは、ごめん、と小さく謝って、
「ちょっと用意しておきたいものがあるんだ。外まで買い物に行って来るよ」
 村の入口付近にある土産屋の≪葉月≫は、村唯一の商店ということもあって食品や薬、生活用品なども扱っている。品揃えはさして良いとも言えないが、ヨシュアの用件を済ませるには充分だった。
「ヨシュアったら、そんなの帰る時でもいいじゃない。せっかく一緒だと思ったのに……」
 タオルを抱え、不満げな瞳でヨシュアを見上げるレン。苦笑を浮かべて、彼はそっと少女の頭を撫でた。
「しっかり温まっておいで、レン。湯冷めしたりしないようにね」
 言葉だけ聞けばどうということもないが、会話の流れとしては些か不自然な台詞。しかしレンにとってはそれで納得に足るものがあったのか、口を噤んで微かに俯いてしまった。
「まぁ、そう言うんだったら仕方ないわね〜……じゃあヨシュア、あたしたちは先に行ってるからね? ティータ、レン、行きましょ」
「うん、お姉ちゃん。お兄ちゃん、また後でね」
「……えぇ」
 エステルに続きティータ、レンと連れ立って部屋から出て行く。それを見送った後、ヨシュアもまたポケットに財布と部屋の鍵をしまい、一人≪葉月≫へと向かうのだった。





 紅葉亭の離れに造られた大浴場は、手前が男湯、奥が女湯となっている。
 脱衣を終えてタオルを巻いた三人は、まずは白く煙る屋内浴場へと入っていった。

「わぁ、本当に広いのね! レン、こんなに大きなおフロは初めてだわ」

 広々とした檜の湯船に、無色透明の湯が張られている。シーズン外のためか浴室に人影はなかった。そう言えば客室もほとんど空いていたようだったし、ほぼ貸し切りで使用できるということである。
「レンちゃん、先に身体を洗わないとダメだよ」
 壁際に並んだ蛇口を捻りながらティータが言う。湯が桶に注がれる水音と、少女の声が浴室内に反響した。
「……けっこう熱いのね」
 ティータの横に座り、同じように蛇口から出したお湯にレンは思わず手を引っ込める。こうした場所では水で調節できるよう多少熱めに出るものなのだ。
「何言ってるのよレン、熱いくらいがいいんじゃない」
「……エステル、なんだかオジサンくさいわ。……って、どうしてそこにいるの?」
 てっきり隣に来るものだと思っていた彼女が、いつの間にかレンの背後についている。きょとんとして振り向く少女に、エステルはにんまり笑みを浮かべ、
「ふっふっふ。せっかくだし、レンの背中でも流してあげようかなーと」
「え、えぇっ!?」
 言うが早いか、エステルは桶に溜めた湯をレンの身体に流しかけた。いきなりの熱湯にびくんと身体を仰け反らせるレン。
「きゃっ……! ちょ、ちょっとエステル、そんなことしなくていいわよ! 身体くらい一人で洗えるわ!」
「まぁまぁ、遠慮しない♪ 文字通りのスキンシップってやつよ」
 手早くスポンジを泡立て、有無を言わせずレンの身体を洗い始めるエステル。くすぐったさに眉をしかめるレンを、ティータはくすくすと笑って微笑ましそうに言う。
「いいなぁお姉ちゃん。わたしもレンちゃんを洗ってあげたいな」
「ティータまでおかしなこと言わないで! もう……何を考えてるんだか」
 抵抗は無駄だと諦めたのか、軽く嘆息をついてレンは前へと向き直る。
「フフン、ようやく観念したわね。隅から隅までじっくり洗ってあげるんだから」
「はぁ……もう好きにしたらいいわ」
 軽く眩暈を覚えつつ、もうどうにでもして、とばかりに身を任せるレン。それに対して、そうそうやっぱり子供は素直が一番、などと満足げに呟きつつ、エステルはスポンジを少女の肌に滑らせていく。とは言えもちろん可能な限り丁寧に。むしろ自分の身体を洗う時より気を遣っているくらいだ。
「レンちゃんって、すごく肌白いよね。いいなぁ」
「な、何よティータまで……」
「そうそう、スベスベのぷにぷにだしね〜。まぁそのあたりはティータもだけど」
「きゃぁぁ!? つ、つっつかないでエステル!!」
 ふにふに、と二の腕あたりを突付いてくるエステルに、思わずレンは身を捩じらせる。他に人がいなくて良かった、などと内心思いつつも、にこにことそれを見守るティータ。
「くすくす……羨ましいな。わたし、工具とか使ったりするからけっこうマメとか出来ちゃうもん」
 とは言っても彼女から工具を取り上げたりしたら、うっかり死んでしまいそうな気さえするのだが。
 同じく自ら志願したことではあるものの、生傷の耐えない職業柄のエステルがうんうん、と頷く。
「あたしも日中ずっと外、とか多いわねー。そこへ行くとレンってわりとアウトドア派のくせに、あんまり焼けないわよね。何か特別なことでもしてるわけ?」
「別に何もしてないわよ……それにレンは、エステルたちの方が羨ましいわ」
「え?」
 はぁ、と小さく嘆息をつくレンに、エステルは思わず手を止める。少女の言葉にと言うよりも、あることに気が付いて。
「恋をすると女の子はキレイになるっていうものね。うふふ……二人とも素敵な想い人がいて羨ましいわ」
「え、えとえと……わ、わたしはそのっ……もうレンちゃん、アガットさんはそんなのじゃなくてね……!」
「あら、レンは一言もあの赤毛のお兄さんのことなんて言ってないわよ?」
「……ぁ、あぅぅ……レンちゃぁん……」
 湯の熱さとは無関係のところで真っ赤になるティータに、クスクスと悪戯っぽく笑うレン。まったく変わらぬ二人の間で、エステルだけが言葉を失っている。
 一度気付いてしまった以上、もはや気にせずにいることは不可能だった。レンの白い肌に微かに残る、……その、傷痕に。
 お湯の熱で浮かんできてしまったものなのか、ぱっと見ただけではまずわからない。けれどよく目を凝らせば、同じような傷がそこかしこに見て取れた。薄っすらと刻まれた十字の印────……

「……エステル? どうかしたのかしら?」

 怪訝そうな表情で振り返るレン。
 本人にも自覚のない痕なのか、エステルが気付いたことをわかっていないのか、それともあえて無視しているのか。いずれとも判断しかねる以上、当人に訊ねることは出来まい。
「な、何でもないわ。……さてと、そろそろ流してもいいかしらね」
 上手く切り替えられたかは微妙なラインだったが、エステルは極力なんでもないように装ってレンの身体に湯をかける。
 ……相当古い傷のようだった。それが未だに残っているということは、それだけ深く刻まれたのか、あるいはまともな治療を施さなかったのか。後者だとすれば≪結社≫にいる間に付けられたものとは考え難い。いや、仮に前者であったとしても、≪結社≫ほどの技術を持つ組織なら跡形もなく治療することが出来たはずだ。だとすれば、………………
「はぁ、ようやく解放されたわ。まったくもう、レンの身体なんて洗って何が楽しいのかしら」
 解れ毛を耳にかけながらため息を漏らすレンに、ティータはタオルを巻き直しながらくすくすと笑う。どうやら彼女はレンの傷痕には気付いていないようだった。
 事実、それほどまでに薄いものだ。レン本人にも自覚はないものかもしれない。そう、二の腕に微かに残っていた注射痕にだって。

 ……意味なんてわからない。
 それがどんな経緯で刻まれたものかなんて、想像することも出来ない。
 だけど──────

『それにレンは、エステルたちの方が羨ましいわ』

 ようやく本命の温泉ね、と意気込むレンの背中を見つめ、エステルは小さくかぶりを振った。


* * *


 夜。夕食を終えた後もテーブルに残ってティータとお喋りしていたレンを、ヨシュアは呼び止めた。
「? なぁに、ヨシュア」
 少女はますます機嫌がいい。と言うか、輪をかけてテンションが上がっているようだった。普段はどちらかと言うとすました態度の少女なだけに、こう明らかにはしゃいだ姿というのは珍しい。
「ちょっといいかな。すぐ終わると思うから」
 言ってヨシュアはテーブルから少し離れたところにレンを招き寄せると、その手の中に何かを素早く握らせた。人目には触れないように。
「ヨシュア、これ……」
「無理はしちゃダメだよ、レン。つらくなったらすぐに言うんだ」
「…………あ……」
 おそらく、夕方に温泉へ入ったとき買いに行っていたものだ。……気付かせまいと振る舞っていたが、やはり彼にだけは隠し事は出来ない。
「……ありがとう。エステルには……?」
「レンが隠すつもりでいるようだから、まだ。隠し通せるならこのまま言わないよ」
 聞くまでもないことだった。もしすでに知られていたなら、あのお節介焼きのエステルのこと。あれこれと煩いくらいに世話を焼こうとしたに決まっている。
 そんな想像も、ヨシュアの心遣いも嬉しくないわけがない。思わず気が緩みそうになるのを、レンは辛うじて耐えた。
「ええ……ごめんなさいヨシュア。これ、使わせてもらうわ」
 手の中のものを握り締めると、かさりと小さく音がする。
 無理がしたいわけじゃない。やっぱり今日は、早めに休むようティータにもお願いした方がいいかもしれない────

「レンにヨシュア、こんなところで何してるの?」

 と、そこにやって来たのはエステルだった。
 さきほどまでマオと話をしていたはずだが、切り上げて戻ってきたところらしい。
「何でもないわ。あとで一緒にお風呂に入りましょうってお話してただけよ」
「あ……そうなんだ」
 さっと手を後ろに回すレンに、エステルは抑揚のない言葉を返す。
 いつもならもっとあからさまに反応してもいいような台詞だ。温泉から戻って来て以来、エステルも時折こんなふうにぼんやりしていることがあった。
 しかし、それに違和感を持ったのはヨシュアだけだ。今のレンにはそこまで気にしている余裕はない。
「レンちゃーん、どうしたのー?」
「ごめんなさいティータ、もう少し待ってて。レン、喉が渇いちゃったからお水を貰ってくるわね」
 テーブルから声をかけるティータに手を振って答えて、少女は厨房の方へと駆け出す。だが────

「──────あ、れ……」

 ふっと意識が暗くなる。
 平衡感覚が消失し、何か揺れ動くものの上に立っているみたいだ。
 ……頭が痛い。今まで我慢していたのに、寒気が波のように力を奪っていく。

『レン……!?』

 遠のくエステルとヨシュアの声を聴きながら、レンは吸い込まれるように、床の上へと倒れ込んだ。






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