Do you know the angel whereabouts? #1
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0/ inferno ────雨の音が、ざぁざぁと五月蝿い。 薄汚れた石造りの廊下を、一人の少年が足音も立てずに歩いていく。 年の頃は二桁に届くか届かないか。あまり見ない 人里離れた場所にある建物だからだろう、辺りはひどく静かだ。聞こえる音と言えば、哭くように降り頻る雨音くらいなもの。先ほどまで聞こえていた耳障りな悲鳴も断末魔も、今はもうどこにもない。 ────雨の音が、ざぁざぁと五月蝿い。 別に雨が嫌いなわけではない。雨音は多少の物音なら消してくれるし、気配も悟られにくい。何より雨に晒されれば血が洗い流せる。 今回にしても敢えて雨の日を決行日に選んだのだから、雨音が耳に付くのは当然のことだ。その程度のことで感情が動くわけでもなかったけれど、ただ、まとわりつくような雨垂れが少しばかり煩わしかった。 ややもせず、彼は突き当たりの部屋へ辿り着く。 扉の前で気配を探り、中に敵意のある者がいないかどうか確認してから、少年───ヨシュア・アストレイはゆっくりと扉を開けた。 ──────例えるなら。 それは、朽ちた虫籠のような部屋だった。 薄っぺらな布一枚だけを身に付けた少女たちの群れ。 うずくまり、あるいはぐったりと横たわっている彼女たちはいずれも幼い子供ばかりで、そして一様に生気がない。双眸は昏く沈み込み、中には────すでに、“壊れて”しまっているものもいる。 だがその中で、一人だけ様子の違う少女がいた。 年の頃は他の娘と変わらないし、身に着けた布きれ同然の服、顔や身体のあちこちに付いた痣も同じ。細い首にはまるで絞められたような痕さえ残っていたが、ただ彼女だけが、その金耀石の瞳に正気らしきものを宿していた。 「────その娘か」 背後から声が聞こえる。 肩越しに振り向けば、頭一つほど上にくすんだ銀の髪を持つ青年の顔。彼の接近には無論気付いていたが、表情を見て初めてわかったこともあった。青年は室内を一瞥し、その秀麗な眉を僅かに顰めている。 ……それが正常な反応なのだろうな、と、ヨシュアはどこか他人事のように意識した。 「こんにちわ。お兄さんたちはどこの誰?」 その時、不意に少女が口を開いた。ぬいぐるみをしっかりと抱きしめたまま、ぴょこりと立ち上がり二人の訪問者の前に立つ。 返り血を浴びた見知らぬ人物にもまるで怯えた様子もなく、少女は愛らしい笑みを浮かべて言葉を続けた。 「ひょっとしてお兄さんたちが、いじわるな大人たちをやっつけてくれたのかしら?」 この廃棄場のような虫篭の中で、この少女だけが活力を持ち、そして今の状況を的確に把握している。その事実が彼らを僅かに驚かせ、同時に納得させた。彼女こそがこの犯罪組織を潰した理由───≪身喰らう蛇≫が欲した娘。 「ああ。この施設にいた他の人間は、全員死んだよ」 少女の問いかけに答えたのはヨシュアだった。 彼女はそう、と、どこか拍子抜けしたような表情を浮かべ、いきなり手にしていたぬいぐるみの背を裂く。 「じゃあ、もうこれはいらないのね」 人形の中にあったのは、綿に包まれた瓶詰めの薬品。少女はそれを綿の中から取り出すと、ぽい、と床へと放った。 かしゃんと音を立てて瓶が割れ、中の液体が石畳の上に広がる。微かな異臭。暗殺術に特化されたヨシュアは、無論その手段の一つとして薬物も学んでいる。だからそれが、日常的に手に入るものを使った────致死性の毒だと、理解できた。 「残念ね、せっかく準備していたのに。 ちゃんと全員殺すにはもう少し詰めないといけなかったから、ちょっとケイカクが早まっただけだと思えばいいけれど」 悪戯が見つかった子供のように、少女は無邪気にくすくすと笑う。それはあまりにも異常な光景だった。 確かに少女のやろうとしたことは正当防衛と言えるし、自分を守るにはそうするより他になかっただろう。そこに善悪は問えない。彼らにそれを問う資格もない。 だがそれでも───この泥の底で、なお妖精めいた可憐さを保ったままドブクズに馴染む少女はなんなのか。寝覚めの悪い夢のように、ちぐはぐなまま溶けている。 背綿を引きずり出されたままのぬいぐるみを抱え直して、少女は彼らに微笑んだ。葡萄酒色の髪を揺らし二人の顔を覗き込む。 「───“助けて”くれてありがとう、お兄さんたち。 それで、ここに何のご用があるのかしら?」 言外に。 自分たちも殺すのかと、金の瞳が問いかける。 「……こちらの指示に従うのなら、僕たちが危害を加えることはないよ。これから君たちには、ある組織に入ってもらう」 「ソシキ?」 「……行けば分かる」 端的に答えるヨシュアに、ふぅん、と、少女はどこか他人事のように呟いた。どうせもともと、行くところもないのだから。 他の少女たちにもついて来るように促して、彼らは踵を返す。その耳朶を、 「────せめてここより、痛いことが少なければいいのに」 雨音に溶けて掠めた、呟きには気付かないふりをしたままで。 |
[ d a u g h t e r . ] |
1/ shadow of Eidos ──────結果から言うのなら。 その少女は、天才であった。 分野を問わず教えれば教えるだけ吸収し、自分のものとしていく能力。頭の回転が速く、悪戯好きの子供然とした性格ながら状況を客観的に分析・把握する能力。複数の思考を同時に行い、自身と周囲を制御する能力。 同年代の子供はもとより組織内の大人さえ凌ぐほどの性能を、彼女────レンと名乗った少女は持っていた。 だがそれらはレンが生来持っていたものではなく、後天的に培われたものだ。レンが有していた才能はたった一つ、その他の能力は、そこから副次的に派生したものに過ぎない。 ────自己を保ったまま、あらゆる環境に適応する。 少女は、そんな才能に特化していた。 置かれた状況を速やかに理解し、その中で自分を守るための最善手を行う。≪身喰らう蛇≫という巨大な組織の中で、少女の才能 ≪結社≫に入って僅か一年足らず、ついに少女は≪執行者≫と称される特別な存在の候補に挙げられるまでに到るのである。 * * * 「わぁ……! このお洋服、本当にレンが貰ってもいいの?」 室内に並べられた何着ものフリルドレス。≪執行者≫候補になったことによりレンに与えられた個室で、少女は嬉しそうに隣の青年を見上げた。 「ああ。どれでも好きなものを着るといい」 微かな笑みを浮かべて、アッシュブロンドの青年は少女の頭を撫でる。レンが今着ているものは≪結社≫の訓練服であり、以前よりははるかにマシとは言えやはり少女の着るものとしては相応しくない。フリルやリボンをたっぷりとあしらった可愛らしい衣服に、レンは瞳を輝かせる。 「嬉しい! こんなお洋服を着るの、おうちにいたころ以来だもの」 椅子の上に広げられていた一着を手に取って、レンは自分の体に合わせた。軽やかにターンする少女の動きに伴って、スカートの裾がふわりと広がる。 「ねぇレーヴェ、似合うかしら?」 「……ああ、そうだな」 悪戯っぽく笑って訊ねる少女に、レーヴェと呼ばれた青年は小さく頷いた。だが、その端正な顔に浮かぶ微かな翳りに、果たして彼女は気付いただろうか? 「レンはよく頑張ったからな。……このまま行けば、一年と経たずに≪執行者≫になることも出来るだろう」 途端、それまでくるくると楽しげに踊っていたレンの動きがぴたりと止まる。 手にした服をぎゅっと抱きしめて、彼女は微かに目を伏せた。 「……ちがう。レン、別にがんばってるわけじゃないわ。 ただ痛いのや怖いのは嫌だから、痛くされないようにしてるだけだもの」 言って、レンはぷいと顔を背ける。 ……無論、彼女の言うようなことは誰にでも出来ることではない。それでもレンにとっては、それは「痛いことや怖いこと」をされないための手段でしかないのだろう。 優秀すぎる自己防衛能力。少女の境遇の中その力があったのはせめてもの救いだったのか、あるいは────その能力ゆえの、高すぎる代償なのか。 「もう、せっかくレーヴェが褒めてくれたのに、そんな話じゃつまらないわ。 それよりレーヴェ、≪執行者≫ってどんな感じ? レーヴェもヨシュアも≪執行者≫なのよね?」 持っていた服を椅子に向かって投げ捨てて、拗ねたように見上げてくるレンに彼は思わず苦笑を浮かべる。 「……そうなるな。場合にも寄るが、少なくとも待遇は今よりもさらに良くなるだろう。望めば大抵のものは与えられるし、組織内での権限も強い。基本的には命令に従う義務もなくなるな」 「ほんと?」 「ああ、嘘を言ってどうなる?」 肯定するレーヴェの言葉に、少女は何か思案するように黙り込んでしまった。その表情からはいつもの幼さは消え、何の感情も窺えない。 「……なら、レンも≪執行者≫になるわ。そうしたらレーヴェやヨシュアとももっと一緒にいられるし、それに」 そこでいったん言葉を切って、レンは本当に一瞬だけ、泣きそうな瞳を浮かべ。 「……レン、ほんとのパパとママが欲しいの」 祈りにも似た、夢見るような笑顔で願った。 「────────」 「レーヴェとヨシュアはレンに構ってくれるけど、レンを守ったりはしてくれないでしょう? レンは、レンのことをいつでも、どんなことがあったって守ってくれるホンモノのパパとママが欲しい」 ……優しくて大好きだった誰か。 ……守ってくれなかった誰か。 どんなに泣いても助けてくれなかった。あんなにもいっぱい呼んだのに、迎えになんか来てくれなかった。 だから、恨むより先に諦めた。きっとあれはニセモノだったのだと。 割り切って、自分のことは自分で守るようにしてきたけれど、それだけじゃ寂しかった。今では助けなんて必要ないくらいに強くなったけど、胸の空白を満たすにはまだ足りない。夜は暗くてこわいから、ぐっすり眠るための確かな頼りが欲しい。 「ね、レーヴェ。レンが≪執行者≫になって≪盟主≫にお願いしたら、パパとママをもらえるかしら?」 レーヴェがいて、ヨシュアがいて、本当のパパとママがいて。 そうなったらきっと自分は、世界一しあわせな女の子になれるに違いない。 無邪気にそう訊ねるレンに、レーヴェは微かに眉を寄せる。故郷を───最愛の人を失った時から、女神の采配を呪わない日はなかった。 ……世界は公平ではない。 幸福を享受する者の裏で、数え切れぬ無念が生まれては消えていく。 覆し難い不平等。誰かが幸せになるためには、誰かが不幸にならなければならない等価交換。 それこそがどうしようもない“現実”だと、人間とはその無念を飲み込んで生きていかなければならない生き物だと、そんなことは知っている。 だが、それなら────捨て置かれた想いは、果たしてどこへ行けばいいのだろうか。 だから修羅に成ろうと決めた。 貴い死が怠惰な生に食い潰される、その欺瞞を受け入れて生きていくのが人間だと言うのなら、人間ではないモノになろう。無念を無念だけで終わらせないように、喪われたものを風化させないように、……彼女の面影を、永遠に留めておくために。 「ああ、そうだな───いつか得られるだろう」 いつか、という言葉に首を傾げる少女を、彼は静かに見遣る。 特別なことなんて、何も望んではいないのに。 求めたのはどこにでもあるような、ただありふれた幸福だけ────なのにどうして、そんな当たり前の願いばかりが、手の中からこぼれ落ちていくのだろう。 |
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