There is not the rain which does not stop. part-A
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[ r a i n b o w . ] |
エレボニア帝国東部、河川敷に沿って伸びる街道を、湿った風が吹き抜けていく。 晴れていれば絶好の散歩コースにでもなるだろう道のりだが、天気は生憎の曇りだった。鉛色の空にざわざわと木々がそよぎ、白く波立つ水面はくすんだ色に沈んでいる。 今にも泣き出しそうな空の下、街を目指して小走りに駆けて行く二人の少年と少女の姿があった。 「はー……雨が降り出す前に着けてよかったわ」 乱れた前髪を軽く直して、少女は肩で息をする。それに、隣の少年───ヨシュアもまた、軽く呼吸を整えてから頷いた。 「そうだね、このぶんだと予定より早く降り出しそうだ。早く届け物を済ましておこう」 街道の先には、ここクロイツェン州の中心都市バリアハートの東口が見える。そこにある某企業の支社に、急ぎの書類を届けるのが今回の依頼だった。肝心の届け物が雨で濡れるようなことがあってはならない。 ますます暗くなり始めた空を見上げていると、不意にたち込めた雲の奥で光が疾った。 「あ……光った」 遅れて、遠くでゴロゴロと音が響く。まだずいぶん離れてはいるが、紛れもない雷鳴だった。 「まずいな、急ごうエステル……って、君は何をはしゃいでるのさ……」 微妙にうきうきとした様子で曇った空を仰ぐエステルに、ヨシュアは呆れたようにため息をつく。……そう言えば昔から、この少女は雷が鳴ると妙に面白がっていたのだった。外で遊べないという理由で、雨自体は嫌いなのだが。 「えー、だって何かわくわくしない? こう、すごいこと起こりそうな感じで」 「しないし、そんなのは起こらない方がいいんです。……普通、女の子って雷とか怖がるものなんじゃないかな……」 まぁ、エステルらしいと言えばエステルらしいのだが。入口の門を潜りつつ、とにかく急いで、ともう一度提案しようとしたところで、ヨシュアははっとして彼女に手を伸ばした。 「エステル、避け────」 「え?」 きょとんとして振り向くエステルに彼が注意を促すより早く、横から飛び出してきた子供が、めいっぱいエステルと激突する……! 「あぅっ!?」 「きゃあぁ!?」 どんっ!という音と共に、それぞれ逆方向へ吹き飛ばされるエステルと少女。それでも体格の差か鍛え方の違いか、エステルの方は数歩たたらを踏む程度だったが、少女の方は思いっきり尻餅をついてしまう。 「い、いきなり何……って、大丈夫!?」 慌ててエステルは少女の方へと駆け寄る。状況がよく飲み込めていないのか、女の子は痛そうに腰をさすりながら、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせていた。 「ごめんね、怪我はない? 僕がもっと早く気付くべきだったんだけど……」 転んだ少女に手を差し出しながら謝るヨシュア。それに、少女は痛む表情を堪えてこくんと頷く。体重の軽さからか、幸い怪我らしいものはないようだった。 「あたしこそ不注意だったわ。……立てる?」 両方から手を出されて少女は一瞬戸惑うようにきょろきょろと二人を見比べたが、やがてもう一度頷き、結局は両手を支えてもらって立ち上がった。 「え、えっと……ちょっと痛いけど、だいじょうぶ。ぶつかっちゃってごめんなさい」 ぺこりと頭を下げると、紅茶色の巻き毛がふわりと跳ねる。年の頃はまだ5、6歳ほどだろう、服装のためか人形のように可愛らしい女の子だった。長い睫毛に縁取られたサファイアブルーの瞳。 「────……?」 その、どことなく見覚えのある面立ちに、エステルは小さく首を傾げた。ちらりと傍らの少年の様子を見れば、彼もやはり僅かに眉をひそめている。パンパン、と少女のスカートに付いた砂埃を払い落としながら、エステルは少女の顔を覗き込む。 「?」 小首を傾げ、疑問符を浮かべる少女。その表情の作り方はやはり薄っすらと覚えがあるのだが、同時に間違いなく初対面だとも感じられる。出所不明の既視感に、エステルは思い切って訊ねてみた。 「ねぇ、……どこかであたしたちと会ったことってある?」 自慢ではないが、人の顔と名前を覚えるのは得意なのだ。もしも何かで関わっているのなら、忘れることはないと思うのだが…… しかし少女はやや困惑したような表情で、ふるふると首を横に振った。 「ううん、しらないわ……わたし、外国に来たのはじめてだもの」 そう答える少女に、そっか、とエステルは曖昧な笑みを返した。少女がリベールの出身とは思い難いし、彼女らも他国で訪れたことがあるのは帝国だけだ。やはり気のせいなのだろうか……理由もわからず、ただ何かが胸の奥に引っかかっる。 「そうか……ごめんね、ヘンなこと聞いて。ずいぶん一生懸命走ってたみたいだけどどうかしたのかな」 少女の目線に合わせるように膝を折るヨシュア。けれどその問いかけに、途端、少女は心細げな顔で俯いてしまった。 「……えっと……わたし、パパとママとはぐれちゃったの。それで……」 「……そうなの?」 「うん。だから、パパとママをさがさないと……おにいさん、おねえさん、おじゃましちゃってごめんなさい」 もう一度ぺこりと頭を下げて、少女は二人の横をすり抜け駆け出そうとする。────それを、エステルは思わず呼び止めていた。 「あ……ちょ、ちょっと待って!」 きょとん、として振り向く少女。再びそのそばに駆け寄りながら、エステルはヨシュアに手を合わせる。 「ごめんヨシュア。悪いんだけど、あたし……」 「うん、わかった。荷物は僕が届けておくよ」 みなまで言わせず頷く彼に、エステルは感謝するように微笑んで少女に向き直る。 「……おねえさん?」 「えへへ、転ばせちゃったお詫び。あたしも一緒にあなたのパパとママを捜したいんだけど……どう?」 腰を屈めて笑いかけるエステルに、少女の表情がかすかに明るくなる。 ……エステルには、やはりどうしてもこの少女のことが気になったのだ。それを無視してはいけないと、彼女の直感が訴えている。 「ほんと……? おねえさん、いいの?」 「モチのロンよ! あたしたち遊撃士は、困った人がいたら助けるのが仕事なんだからね。 ね、あなたの名前を教えてくれる?」 胸元のブレイサーバッジを見せて、エステルは軽くウインクを一つ。それに少女は、初めて明るい笑顔を見せた。 「───うんっ。わたしのおなまえはね、レインっていうの!」 / 届け物をヨシュアに任せ、エステルとレインは少女が両親とはぐれたと言う大通りを歩いていた。 州の中心都市だけあってバリアハートの街はかなりの広さがある。こんな小さな子供が親とはぐれたりしたら、さぞ心細いことだったろう。天候のためか人通りは少なく、道に並んだ屋台などは片付けを始めているところもあった。 「ねぇレイン、お父さんやお母さんとはぐれたのはどのくらい前なの?」 大通りの一角、可愛らしいぬいぐるみ等がディスプレイされた商店の前で、エステルは訊ねる。なんでもここでショーウィンドウを眺めているうちに、両親を見失ってしまったらしい。 「えっと、んっと……カミナリが光るちょっとまえくらいだったとおもうわ」 「そっか。じゃあまだそんなに経ってないのよね。向こうも捜してるとは思うんだけど……」 はぐれてからだいぶ経っているようなら、ギルドの方に届出が出ているかもしれない。しかしまだそれほどではないとなると、自分たちだけで捜しているとしても不思議はなかった。よもやはぐれたことに気付いてない、ということはないだろうが…… 「お父さんとお母さんがどこに行こうとしてたか……とか、知らない?」 「……ううん。おしごとで来たのはしってるけど、よくわからない」 駄目もとで聞いてみるが、返ってきたのはやはり否定の言葉だった。ふるふると首を横に振るレインに、そうよね、と内心ため息をつく。仕事で来ている……とは言っても、この大通りだけで幾つも商店が軒を連ねているし、北街区の方へ行けば大手企業の建物などもあるという。ちなみにヨシュアが向かったのもそうしたうちの一つ、帝国娯楽産業における最大手企業のクロイツェン支社である。 もし外せない取引などで建物の中にいたりすれば、さすがに見つけることは難しい。やはり一度ギルドへ行っておくべきだろうか? 「うーん……雨が降ってきたら行けばいいか」 「? おねえさん、どこか行くの?」 「うん、お父さんとお母さんがレインを捜すのを、遊撃士に依頼してるかもしれないでしょ? だから後でギルドにも行ってみないとっていうこと」 そう説明するエステルに、しかしレインはやや表情を曇らせて、 「でも、えっと……ブレイサーさんにおねがいするにはミラがいるのよね? パパとママ、あんまりおかねもちじゃないから、おねがいしないかも……」 と、控えめに口にした。 「あ、そ、そうなんだ……」 思わぬところで立ち入った事情を聞いてしまい、気まずそうに視線を逸らすエステル。その彼女の手を、レインはくいくいと引っ張った。 「で、でもね、レインのおたんじょうびにはちゃんとプレゼントもくれるし、いつもとってもやさしいの。レインはパパとママのこと大好きよ? かぞくだもん……」 懸命に訴えようとする少女に、エステルは明るく笑ってレインの頭を軽く撫でる。そんな当たり前のことは、言うまでもないと教えるように。 「もう、心配しなくても大丈夫よ。レインのこと見てれば、大事にされてるんだなーってわかるもの」 言って、何かがちくりと胸を刺した。 ────そう、そんな『当たり前』のことが。 どうして、あの少女には与えられなかったのか──── 湧き出た行き場のない感情は、果たして何故だったのか。それこそ当たり前の少女の言葉に、どうして急に、彼女の影を思い出したのだろう? 自問自答を辛うじて押し留め、エステルは笑みを作りレインの手を引く。今は少女の両親を捜すことが先決だ。……彼女のことを考えるのは、その後でも遅くはないはず。 「さ、行こうレイン。とりあえず大通りから見て回って、それからヨシュアと合流しよう」 レインの両親がどういった仕事をしているのか分からない以上、総当りでいくしかない。それとも向こうもレインを捜していると仮定して、子供が行きそうな場所から見ていくべきか。大通りではぐれたということは、西街区か北街区に行こうとしていたのは間違いないのだろうが……場合によっては、郊外の飛行船発着場まで足を伸ばすことになるかもしれない。しかしいずれにせよこの天気では─── 「きゃっ……!」 そんなことを思ったとき、再び空に雷光が瞬く。続く轟きは、先ほどよりも確かに大きくなっていた。 「大丈夫、レイン?」 「う、うん……」 雷が光った瞬間エステルにしがみついてきた少女は、びくびくとしながら曇天を見上げた。それほど近くではないが、重く覆う雲の奥からはまだごろごろと低い音が響いてくる。 「このぶんじゃ、いつ降り出してもおかしくないわねー……やっぱり一度ギルドへ行って、雨宿りさせてもらおうか」 軽く屈んで、ね?と少女に承諾を求める。こくり、と小さく頷くレイン。 「……そう言えば『レイン』って、確か雨って意味だったわね」 「え……う、うん。でもパパとママは、あめって意味でレインのおなまえをきめたんじゃないっていってたわ」 「そうなの? じゃあどんな意味なのかな」 雨という意味でなければなおのこと、何らかの理由があっての名前なのだろう。少女の言い回しからもそれが窺える。振り返って訊ねるエステルに、レインはにこにこと笑みを浮かべて手のひらに綴りをなぞった。 「レインのおなまえはこう書くのよ。あめ、じゃないでしょ?」 どれどれ、と覗き込むエステルの前で、少女の手のひらの上に6つの文字が書き込まれる。子供らしい少しばかり稚拙な筆跡で綴られた名前。R、E、I、………………頭の中で思い浮かべたそれは、いつかどこかで見た名前と、よく似た並びをしていた。 「………………ぁ」 頭の奥で、何かがちかちかと明滅しているみたいだ。偶然だと断ずることの出来ない既知感が、エステルを見上げる笑顔に帰結する。そう、思えば最初に会った時から、ずっと“似ている”と感じていた。 「……? おねえさん、どうかした────あっ……!」 訝しげに首を傾げたレインが、急に、ぱっと顔を明るくする。そしてエステルの横をすり抜けて、彼女から見れば後方になる方向へと駆け出した。 「パパ、ママ……!!」 声を歓喜に潤ませて、ぱたぱたと走っていく少女。背後からは、やはり駆け寄ってくる二つの足音が聴こえた。 「レイン……! 良かった……」 「ああ……心配したよ」 安堵が滲む男女の声。振り返るのがたまらなく怖い。だってきっとこの予感は正しくて、でも、だからこそ確かめなくてはいけないこともわかっている。 ネジの切れかけた人形のように、ゆっくりと振り返るエステル。ただ体を半回転させるだけの動作が、こんなにも苦しかったのは初めてだった。 視界に映るのは、抱き合う少女と女性、そしてその傍らに膝を付いている男性。どこにでもいそうな親子の姿は、けれどやはり、ひどく見覚えのあるものだった。 「────ああ……、そっか……」 それも当然と言えば当然だった。以前にエステルは、彼らの姿をした“ ……むしろ、もっと早く気が付いても良かったはずだろう。面影のある顔立ちも、どこか通じる雰囲気も、 「あっ……おねえさん、パパとママみつかったよ……!」 少女の言葉に、男女───レインの両親がエステルを見る。二人は立ち上がると、彼女に向かい小さく会釈した。 「娘を保護して頂いたそうで、ありがとうございます……心からお礼しますわ」 「遊撃士の方ですね? 本当に助かりました」 優しげな眼差しも、品のいい振る舞いも、いつか見たそれとまるで変わりがない。僅かに加齢は感じられたが、その容貌に遜色はなかった。……なら、それは、一層に残酷なことではないのだろうか……? 「おねえさん、ありがとう!」 ぺこり、とお辞儀するレイン。髪の色も瞳の色も、母のそれによく似ている。父のものは、────…… 「…………ううん……お父さんとお母さんが見つかって、良かったわ……ね……」 息苦しささえ感じながら口にした言葉は、あまりにも皮肉で。吐きたくなるような後悔を、エステルは爪が食い込むほど強く拳を握り締めることで堪えた。 穏やかに微笑み合う仲の良い親子。どこにでもある、平凡でありふれた幸福のカタチ。その中心に、かつて別の少女がいたことをエステルは知っている。 ────レン・ヘイワーズ。 今はもういなくなってしまった一人の少女。 目の前の男女────ハロルド・ヘイワーズとソフィア・ヘイワーズの間に生まれた一人目の娘であり、そして、彼らを偽者と断じることで己を守る孤独な少女のことを。 * * * 届け物を済ませたヨシュアがギルドを訪れた時、そこにエステルらの姿はなかった。 外はすでに雨が降り始めている。バリアハート支部の受付係に訊ねても、彼女たちは来ていないという返答しか得ることは出来なかった。 あのレインという少女の両親を捜す途中、雨に降られどこかで雨宿りでもしているのか。よもや街の外に出るわけでもあるまいし、雨で立ち往生しているくらいならば心配するほどのことでもない。そう考えもしたが、ヨシュアはやはり二人を捜しに行くことにした。 ……もし、彼の推測が当たっていれば。 あのレインという少女は、おそらく──────…… 「っ……ずいぶん雨脚が強くなってきてるな……」 ギルドの扉を開けて、降りしきる雨にヨシュアは軽く舌打ちする。横殴りと言うほどではないが、視界を狭めるのには充分な雨量だ。こんな中、エステルたちはいったいどこにいるというのか。 目許を庇うように腕でひさしを作り、ヨシュアは雨の大通りに飛び出す。当然だが道行く人の姿はほとんどない。ばしゃばしゃと水溜りを跳ねて走っていくと、目当ての人物は意外にもすぐに見つかった。 「…………エステル……!」 白く煙る大通りの真ん中で、傘も差さず一人立ち尽くす後ろ姿。髪も服も重く水を含み、よほど長いことここでそうしていたことを覗わせる。エステル・ブライトには似つかわしくもないその寂しげな姿に、何があったのか、察することは難しくなかった。 「……エステル。こんなところで傘も差さずにいたら、風邪を引くよ」 自身もすでにびしょ濡れになりながら、ヨシュアは彼女の傍らに立った。 しかしそれでもエステルは俯いたまま顔を上げようとしない。ただ小さく、首を左右に振った。 「……だめ……ヨシュアは、先に戻ってて……あたしは……もう少し、ここにいるから……」 「エステル……」 何を言っているのか、とは言えなかった。 濡れた髪が張り付く横顔。目許を覆う前髪から、ぽたぽたと水が滴っている。引き結ばれた唇は、何かに耐えるように震えていた。 「……そうか。……やっぱり、 僅かに視線を逸らすヨシュアの言葉に、エステルの肩がぴくりと震える。そしてようやく、彼女は少しだけ顔を上げた。 「……気付いてたんだ、ヨシュア……」 「うん……確信はなかったけど、少し似ていたから。……もしかしたら、とは思ってた」 「そうなんだ……あはは、……あたしは、気が付かなかったよ。リベールで顔も見てたのに、名前の綴りを聞くまで理解ろうとしなかった……」 自嘲的に笑うエステル。あの後どうやって彼らと別れたのかさえ記憶に残っていない。 ……おそらくは。その名を呼ぶ彼らの声を、聴きたくはなかったから。 「…………何よ……レ“イ”ンって……」 打ちつける雨は、ますますその勢いを増していく。 「なんなのよ……っ……、そんな、……そんな名前付けるくらいなら、どうしてレンを手放したのよ……!」 痕が残るほど強く腕を握り締め、エステルは叫んでいた。……そう、絞り出すような声であっても、それは間違うことなき“叫び”だったのだ。 そんなことを言ったところでどうにもならないことは、エステルとてわかっている。レンの両親が望んでレンを手放したわけではない。ただ抗う力がなかっただけ。それはレンの語った話からも、彼らの様子からも、何よりレインという名からも覗うことが出来る。 ヘイワーズ夫妻がレンを取り戻そうと努力したかはわからない。いずれにせよ半年後、レンを拘束していた組織は≪ 二人はそれを嘆き、残った金銭で慎ましく暮らしながら、少しずつ傷を癒し───やがて新しい子を授かる。そして過去は忘れ、せめて今度こそ……と生きていくことを、責めることは誰にも出来ない。悲しみを留め続けるのは、だってとても疲れることだから。 ────そんなことは、わかっている。 でも。 だけど。 わかっているけれど、悔しかった。 じゃあ、取り残されたレンはどうなるのか。自分なんかが及びもつかない闇の中で、きっと今でも助けを待つ少女はどうすればいいのだろう。 ただ、世界が回っていた。少女の知らないところで、少女を置き去りにしたまま、世界だけが。 ……そんなのは。 あんまりにも、哀しすぎるじゃないか──────…… 「っ……う、っく……っ……」 いつからか、エステルの頬を雨ではない雫が濡らしていた。 声を押し殺し咽ぶ彼女を、ヨシュアは静かに抱き寄せる。……あるいはそうすることが、彼にとっては涙と同じ意味を持つのかもしれなかった。 「エステル……泣かないで」 「……っ……て、ないっ……泣いてなんか、ない……! だって……だって本当に泣きたいのは、あたしなんかじゃないでしょぉ……!?」 ヨシュアの肩に顔を埋め、駄々をこねるようにエステルは首を左右に振る。小刻みに震える肩を抱いて、ヨシュアは色のない空を仰いだ。 ……誰も悪くはない。 でも、それでは報われない。 無意味に消費されていく悲劇はある。それがどうしようもないものであることも、ある日突然、理由もなく幸福が終わりを告げることも少年は知っている。 ────そして決して、それが終端ではないことも。 生きている限りその先はあるはずだ。あの絶望の虫篭の中、人としてすら扱われずとも、少女は必死に生き延びようとしていた。生きることを放棄しようとはしなかった。 それは、きっととても強いことだ。死にたくない、という単純な願いは、失意の底で緩慢な死を受け入れた自分にとってこの上なく強烈だった。あの時の感情は、今も胸に残っている。 『この子が生きているところを見てみたい』 ……今でもレンはこんなふうに、厚く覆われた雨空を見上げて、彼方の陽射しを夢見ているのだろうか。 「…………あたし……レンのために、出来ることって、ないのかな……」 昂ぶった感情が少し落ち着いたのか、ぽつりとエステルは呟いた。 レンがこのことを────もう自分には還る場所がないことを、知っているかはわからない。かと言ってあの三人にレンのことを教えるのも、やはり躊躇われた。おそらくそれは、どちらもとても残酷なことだ。 すでに起きてしまったこと、失くしてしまったものは戻らない。じゃあ、これから少女が幸せになるために、してあげられることはあるのだろうか……? 「────違う」 あるのだろうか、じゃない。 「出来ることを、見つけるんだ……」 せめて少女が、ひとりで泣かなくてもいいように。 そしていつかレンが望む場所へ辿り付けるように────自分には、 「……エステル」 「うん───ありがと、ヨシュア。もう大丈夫だから」 言って、エステルは身体を離し顔を上げる。微かに目のまわりが赤くなっていたけれど、その顔は潔く力強かった。 ……そう、いつだって彼女は、そういうひとだったのだ。 「そっか。……それじゃあ、一度ギルドへ行って雨を拭こう。すっかりびしょ濡れになっちゃったからね」 「あー……そーね、さすがにちょっと冷えたかも」 初夏とは言えずいぶん長い間雨の中にいたせいで、身体は芯まで冷たくなっている。けれど寒さは感じなかった。おそらくは自分のことよりも、もっと気がかりなことがあったからだろう。 変わらず驟雨に臥した空を見上げる。 レンは今どうしているのだろう。鉄の巨人を傍らに、何処とも知れない場所を彷徨っているのだろうか。 ────せめてこの雲の下、冷たい雨にひとり凍えていなければいい。 そう祈って、エステルはゆっくりと踵を返した。 |
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