Brightness. #2
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2/ 冷たい水で絞ったタオルを、少女の額にそっと乗せる。 眠る顔は決して安らかなものではない。呼吸は荒く、ときおり苦しそうに喘ぎを漏らす。それでもエステルに出来るのは、傍らについてタオルを替え、たまに汗を拭ってやるくらいのことだった。 ────紅葉亭でレンが倒れてから、明けて翌日。 エステル・ヨシュア・ティータの三人は、意識を失ったレンと共に朝一番でツァイスへと引き返した。 向かった先は中央工房の医務室。出社してきたミリアムの診察結果は、風邪、というものだった。 ただし非常に熱が高く、また体力も低下している。おかしな病気を拾ってしまう可能性もあるという。それでなくとも倒れるほど悪化しているのだから、単なる風邪と笑って済ませられるような状況ではない。どうしてこんなになるまで放っておいたのかと詰問するミリアムに、頭を下げたのはヨシュアだった。 彼はレンの異常に気付いていながら、素人判断で楽観視した、責任はぼくにあると述べたのだ。だが────…… 「………………あたしの、せいだ…………」 絞り出すような声音で呟き、エステルはレンの額に手を添える。 ……熱い。今は薬で寝付いてはいるが、こんなにも高い熱があって苦しくないはずがない。 少女の様子がおかしいことに、ヨシュアは気付いていたという。事実レンが倒れた時、手から零れたカプセル状の風邪薬は、彼が買ってきたものらしい。……じゃあ、自分は? わざと元気に振る舞うことで体調の悪さを誤魔化そうとするレンに、何の疑問も抱かず接していた。浮かれるばかりで少女の不調に気付けなかった。 「そんなの……失格じゃない……」 ───何の? 起きてしまったことをいくら悔やんでもどうしようもない。だけど少しでもレンのために何かしたくて、こうして看病を申し出た。少女の顔に浮かぶ玉の汗を拭って、エステルは時計を見上げる。 時刻はすでに昼を回ろうとしていた。だが、薬が効いているためかレンに起きる気配は無い。苦しげに呼吸を繰り返しながら、悪い夢にうなされている。 「……はぁ、……はぁ、はぁ………………ゃだ……もう……やだぁ……」 弱々しく懇願する声音。苦しみが呼び覚ました記憶なのか。与えられない許しを乞う言葉が、咎無き謝罪が、幾度となく震える唇から零れ落ちる。 「……て、くださ…………、もうしませ……も、しませんっ……、……ぅく、はぁ、っ…………ぃたい、ごめんなさい、ごめんな、さ────」 ───塞げるものなら、耳を塞いでしまいたかった。 唇を噛むエステルの脳裏に、少女の白い肌に残る無数の傷痕が蘇る。それがどんな地獄かなんて想像することも出来ない。 ……こんなにもうなされているなら、起こした方がいいのだろうか。レンだって、少し食事をした方がいい。だけど。 「………………たすけて……たすけてよぅ、パパ………………ママぁ…………」 だけどっ────……! 「エステル、いる? そろそろ交替しよう」 その時、こんこん、というノックの音と共に、医務室を訪れたのはヨシュアだった。 手には軽めの、消化しやすいような食事。エステルとレン、二人分の昼食である。食欲は無いかもしれないが、それでも食べなければ体力が保たない。 「…………あ……ヨシュ、ア……」 「エステル!? どうかした?」 青い顔をしたパートナーに、慌てて駆け寄るヨシュア。だが彼女は小さく首を横に振って、座っていた椅子をヨシュアに譲る。 「……何でもないの。ヨシュア、レンをお願い……」 何でもないようには見えない足取りで、エステルは席を立つ。そのままふらりと部屋を出て行こうとする彼女の腕を、ヨシュアは慌てて掴んだ。 「とても何でもないようには見えないよ。 エステルも休んだ方がいい。君まで無理をして倒れたりしたら、元も子もないんだから」 「うん……わかってる。これから休むから、心配しないで」 そうは言うものの、彼女の表情は沈んだままだ。いつもの明るさの消えた顔を見て、心配するな、と言う方が無理な相談だろう。 思えば昨夜レンが倒れてから、エステルはずっとこんなふうに思い詰めた表情を浮かべていた。最初はレンが倒れたショックからだと思っていたが、どうもそればかりではないらしい。昨晩からずっと看病をしていて疲れも出ているだろうに、こんな調子では心身ともに参ってしまうだろう。 ……こんなことなら、やはりレンを言い含めて病状を明かすべきだった。これではどちらもが苦しむ結果にしかならない。完全な判断ミスだ…… 「……とにかく、あまり思い詰めないで。 今ティータが教区長さんに薬を貰いに行ってるから、一緒に昼食を摂ったらいいよ」 エステルの分の昼食を手渡し、ヨシュアはレンの様子を見遣る。寝付いてはいるものの、その表情は苦しげだ。悪い夢でも見ているのだろうか。 「……そろそろ、レンも起こした方がいいかな。何か食べさせないと」 「……っ……!」 ヨシュアがそう言った瞬間、エステルの身体が僅かに強張る。それに彼が気付き、何か言うよりも早く。 「じゃ……じゃあ、あたしはちょっと休ませてもらうわ。ヨシュア、ありがと……ごめんね」 「え……、エステル?」 言うが早いか、踵を返してエステルは医務室を後にする。 後ろ手にドアを閉めて、足早に駆け去っていくエステル。逃げたところでどうにもなりはしないというのに、……レンが目を覚ます、ただそれだけのことが、今はたまらなく怖い。 もしも───もしも今起こして、少女が目を開き自分を見た時────はじめに口にする言葉が。 ────────ちがう、と。 もしもそう言われたら……あたしはいったい、どうすればいいんだろう……? / 「…………ん……」 軽く身体を揺すられる感覚に、泥の底のような眠りからレンはゆっくりと目を覚ました。 寝覚めは最悪。身体は節々が痛んでだるいし、頭痛で目の前がぐらぐらする。何よりひどく、古い夢を見ていた気がした。 「……レン、起きた? 気分はどう?」 「ヨシュア……」 視界が定まってくると、まず目に映ったのは自分を覗き込むヨシュアの顔だった。続いて周囲の状況を認識していくにつれ、徐々に自分がどうなったのかも思い出してくる。 「…………そう、だったわね……レン、たおれちゃったんだわ」 ぼんやりと脳裏に蘇る、昨夜からの記憶。そのほとんどは途切れ途切れで虚ろなものだが、朝頃に中央工房の医務室に運び込まれたのは覚えている。そのあと薬を打ってもらい、今までずっと眠っていたというわけか。 ……なんて失態。体調のコントロールくらい出来ているつもりだったのに、まさか倒れるほど弱っていたとは思いもしなかった。 ツァイスへ来た時から何となく調子が悪いな、とは思っていたが……たかが風邪だと思って油断したかもしれない。以前だったらこの程度の不調で、ダウンすることなんてなかったのに…… 「……最悪ね。無理してるつもりなんて……なかったんだけれど」 痛む節をこらえて起き上がる。額に乗せられていた濡れタオルが、ぽとりとシーツの上に落ちた。 「大丈夫? つらいなら横になっていた方がいいよ」 「横になってたってつらいもの……おんなじことよ。それに、そんなカッコウでごはんを食べるなんてレディのすることじゃないわ」 レンの声音はまだ弱々しいままだったが、どうやら意識の方は随分とはっきりしてきたようだった。サイドテーブルの上に置かれた食事に気付き、少女は緩慢な動作で手を伸ばす。 「……そうだね、少し無理をしてでも栄養は摂った方がいい。後でティータが薬を持ってくるはずだから」 「そう……、ありがとう。エステルは?」 結局ヨシュアに取ってもらい、食器を受け取りつつレンは訊ねる。時計を見ると、時刻はすでに正午を過ぎていた。 「さっきまで看病をしていたよ。今は僕と交替して、昼食を取ってると思う」 「…………そうなの」 さじで掬った玉子のおじやに息を吹きかけ冷ましてから、もく、と口の中へ運ぶ。正直に言えば食欲はないし、口の中もまずいので味の良し悪しはわからない。とは言え食べねば体力が保たないし、残すのも失礼なのでちまちまと口へ運んでいく。 「ねぇ、ヨシュア……エステル、どうだったかしら」 「どうって?」 「その……やっぱり、心配してたわよね」 おそらくレンにとって、それこそがもっとも気がかりなことだったのだろう。気まずそうな表情で、彼女は小鍋の中の玉子をかき混ぜる。 どう伝えたものか、ヨシュアはしばし黙考する。ありのままに喋ってもいいが、少女はその実臆病で繊細だ。下手なことを言っては傷付けてしまうし、かと言って迂遠に過ぎても頭のいい彼女のこと、余計なことまで思考を巡らし要らぬ重石を背負い込みかねない。 「……それは、もちろん。 レンだって、もし僕やエステルが病気になったら同じように心配するんじゃないかな。だからそのこと自体は、レンが気に病むようなものじゃない」 「……………………」 そのこと つまりレンが考えなければならないことは、心配をかけたことではなく、もっと他にあるということ。 戸惑う彼女を安心させるように、ヨシュアは穏やかに微笑んでその髪を撫でる。乱れた前髪を軽く整えてやると、レンはくすぐったそうに目を細めた。 「とりあえず、今は第一に身体を治すこと。不調の時は何事も悪い方に取りがちだから、あまり考え過ぎないように」 言って彼はシーツの上の濡れタオルを拾うと、洗面器に張られた冷水に浸す。ぼんやりとそれを眺めながら、遅いペースでの食事を再開するレン。 ヨシュアは今は気にしないでいいと言ってくれるけれど、この状況でそのことを気にするなと言われても難しかった。ただでさえ痛む頭が、さらにモヤモヤと霞みがかる。……いっそまた眠ってしまえば、何も考えなくていいのだろうか。 ────そう言えば。 深い水底の悪夢の中、誰かの声を聴いた気がした。 * * * 遠い碧空に薄く広がるうろこ雲。 まるで水面のようにも見えるそれを見上げ、エステルは一つため息をついた。 「……はぁ……」 中央工房の屋上で、膝の上に乗せた昼食をもそもそと消化しつつ、物思いに耽る。漠然とした感情の行き来は、およそ思考と呼べるようなものではなかった。何を考えるべきなのかも定まらないまま、宛所のない気持ちだけが、ため息となって空に落ちていく。 ……原因は言うまでもない。無理をして倒れたレン、それに気付けなかった自分、彼女の心にも身体にも傷を残す記憶、そして────少女の両親のこと。 わかってはいたことだった。いや、わかるわからない以前に、前提条件として受け止めるべきことのはずだった。レンにとっての『父と母』は、……今でも、あの二人であることを。偽者だと断じながら、それでも消し去るなんて出来ないことを。 簡単に消し去ってしまえるような想いなら、そもそもレンはあれほどに追い詰められはしなかったのだ。だから、そんなことはわかっていて────その上で受け止めてみせるつもりだったのに。 ……いや、もちろん今でも、エステルはそのつもりでいる。ただ、少しわからなくなってしまっているだけだ。 レンが何を求めていて、そして、自分自身が何を望んでいるのかということを────…… 「お姉ちゃん、こんなところにいたんだ」 がちゃりと屋上の扉が開き、顔を覗かせたのはティータだった。 帽子から伸びた二本の飾りを揺らしながら、少女はとことことエステルの方に駆け寄ってくる。そしてエステルの横にちょこんと座り込み、 「えへへ……、わたしもここでごはん食べてもいい?」 言ってにこにこと笑顔を向けるティータ。気持ちの沈んでいたエステルにとって、その笑顔は何となくほっとするものがある。 「モチのロンよ。ティータだったら大歓迎だわ」 「ありがとう、お姉ちゃんっ」 屈託のない笑みを浮かべ、ティータは手にしていた雑貨屋の紙袋からサンドイッチを取り出した。それをぱくりと噛り付きつつ、じっとエステルの顔を見る。 「な……、何、ティータ?」 「ううん……お姉ちゃん、だいじょうぶかなぁって」 心配げな瞳を向ける少女に、エステルの肩が小さく揺れる。一瞬だけ口ごもった後、彼女はあはは、と苦笑いを浮かべた。 「何言ってるのよティータ、あたしは大丈夫に決まってるでしょ。大変なのはレンの方じゃない」 「それはそうだけど……」 「それよりもレンの様子はどうだった? 薬、貰って来てくれたのよね」 食事を再開しつつ訊ねるエステルに、こくん、と一つ首を縦に振るティータ。大崩壊以来1000年にも及ぶ七耀教会の伝統医療は、特に内科の分野において圧倒的な蓄積を有する。ピクセン教区長が処方した薬なら、レンの症状にもよく効くことだろう。 「わたしが見に行った時は、まだレンちゃんもごはんを食べてるところだったよ。調子は悪そうだったけど、意識ははっきりしてたみたい。お兄ちゃんは、薬を飲ませたらもうしばらく寝かせるって言ってた」 「…………レン、起きてたんだ」 ティータの説明に、エステルは思わずぽつりと零した。 あの後ヨシュアが起こしたのか、それともレンが目を覚ましたのか。どちらにせよ気が付いたなら、もうあの悪夢にはうなされていないということだ。都合良く安堵する自分を、エステルは自嘲する。起こすことも出来ずに逃げ出したくせに? 「お姉ちゃん、レンちゃんが起きてたこと知らなかったの?」 「あ……、う、うん。あたしがヨシュアと交替した時は、レンはまだ眠ってたから……」 曖昧に答えるエステルに、ティータはそうなんだ、と頷きながらサンドイッチを口の中に押し込む。 「それじゃあ、ごはんが終わったらレンちゃんに会いに行ってあげてね。レンちゃんもお姉ちゃんの顔を見たら安心すると思うよ」 ね?と、何でもないことのように賛成を求めるティータ。 ……実際、そんなのは本当に何でもないことだったはずなのだ。エステルだってレンの顔を見たい気持ちはある。まだ調子が悪いとは言え頭ははっきりしているらしいし、心配しないようにちゃんと言葉をかけてあげたい。気が付いてあげられなくてごめんね、ゆっくり休んで早く治しなさい────そう言うだけでいいのに。 「レンは……あたしなんかで、安心するのかな」 そんなふうに、余計なことを考えてしまう。 彼女が気にしていたら、きっとレンだって黙っていたことを気まずく思ってしまうだろう。わかっているのに、気持ちの整理が上手くいかない。 「お姉ちゃん? なに言ってるの……?」 「だって、あたしはレンが風邪をこじらせてたことに気が付けないくらい頼りなくて……あたしがそばにいてもまた、レンに気を遣わせちゃうかもしれない」 「ち、違うよ!!」 自嘲気味に呟くエステルを、ティータはぶんぶんと首を横に振って否定した。 「レンちゃんが体調悪いことをお姉ちゃんに話さなかったのは、そういうのじゃないよ……! ただ……きっと、レンちゃんは怖かったんだと思うの」 ぽつりとそう呟くティータに、思わずエステルは驚きの表情を浮かべる。だってその“怖い”という感情は、あの時エステルも抱いたものだったから。レンが目を覚ましたとき、自分を見て何て言うのかと。 「レンが……怖い?」 「……うん。迷惑を掛けたら、お姉ちゃんたちに嫌われちゃうんじゃないかって……怖かったんじゃないかな…… 信用してないって言えば、してないよね。そんなわけないって頭ではわかってても、不安が拭えないんだと思うの。……子供の頃って、そういうことあるから……」 言って寂しげに笑う少女も、かつてそんな不安を抱いたことがあったのかもしれない。導力技師であるティータの父母は、彼女がまだ小さい頃から長く不在であることが多かったはずだ。ティータだって最初から、そんな両親を立派だと割り切れていたわけではないだろう。 ────お父さんとお母さんが家に帰って来ないのは、自分が悪い子だったから? わたしのことが嫌いだから? 父母と会えない寂しさがそんな不安を育んでしまうのは、無理からぬことだった。 「お姉ちゃんは……レンちゃんのこと、嫌いになんかなってないよね?」 「あ、当たり前じゃない!! あたしがレンのことを嫌いになるなんて、これから先も絶対にありえない!」 声を大にして断言するエステル。それだけは、何があろうと間違いないことだった。 決して今だけのものじゃない。自ら言葉にした通り、この先どんなことがあっても変わらない 「だって、レンはあたしの家族だもの。……少なくとも、あたしはそう思ってる」 その言葉に、けれどティータは僅かに眉をひそめた。少女は何かを言い淀んだ後、やがて小さく首を振って、エステルへと視線を戻す。 「……レンちゃんだって、お姉ちゃんたちのことが大好きだよ。それだけは絶対に忘れないでね」 「ん……、そうよね。ありがと、ティータ」 じっと彼女を見据えて訴えかけるティータに、エステルの表情がようやく和らぐ。 自分はレンが好きで、レンも自分たちのことを好きだと思っていてくれるなら。『家族』だと……思ってくれているのなら。例えまだそのカタチを信じ切ることが出来ないのだとしても、嬉しかった。 それを信じさせるのは自分の役目だ。家族になりたいと言ったのは、幸せにしてみせると誓ったのは、自分自身なのだから。 「……………………」 ……ただ、小さな違和感はあった。 レンの求める『パパとママ』が、自分の思う『家族』とは別物なのではないか───いつか脳裏に浮かんだ考えは、ここに至って確信を得つつある。けれどそれがどう違うのかは、未だに判然としないままだった。 つまり自分は気持ちばかりが先行して、レンに対する理解が足りないということで。少女の抱えたものをもっとわかってあげることが出来れば、この違和感を解消することも不調を見逃すようなことも────あんな、傷だらけのレンを見てどうしていいかわからなくなるなんて、不甲斐ない真似をすることもない……、はず………… 「…………えぇいっ!! 悩んでても仕方ないっ!」 ぱちんっ、と自らの両頬を叩いて、気合を入れ直すエステル。 どちらにせよ結局は、レンに会わなければならないことに変わりはない。今でも迷いが拭い切れたわけではないけれど、看病のこともあるし、何よりやっぱり会って言葉を交わしたいという想いが強かった。 「お、お姉ちゃん?」 「うん、あたしはあたしなりにやっていくしかないし。当たって砕けろよねティータ!」 「く、砕けちゃうのはちょっと困るけど……」 あはは、と苦笑を浮かべながら、ティータはサンドイッチを一口齧る。それをはむはむと咀嚼した後、少女はエステルに視線を戻し、小さくにこりと微笑んだ。 「でも、レンちゃんだってきっとお姉ちゃんに会いたいって思ってるよ。 ぎくしゃくしちゃうこともあるかもしれないけど……それは大好きだから、いっしょにいたいからっていう気持ちがあるからこそだよね?」 ……と、そこまで言った後で言葉を切り、ティータは照れたような苦笑を浮かべ、 「な、なんて……こんなこと、わたしが言っても大きなお世話かなぁ?」 「ううん、全然そんなことないわよ。むしろすごく励ましてもらってる。 姉貴分としては情けないけど……やっぱり、ティータってほんっとーにいい子だわ」 言ってようやく明るい笑みを見せ、エステルは隣に座る妹分を抱きしめる。ふわふわの金髪をよしよしと撫でると、ティータはえへへ、と、嬉しいような恥ずかしいような表情で笑った。 「お、お姉ちゃんてば〜……」 砂糖菓子のような甘い匂いと柔らかいぬくもりをひとしきり堪能してから、ようやく彼女を解放するエステル。そして食べ終わった昼食のゴミをささっとまとめると、膝を支えに立ち上がる。 「よしっ、それじゃあたしはお先に失礼するわ。……いろいろありがと、ティータ」 「ううん、どういたしまして。レンちゃん、早くよくなるといいね」 微笑むティータにウインクで答えて、エステルは纏めたゴミを片手に屋上の扉へと向かう。 長いツインテールがエレベーターのドアの向こうに消えた後、……ティータはそっと呟いた。 「……大丈夫だよね? お姉ちゃん…………」 * * * 結局、エステルが医務室に戻った時にはすでにレンは薬を飲んで寝ついた後だった。 気合が空振りになったエステルは少々拍子抜けしてしまったが、レンの寝顔は午前中に見たものよりかはいくらか穏やかになっている。それに少しだけほっとして、もうしばらくだけ休憩した後、彼女はヨシュアと看病を交替することになった。 そうして日も落ちた頃───ようやくレンは目を覚ましたのである。 「あっ……目が覚めた?」 数度の瞬きの後ぼんやりと目蓋を開けた少女に、エステルは出来る限り優しく微笑みかける。 どうもレンが倒れてしまったことを気にしているらしい、という話はヨシュアから聞いていた。エステルとしてはむしろ自分の方がレンに無理をさせてしまったと思っているくらいなのだが、ティータが言っていたことやレンの事情を考えれば、少女がそんなふうに思い詰めてしまったとしても否定は出来ない。 だからレンが安心できるように、かつ精一杯自然体で声をかけたつもりだ。上手く出来たかどうかはいまいち定かではないが、エステルの声を聴くなり、レンは跳ねるように飛び起きた。 「………………エステル」 「おはよー……って時間帯でもないわね。調子はどう? 顔色はだいぶ良くなったみたいだけど……」 言いつつ彼女は、レンと自分の額にそれぞれ手を当てる。まだ多少は熱いようだが、朝のそれに比べればずいぶんといい方だ。これならあと一晩も休めば、高くとも微熱程度まで下がるだろう。 「え、えぇ……、体調は悪くないと思うわ……」 戸惑いがちに答えるレン。実際、眩暈のような気持ち悪さも治まっているし、意識もはっきりとしたものだ。倦怠感は残っているが、それでも昼の時よりはずっと楽になっている。しかし受け答えのぎこちなさは、昼にヨシュアと話した時よりさらに増していた。 「そっか、良かった……何か欲しいものかある? 果物でも切ろっか?」 「け、結構よ。欲しいものなんて、別にないわ」 そう?と聞き返しながら、エステルはサイドテーブルの果物かごに伸ばしかけていた手を引っ込める。 途切れる会話。そのまましばし、何とも言えない沈黙が落ちた。互いに相手の様子を伺いながら、言葉を探るような間の後────根負けしたように口を開いたのは、エステルの方だった。 「その……ごめんっ、レン!」 がば、と勢い良く頭を下げる彼女に、レンはぱちくりと目を瞬かせる。なぜ謝られたのか理由が掴めずにいる少女に、エステルは下を向いたまま言葉を続けた。 「レンが風邪引いてることにも気付かないで、一人ではしゃいで……あたしがちゃんと気を配ってれば……」 「えっ……、な、何を言ってるのよエステル。そんなの、別にエステルのせいじゃないでしょう? 自分の体調もコントロール出来ないで、レンが勝手に倒れただけだもの。エステルが謝るようなことじゃないわ」 ベッドから身を乗り出し、レンはエステルの顔を覗き込む。そしていつものように悪戯っぽく微笑んで、 「それに、そういうのはエステルには似合わないもの。エステルはいつも通り、ちょっとお間抜けさんなくらい能天気でいてくれた方がいいわ」 「ちょ、アンタねぇ!」 ひとが殊勝にしているところだと言うのにこのこあくまは。くすくすと笑う少女に、エステルは頬を膨らませてジト目を向ける。……しかし、ふと何かに思い至ったかのように眉をひそめた。 「ん……、あれ?」 「あら、どうかしたのかしらエステル。また突拍子もないことでも思い付いたの?」 「アンタはあたしを何だと思ってるのよ……」 もともと口の減らないところのある娘だが、何だか今日はやけに混ぜっ返してくる気がする。それもまた何となく引っかかるものがあった。 いつものレンであればもっと気まぐれ的と言うか、子供の悪戯のような他愛無さを感じるはずなのだが……先ほどから少女は、からかう言動とは裏腹にあまり楽しくはなさそうな──── 「もう、エステルったら。頭を使うなんて慣れないことはするものじゃないわよ? 今度はエステルが知恵熱で倒れても知らないんだから」 「だーかーらーねー、さっきから何だってそう……」 言いかけて、不意にエステルは言葉を切る。疑問符を浮かべるレンを眉根を寄せてじーっと見つめ、これまた唐突に口を開いた。 「ねぇ、レン……アンタ、やっぱり無理してない?」 瞬間、ぴくん、と、レンの肩が僅かに跳ねる。 だがすぐに少女は大袈裟にため息をついて、呆れたように肩口の髪を払った。 「やぁねエステル、本当に突拍子がないんだもの。レンのどこが無理をしてるって言うのかしら?」 ついさっきまではぎくしゃくとしていたはずの言葉、表情。なのに急に滑らかに、あまりにも“いつも通り”なレンの姿になった。そう、エステルが謝ったその後から。 ────また、だ。 また、レンは自分には甘えようとしない。どこかで一線を引いて、負担をかけまいとする。 確かに自分では頼りにならないことはわかっていた。けれどここで見過ごしては、また同じことの繰り返しだ。あんな後悔をしないためにも、もっと積極的にレンに関わっていかないと……! 「どこがって……そういうところがじゃない。 ……レン、あたしは、レンの家族でいたい。もっとレンに関わっていきたい。だから───聞かせて欲しいの。アンタが、何をそこまで抱え込もうとしてるのか……」 それは、決して軽い気持ちで口にしたわけではなかった。少女から逃げないために、知っておくべきことだと思った。そしてそれならば、誰かからの口伝で聞かされるよりは、レン自身の言葉で聞きたいと思っただけ。 だけど。けれども──── 「………………どうでもいいじゃない。そんなこと」 一瞬だけ。 ひどく、傷付いたように瞳を揺らして。 拒絶の響きを以って、少女はエステルの問いかけを切り捨てた。 「レ……、レン、」 「レンにはエステルが何を言っているか理解できないわ。 確かにレンが、エステルたちに対して思っていること、望んでいること、そういうのがあることは否定しないわよ。だからレンは二人に、パパとママになって欲しいってお願いしたんだもの。 でも、それってエステルが知る必要のあることなの? レンが思ってるだけじゃいけないの? レンは今のままでいいんだから、話したって意味が無いでしょう?」 エステルの言葉を遮って、冷たい声音で断ずるレン。零下を灯す金耀の眼は、二度とさせまいと心に決めたはずだったモノ。 ……だって、そんなふうにしている時に。レンが本当に幸せそうだったことなんて、一度だってなかったのだから。 「ま、待ちなさいよレン……! 意味が無いなんてことないでしょ? 今言ったじゃない、あたしたちに望んでることがあるって……だったらなおさら、あたしにそれを話してくれれば……」 「だから、今のままでいいって言ったんじゃない。エステルはエステルのままで充分なの。何度も言わせないで」 これ以上話すことはない、とばかりにぴしゃりと言い切る少女に、エステルは言葉を詰まらせる。 目の前で閉ざされようとしている心の檻を、どうしたら止められるのだろう? 容易く氷解させられるほど、生易しい闇ではないことはわかっていた。だけどそれでも少しぐらいは、その深淵にいる少女に手が届いたと思っていたのに────…… 「レン……!」 何を言っていいのかわからないままま、少女の名を叫ぶ。けれど返って来たのは、それさえ掻き消す叫びだった。 「いい加減にして! エステルこそ、いったい何をしたいのよ!? レンは今しあわせよ、エステルとヨシュアと一緒にいられて嬉しいの! レンがそれでいいって言ってるんだもの、なら……それで、いいじゃない……!!」 ────痛いのは。 それが、レンにとって本当に、嘘偽りない真実であること。 二人と共にいられることを、少女は本当に幸せだと思ってくれている。だからレンはそれ以上を望まず、エステルもまた、術を見失うのだ。互いに描く ────────じゃあ、何が? 何と何が違うから、こんなふうに傷付け合ってしまうのだろう……? 「レン……」 「……悪いけれど、レンはもう眠いの。これ以上レンには言うべきことはないもの。今日は休ませて」 一方的に話を切って、レンは再びベッドの中に潜り込んでしまった。 少女の体調がまだ不完全なのは事実だ。そう言われては話を続けることも出来ず、エステルは言葉を失ったまま、静かに席を外したのだった。 |
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