Brightness. #3
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3/ ───翌朝。 ひどく落ち込んだ様子でホテルに戻って来たエステルに頼まれ、ヨシュアが工房の医務室を訪れたところ、そこにいたレンもまたひどく落ち込んでいるようだった。 「おはよう、レン。……あんまり気分は良くはなさそうだね」 「……ヨシュア……」 覇気のない瞳を上げ、レンは寝台からのろのろと起き上がる。少女の額に手を当て自身のそれと比べると、熱はほとんど引いているようだった。しかし身体ではなく精神の方は、昨日よりさらに参ってしまっているようだ。 「…………、朝はもう食べたかい? 冷たい飲み物を買ってきたから、良かったら飲んで。少しはすっきりすると思うよ」 言いつつヨシュアは手に提げていた袋の中から、ドリンクの容器を取り出して少女の方に差し出す。曖昧な表情のままそれを受け取るレン。ストローを差し、一口含むと、香草の爽やかな香りが口の中に広がった。 「……………………」 自身もパックの牛乳を啜るヨシュアを、レンは物言いたげに見遣る。その視線に気付いたか、何?と穏やかに問い返す彼に、レンは気まずそうに目を逸らしながら口を開いた。 「……レンのこと……怒らないの?」 「僕が? どうして?」 「だって! ……レンは、エステルを傷付けたわ」 そう、自責するように呟く少女に、ヨシュアは思わず苦笑を浮かべた。不謹慎だとは思うのだが、何しろ彼はそれとよく似た台詞を、昨晩エステルの口からも聞いているのだ。……あの子のことを傷付けてしまった、と。 「レンは、自分が怒られるようなことをしたと思ってるのかい?」 「あ……当たり前だわ。エステルは悪くないもの。ただ……、レンは…………」 きゅっと唇を噤み、ドリンクの容器を握り締めるレン。表面に浮いた雫が一粒、少女の指先を濡らす。 昨日の夜、二人の間で何があったか────エステルの口から、ヨシュアもまたそれを聞き及んではいた。互いを想い合うが故の衝突。ままならないものだと思う。誰だって、傷付くのは嫌に決まっているのに。 柔軟そうに見えて、この少女もたいがいに意固地なのだ。たった一言を素直に口にするだけでずっと楽になれるだろうに……それが口に出来ないのも、また無理はないことではあるのだが。 ベッドサイドの椅子に腰掛けつつ、ヨシュアは優しくレンの瞳を見つめる。少女の不安を、少しでも和らげるように。 「レンがもし、悪意を持ってエステルを傷付けたなら、それは叱らなくちゃいけないことだ。 でも、そうじゃないよね? レンにはレンの守りたいものがあった。もちろんその結果として今こういうことになってるんだから、レンに落ち度がなかったわけじゃない。でも、それはエステルも同じことなんだ。エステルにだって悪いところはあった。 ……僕に出来たことがどうしてレンには出来ないんだか。そこだけは、ちょっと妬いてるけどね」 「…………?」 よくわからずぱちぱちと目を瞬かせる少女に、ヨシュアは小さく笑みを浮かべ、寝乱れた髪を手櫛で梳いてやる。それから柔らかく頭を撫でると、レンは嬉しそうな困ったような、複雑な表情で俯いた。 「叱る必要があるならそうするよ。でも、レンはもう自分が間違えてしまったことに気付いたんだよね? 何を間違えたのかはまだわからなくても…… それならわざわざ、そんなことをしたくはないな」 そんなに心が狭いように見えてるかな?と言って苦笑を浮かべ、ヨシュアは空になったパックを袋に戻した。納得しきれない表情のままストローに口を付けるレン。冷たい飲み物が喉を過ぎると、それでも確かに、少しは気分が落ち着くような気がした。 「……ねぇ、ヨシュア……レンはね」 言葉を切り、しばし黙り込む。ヨシュアはただ静かに、少女が続きを口にするのを待った。 たっぷりと間を空けた後────レンはぽつりと、けれどどこか強い意思を込めて言葉を漏らす。 「わたしは……それでも、エステルを汚したくないの────」 * * * 遠い碧空に薄く広がるうろこ雲。 まるで水面のようにも見えるそれを見上げ、エステルは一つため息をついた。 「……はぁ……」 中央工房の屋上、昨日も同じように眺めた光景。しかしその心情は、昨日よりもいっそう重苦しさを増していた。 ……いつか、こうなってしまうのではないかという予感は、確かにあったと思う。自分の未熟さが、レンを傷付けてしまうのではないかという危惧は。だからこそそうなる前に何とかしてくて……焦って、結局はその予感を現実のものとしただけ。 何がいけなかったのか。何が足らなかったのか。そして、これからどうすればいいのか。自問し続けてきた答えなき問いが、ぐるぐると頭の中を巡る。 レンは今までと同じでいい、と言ったが、ここで素知らぬふりが出来るほど良くも悪くもエステルは器用ではない。無論のこと今さらレンを手放すなどという選択肢は論外だ。そんなことは出来るはずもないし、レンだって自分たちと一緒にいたいと望んでくれている。……だからこそ、わからなくなってしまうのだった。 「……レンは……あたしたちに何を求めてるの……?」 好きだから、一緒にいたい。 それはひどく単純で、最も根源的な理由だけれど、それだけではないのだ。エステルでさえそうなのだから、レンのように頭が良く複雑な少女であるならなおさらだろう。レン自身もあの時、エステルたちに対して望んでいることがあると言っていた。 だが結局その内容については、少女は語ることを拒んだのだ。まるでエステルにそれを聞かせることが、何より望ましくないと言うように…… 「……………………」 幾つかの違和感。 どこかズレた認識。 ────果たして、本当にそうだっただろうか……? 自分は何も聞かされておらず、レンはただ拒絶しただけだっただろうか。自分は本当は、とっくに答えを知っているのではなかったっけ……? 「難しいことじゃないよ。その答えはもう、エステルは知っているんじゃないかな」 そんな彼女の胸のうちに、不意に答える声があった。 エステルが驚いて視線を下げると、そこにいたのは言うまでもなくヨシュアだ。家族であり相棒であり、恋人でもある少年の言葉に、エステルは目を瞬かせる。 「ヨ、ヨシュア……、あたしがもう答えを知ってるって……」 「うん。あとは君がそれを自覚するだけだね」 穏やかに微笑む少年の顔を呆然と見返すエステル。……そう、何も難しいことなどない。生憎と彼女には、物事を難しく考えることは向いていないのだし。 ヨシュアはエステルの隣に腰を下ろし、同じように空を見上げる。 女神と謳われた大いなる青は、きっとこんなふうに過去も未来も、その終わりまで黙したままで見届けるのだろう。 「レンがああして何重にも覆い隠している哀しみや歓びを……君が全て理解する必要はないんだ。はっきりと言ってしまえば、君に理解することも出来ない。もちろん僕にだって無理だ。 レンは一人でそれを背負っていく覚悟をもう決めているよ。それに負けてしまうほど、あの子は弱くないだろう? だからエステル───君が理解すべきことは、たった一つだけでいい。それさえ君はもう、君の中に持っているんだ」 言ってから、ヨシュアは小さく苦笑を浮かべる。偉そうに言えたわけではないけれど、と。 「ごめん、何だか説教するみたいになっちゃったね。そもそも最初から僕がしっかりしていれば、こんなことにはならなかったんだし……君やレンのことをどうこう言える立場じゃないな」 「そ、そんなことないわよ! ヨシュアがいてくれなかったら、きっとあたしもレンももっとひどいことになってたと思うわ……」 「……ありがとう。……本当はさ、……僕も怖かったんだと思うよ」 どこか遠くを見るような琥珀の瞳。自嘲気味に呟かれた言葉に、エステルは思わずえ、と小さく声を漏らす。 怖い────って。それじゃあつまり、自分たちは揃いも揃って…… 「今回の件で一気に表面化したっていうだけで……レンがエステルに対して線を引こうとしていることが、そのままじゃあの子のためにはならないことは前々から理解ってはいたんだ。引き金になった風邪のことにしてもそうだけど……僕がもっと早くエステルにも相談していれば、ここまで拗れることはなかったかもしれない。憶測で口にするのはレンに悪い、なんて、ただの言い訳だ。 僕は単に、君たちの強さに甘えていただけなんだろうね」 “今のまま”が居心地が良いから……それを変えていくことを怖れたのは、ヨシュアだって同じ。どんなに落ち着いていて完璧に見えたとしても、彼とてまだ10代の少年に過ぎない。何もかもを過たず行動することなど、どだい不可能な話だ。 ただ彼の場合はほんの少しだけ、エステルより早くレンの願いを────いや、 「ヨシュア……」 なんと言えばいいのだろう。 そんな話をしているわけじゃないとわかっているつもりなのに、どうしてか、ひどく可笑しくて────不思議なほど嬉しく感じてしまうのは。 自分も、レンも、ヨシュアも……みんなして怖がって、間違えて。足りないところだらけなのは最初から承知の上だったけれど、それにしたって拙すぎる。 だけど、だからこそ……一緒に幸せになりたいと、その想いだけは僅かにも揺らいではいないのだ。 「……あはは。何だかもう……って感じよね。あたしたち、何やってるんだろ?」 「うん、何をやってるんだろうね。エステルはそれをなんて呼びたい?」 ふっと微笑む少年に、エステルは言葉を詰まらせる。 このちぐはぐで不器用な関係をどう名付けるかなんて……考えたこともなかったけど、つまり……? 「え、……と……」 考え込んでしまう少女に、ヨシュアは思わず苦笑する。だからそんなのは、考え込むような難事ではないというのに。 だがエステルが答えを見出すより早く、 「お姉ちゃんたち、大変っ!!」 勢いよく開かれた扉の音によって、彼女の思考は中断されたのだった。 「ティ、ティータ!?」 「大変って、何かあったのかい?」 息を弾ませて飛び込んで来た金髪の少女に、驚きつつも素早く立ち上がるエステルとヨシュア。はぁ、と、大きく肩を上下させながら、ティータは弱り切った瞳で二人を見上げる。 「た、大変なの……レンちゃんが、医務室からいなくなっちゃったって……!」 「えッ……!? ほ、本当なの!?」 「う、うん。さっきミリアム先生が様子を見に行ったら、ベッドが空っぽになってて……それで工房の人たちにレンちゃんを見なかったか訊いたら、カルデア隧道の方に行ったのを見たって人がいて……!」 呼吸も整えないまま齎された報せに、エステルは愕然として言葉を失う。 公道として整備されているとは言え、カルデア隧道は魔獣の徘徊する洞窟だ。空路の発達した今となっては人通りもほとんど無い。いくらレンが元≪執行者≫だからと言っても、病み上がりの身でそんなところへ行くなんて楽観できる状況ではない……! 「どうしよう、お姉ちゃんっ……」 「ど、どうしようってすぐに捜しに行くに決まってるでしょ! レンはまだ体調が完全じゃないんだから……!」 「うん、一刻も早く連れ戻した方がいい。朝見た時は熱はだいぶ引いていたみたいだけど……いつまたぶり返しても不思議じゃない。いくらレンでもそんな身体で、暗い隧道の中を武器も持たずに一人で歩くのは無茶だ」 ヨシュアもまた険しい表情で頷く。その隣で、エステルはぎゅっと手のひらを握り締めた。 どうしてレンは一人でそんなところに……いや、何故かなんて考えるまでもない。居た堪れなくなって、行く当てもなく飛び出してしまったのだろう。そこまであの子を追い詰めてしまったのは自分だ……! 自責に苛まれそうになる心を無理矢理にでも切り替える。そんなつまらないことは後でいい。今は何よりも、早くレンを見つけ出さないと……! 「それじゃ早く行きましょ、ヨシュアっ!」 こくりと頷き返すパートナーと共に、エステルが駆け出そうとした時。 不意に、ティータが彼女を呼び止めた。 「……待って、お姉ちゃん!」 「っ……? な、何? ティータ」 こんな時になんだろう、と振り返るエステルを、ティータはじっと見つめる。その目には先ほどまでの不安げな色とは違う、糾弾するような鋭さと、祈るような真摯さが込められていた。 「お姉ちゃんにとって……レンちゃんは、何?」 「えっ?」 唐突な質問にエステルは目を瞬かせる。だが、ティータに冗談や思い付きを言っているような雰囲気はない。こんな状況で意味の無い質問を訊ねてくるとも思えないが、少女の意図するところが分からず、エステルは困惑気味に答える。 「何って……レンは家族よ」 自らそう返答して、……しかし、何故だかひどく違和感を覚えた。 口にして初めて気付いた引っかかりに、エステルは微かに眉を顰める。対してティータは首を横に振って、そうじゃないよ、と、きっぱりと言い切った。 「家族なんて、そんな曖昧な言葉じゃダメ。 だって一口に家族って言っても、色んな種類があるんだよ? おやこ、きょうだい、ふうふ……全部がレンちゃんに当てはまるわけじゃない。レンちゃんが望んでいるのは一つだけだよ。 ……ね、お姉ちゃん。それでもレンちゃんは『家族』? もっと単純で、簡単な答えがあるんじゃないかな」 真剣な眼差しに射抜かれ、息を呑むエステル。そう聞かされた瞬間────脳裏には、いつかの記憶が蘇る。 『……わたしは、カゾクじゃいやなのっ……』 ────呆れられるのは当たり前だった。 傷付けてしまうのは当然のことだった。 レンが何を求めていたかなんて、一番はじめに聴いたじゃないか。それを、どうして今まで忘れていたのだろう……? 『……パパとママが……いいの……』 覚悟が足らなかった。あの子のためを思っていたつもりで────何より、肝心なところを誤魔化していた。そんなことでどうしてレンの心を知りたいなんて言えたのか。レンははじめから、答えしか言っていなかったのに……! 『……パパとママじゃなきゃ、いやなの……!』 ────────あたしだって。 レンの、お母さんになりたい────…… 「きっとレンちゃんは、お姉ちゃんとお兄ちゃんのことを呼んでるよ。 ……呼び止めちゃってごめんなさい。レンちゃんと一緒に帰って来るの、わたし待ってるから……!」 * * * わたしは汚れている。 気が付いたのは、もう、いつのことだっただろう。 わけのわからない人たちにわけのわからないことをされて。その汚れを拭うために全身を血に染めて。我に返ればもうめちゃくちゃで、もともと自分がどんなモノだったのかも思い出せなくなっていた。 だから……綺麗なものに憧れた。 そんなことをしたって汚れた自分がどうにかなるわけではなかったけれど、そういう存在がいてくれることは、自分にとって『救い』だったのだ。 ────きれいなエステル。 お日様みたいに眩しくて、あたたかなひと。誰からも愛され、望まれた それがわたしの深みに触れ、汚してしまうことが、わたしには耐えられないのです…… 希望という名の十字架────自分のことを理解してくれるヨシュアと、自分のことを照らしてくれるエステルと。二人と一緒にいられたなら、きっと自分は本当の自分として強くなれる。だから、それだけで充分だった、はずなのに。 「……ほんとうは、ちがったのね……」 胡乱な頭のまま、ふらふらと暗い岩肌の地面を歩く。 カルデア隧道の深部、鍾乳洞へ至る道すがらに、レンの姿はあった。覚束ない足取りのまま、少女は当てもなくただ壁沿いに進んでいく。 思考はすでにばらばらで、何を考えるべきかも定まらない。ただ医務室で休んでいる時、不意に気が付いてしまったことに堪らなくなって飛び出した。そのまま闇雲に走って、こんなところまで来てしまったのだ。 「…………はぁ」 頭がぐらぐらして視界が回る。熱くて寒くて、気持ちが悪い。あぁこれはまたぶり返したな、なんてことを、他人事のように理解する。 けれど工房に戻るという選択肢さえ思い付けずに、冷たい岩壁に手を付きながら進むレン。 周囲には時折、魔獣と思しき影がちらついている。常なら歯牙にもかけないような相手だが、こんな状態で襲われては対処しきれない。見つからないよう岩陰へと移動しようとした瞬間、ぐらりと平衡感覚が崩れた。 「きゃ、っ……」 足を置いた場所がずるりと滑る。 がくん、と身体が傾き、咄嗟に伸ばした手は空を切る。熱のためか体勢を立て直すことも出来ないまま、小さな身体は暗がりの穴の中へと転げ落ちた。 「ッ……!!」 バランスを崩したまま片足から倒れ込み、眉を顰めるレン。そのまま尻餅を付くように滑り落ちて、ようやく落下は止まってくれた。 「……っ……、あ……」 少女の身体がすっぽりと隠れるほどの、岩間に開いた小さな空洞。その中に落ちてしまったのだ、ということを理解するのにも、数瞬の時間を要した。 さして深いわけではない。立てば頭が覗く程度のもの。抜け出すことは容易い、……はずだった。これが普段であれば。 「痛っ……」 ズキン、と痛む足首。どうも足を踏み外した際、おかしなふうに捻ってしまったらしい。おまけに体調はますます悪化していて、意識が朦朧とする。穴から出ることはおろか、立ち上がろうとすることさえ苦痛だった。 「っ……、どう、しよう……」 行き止まりの壁際にあることもあって、まず人目には付かない位置だ。そもそもこんな隧道からも外れた場所では、人が通ることすら滅多にあるまい。魔獣に襲われる危険性は少なそうだが、だからと言って気楽に救助を待てるような状況でもないだろう。途方に暮れて、レンは自分が足を滑らせたところを見上げた。 ……自業自得と言えば確かにその通りだ。体調が万全ではないことも、ここが安全な場所ではないことも分かっていて、勝手な都合から飛び出した。無理をして風邪をこじらせたのだって自分の責任だ。その上心配してくれたエステルたちにひどいことを言って、挙句の果てにこの様である。情けなくていっそ腹が立つ。 「ほんとうに、どれだけ迷惑をかければ気が済むのかしらね……罰が当たったんだわ」 ずきん、ずきん、と熱を持った足首を押さえ、レンは自嘲的に首を振る。だが、そうとわかってはいるものの────胸を突く心細さは、抑えようがなかった。 暗くて寒くて痛くて、ひとりぼっちで────……まるであの 「…………パパ、ママ…………」 言ってはいけない。 口にしてしまえば、きっと止められなくなってしまう。 だけど、苦しくて。どうしようもなくて、ぎゅっと胸元を掴む少女の唇が、とうとう音を零す。 「………………たすけて…………」 ────その願いが、届かないことを知っている。 かつて何度繰り返したか知れない切望。そして、ただの一度として叶えられることのなかった絶望。 だからずっと、それだけは口にすまいと決めてきた。言ってしまえば、どんな願いさえ叶わなくなるような気がして。けれど──── 「……たす、けて…………」 求めずにはいられない弱さが胸を焼く。瞳から零れ落ちる雫が、堰を切ったかのように痛みを溢れさせた。 「っ、ふぇ……ぇ、うわあああぁぁぁぁぁぁぁん……!! たすけてよ、たすけてっ……パパぁ、ママぁ……!」 ぼろぼろと涙を零す少女に、もはや≪執行者≫であったあの面影はない。道端で転んで、父母の手を求めて泣きじゃくるただの子供と同じ。 でも、その手が伸ばされることはないと知っている。どんなに待ち続けても叶いはしない。世界は、少女を置き去りにしたまま遠くへ行ってしまった。 欲しいのはただそれだけなのに。 それ以上何も望んでいないのに。 それさえ叶わないなら何もない。わかってるわかってる、だけどそれでも……!! 「──────見つけた、レン」 見開かれた少女の目の前に。 ずっと求めていたものが、ただ、当たり前のように差し出された。 「────────」 呆然と目の前の手のひらを見つめ────そして、レンはゆっくりと視線を上げる。 暗い洞窟の中にあってなお、眩く輝く太陽のいろ。息を切らせながら、それでも暖かに微笑む顔。 「…………エステル、ヨシュア…………」 自分は夢でも見ているのではないだろうか。……そう思ってしまうほど、少女にとってそれは奇跡のような瞬間で。おそるおそる紡がれた名に、彼らはほっと安堵の表情を浮かべた。 「良かった……ほら、掴まって。すぐに出してあげるわ」 「立てるかい? エステル、僕も手伝うよ」 言ってヨシュアは空洞の中に降り立つと、レンの身体を抱え上げる。その熱さに僅かに顔を顰めながら、エステルと共に少女を穴の縁まで引き上げた。 「大丈夫? だいぶ熱いわね……早く工房に戻らないと」 「足の方も痛めてるみたいだ。レン、少し見せて……、レン?」 言葉を返さない少女を二人は怪訝そうに覗き込む。瞳に涙を溜めたまま、泣き出す一歩手前の表情で、レンは小さく首を振った。 「ど、して……二人が……」 か細い問いかけに、ますます二人は眉をひそめる。何を言うのかとばかりに首を傾げ、レンの身体を支えるエステル。 「どうしてって……アンタがいなくなったって聞いたから、慌てて捜しに来たんじゃない。まぁ、すぐに見つけられたのは不幸中の幸いね」 「ルーアンの方に行くとは思えないからね。鍾乳洞まで入られてたらどうしようかと思ったよ……助かった、とは言い難いけどね」 苦笑を浮かべヨシュアはレンの片足から靴を脱がせ、捻ったらしい右の足首を取る。そしてウェストポーチからコールドスプレーと包帯を取り出すと、手早く患部を冷やしてテーピングを施した。 「とりあえず応急処置はしたけど……工房に帰ったらちゃんとした治療を受けないと。また熱も上がってきてるんだ、今度こそ無理はしないようにね」 強めの語調で言うヨシュアに、まったくよ、と頷くエステル。そんな彼らを交互に見つめて────レンの瞳から、再びぽろりと雫が溢れた。 「……ちが、うのっ……そうじゃないの、だって……だ、てっ……」 小さくしゃくり上げながら、ふるふると首を横に振る。 だって、あの言葉は……あの 「…………ばかね、アンタは」 言葉を続けることが出来ず、泣きじゃくるレンをエステルはそっと抱き寄せる。腕の中の少女は本当に小さくて────あぁ、最初からこうしていれば良かったんだと、あれほど悩んでいたのが嘘のようにすんなりと理解できた。 「親が子供を助けるのは、当たり前のことでしょ?」 だから何の気負いもなく、当然のこととして口にする。 息を呑む気配。微かに強張る背中を、穏やかに撫で付ける。 今この瞬間、レンが何を思ったのか。まったく気にならない、と言えば嘘になるけれど、もう何も怖くはなかった。だって、レンは今ここにいる。……それだけで充分なのだから。 「……っ……、エステル……ヨシュアぁ……」 小さな手が背に回され、ぎゅっとエステルの服を掴む。そして──── 「パパっ……ママぁ……!! こわかった、こわかったよぅ……!!」 堰を切ったように溢れ出す嗚咽。きつく抱きつくレンを、エステルは労わるように優しく抱きしめ返す。 心中を満たすものは、ただ腕の中の少女への愛しさだけだった。気まぐれなくせに強情で、意地悪なくせにお人好しで、計算尽くかと思えば無垢だったり、大人びているのにとんでもなく子供だったり。そのすべてがホンモノで、そのすべてを愛している。 君がいつかこの手を必要としなくなったとしても、変わらずにずっと────……それを、ようやくわかったから。 幸せになりなさい。 それ以外は、何も要らない。 * * * 「ねぇ、レン」 レンを連れ、カルデア隧道から中央工房へと帰る道中。 ヨシュアの背に揺られ、少々気恥ずかしそうな……それでいてどこか幸せそうなレンに、エステルは言葉をかける。泣き腫らした瞳を上げ、レンは彼女へと視線を向けた。 「……なぁに、エステル」 「レンがあたしに、どういうあたしを望んでるかは、正直今もよくわからない。けど確かにそれは、あたしが知ったって意味のないことだったのよね。そこのところはレンの方が正しかったと思う」 昨晩の言い争い。突然の話題に、レンは微かに表情を曇らせる。 「そんなこと……、もういいもの。あれはレンだって、」 「もちろん、レンが正解なのはここまでよ。あとはお互いさま、ね」 言って少女の言葉を遮り、エステルは苦笑を浮かべつつ軽くウィンク一つした。きょとんと目を瞬かせ、困惑した表情を浮かべるレン。 「あたしは結局、どこまで行ってもあたしにしかなれない。レンが望んだ通りになるかもしれないし、ならないかもしれない。どっちにしたってそれは『あたし』で、レンの思う『エステル・ブライト』じゃあないわ。────レンが、あたしの思う『レン』ではいてくれないみたいにね」 当たり前と言えば当たり前のこと。わかってはいても、相手を想うあまり自らの中に理想像を築き上げ……そこから外れた現実を否定する心理は誰にでもあるものだろう。それが必ずしも間違っているわけではないけれど、それに囚われて視野を狭めてしまうのは真逆だ。 エステルの望んだ『レン』と、現実のレン。 レンの望んだ『エステル』と、現実のエステル。 互いに少しずつ違っていたものを無理に擦り合わせようとして、却ってぶつかり、傷付け合って……最後に残ったのは、ひどく簡単な答えだけだった。 「…………あ…………」 微かに息を呑んで、レンはエステルを見つめる。しかしエステルもヨシュアもそれ以上は何も言わず、愛しむように微笑んだ。 ────『人の心までは自由にはできない』。 ────『レンのために都合よく変わってくれるものでもない』。 そう、とっくに言われていたことだった。なのに自分は、本当は全然わかっていなかった。 理解したつもりになって、自分の中の彼女の姿ばかりを守ろうとして。そんなの何も変わっていない。いつから自分は……自分だけじゃなくて、エステルまでもをニセモノにしようとしていたんだろう────? 「……わた、し……っ」 声を詰まらせ、レンはヨシュアの背中に顔を埋める。ぎゅっと服を掴んでくる少女に、ヨシュアは諭すように優しく口を開いた。 「思い詰めなくてもいいんだ、レン。今回は僕たちにだって到らないところはたくさんあった。それが君の負担になってしまったのは事実だと思う。 だけど、それでも僕たちは君の……、本当の両親になりたいって思ってる。どんな まっすぐに告げるヨシュアの声音は、まるで当たり前のことを言うように穏やかなものだった。それに、ますます強く背中にしがみ付く少女の耳が赤く染まっているのは、熱のせいではないだろう。 「……ヨシュアってば、よくそーゆー恥ずかしいことをしれっと言えるわね〜。さすがって言うか、なんて言うか」 「エステルに言われたくないな……、って、レン、ちょっと苦しいよ……」 服が後ろに引っ張られて首が絞まりつつある少年の姿に、あはは、と笑うエステル。こんな何気ないやり取りがひどく久しぶりのように思えて、安らいだ気持ちでレンは再びヨシュアの背中に身体を預けた。心地良い振動と微かに感じる心音、そして安堵の想いからか、急速に意識が揺籃の内に沈んでいく。 「…………ほんとうだわ。だってレンは、最初から…………」 こんなに安らかな気持ちで目蓋を閉じるのはいつ以来のことだろう……ツァイスに来てからまだ二日しか経っていないはずなのに、何だか上手く思い出せない。でもそんなこと、今はどうでもよくて。 「さいしょから……ふたりは、わたしのパパとママだったもの………………」 この時だけでも、心から満たされたまま。 レンは、ゆっくりと眠りの淵に落ちていった。 |